予習はしていても
街の人は、先生と呼んではいるけれど二言目には「厳しい」や「難しい」と言う。確かに難しい。私だっていまだに動向を窺いながら働いている。けれど。
家政婦に一部屋くれたり、お風呂を自由に使わせてくれたり、自由時間を与えてくれたり。失敗を咎めなかったり、ブランケットをかけてくれたり。
手を差し伸べて起こしてくれたり。
先生は無駄なことはしない。きっと、先生にとっては家政婦だからとわざわざ屋根裏をあてがったり、四六時中労力を求めたりすることは必要ないことなのだろう。
(それを優しさだと思うのは、オメデタ過ぎるでしょうか)
胸に広がる温かさをどうしよう。
「あはは」
だらしなく緩む頬を咎める人は、もう家の中。先生の手の感触が、手に残っていた。
「やっと着いた!何て田舎だ!」
一等車から降りたニゼア氏は悪態を吐いた。イライラが募り、車掌にベッドが固いだの朝食がマズイだの、思い付く限りの苦情をぶつけたがスッキリしない。
ふんふんと鼻息荒く駅から出て来た見慣れぬ派手な服装の男を、コートデューの街人たちは不思議そうに眺める。
ニゼア氏にとって、質素で張り合いの無い、さびれた街をぐるりと見回す。街も人も何の面白味もない。実際目の当たりにしたド田舎に、ルシルを置いておくことがいよいよ我慢ならなくなった。
「ルシル!どこにいる…!」
ニゼア氏は悲壮な声を上げ、愛するルシルを探し始めた。
「これでもないですねえ…」
「そうかい?でもこれで全部だよ?」
雑貨屋にて。私は並べられている香油石鹸の匂いを片っ端から嗅いでいた。ちょっと鼻がおかしくなった。
先生の使っている香りを探し当てようとしたのだが、「これだ!」というのが無い。雑貨屋のおばちゃんが「おかしいな」という私を「おかしいね」と言いながら見ている。
「今日は別のにしておいたらどう?」
「うーん、仕方ない…」
おばちゃんの言う通りにし、私は柑橘系の香りのする石鹸を買うことにした。
「毎度~」
おばちゃんの明るい声に返事をしながら店を出る。
帰りがけに商工会に挨拶して、と思った時、頭上をバサバサと鳥が飛んで行った。
「最近、鳥多いなあ…」
街の人がそう零しているのも何度か聞いた。先日うちの畑にもたくさんやって来たし。渡り鳥が来る季節なのだろうか。鳥に詳しくないのでよく分からない。
首を捻って歩いていると、今度は背後からタタタタタタと軽快な足音がいくつも聞こえてきた。
「ね…猫…!」
かなり最近似たような光景を見た。数匹の猫が群れをなして駆けてくる。どうしようかと狼狽えたものの、猫たちは私を避けて飛ぶように駆け抜けていった。
「わあ!猫だ!」
先を歩いていた街の人が、案の定猫のかけっこに驚いている。
「…先生の街の仲間が大暴れしていますが…」
猫の去っていた方を呆然と眺める。猫たちは直ぐに小さな点になって見えなくなった。
「ックシュン!クシュン!ッション!」
後ろから気の毒なくらいのクシャミが聞こえた。もしかして猫アレルギーだろうか。だとしたらあんなに多勢に通り過ぎられて辛かろう。
労わりの気持ちで背後を振り返り、そして。
「………」
血の気が引いた。
「ッルシ!クション!見つけ!クション!ハクション!」
殆ど何と言っているのか聞き取れなかったが、その人は間違いなく私の元雇い主。
(だ、旦那様…!!!!!!)
穏やかなコートデューの街が、いつになく騒がしい。運悪く広場に居たのが災いして、人々が遠巻きにこちらを見ている。原因は言うまでも無く。
「ルシル!さあ私と共に帰るぞ!」
元旦那様のニゼア氏がひとりで大盛り上がりしているからだ。もう症状が治まったのか、うんざりするくらいはっきり聞こえる。公衆の面前でここまでお構いなくできるのがもう本当に勘弁してという感じだ。
絶好調な元旦那様を前に、私はポケットにあるはずのメモに書かれた内容を思い出していた。
「悪いことをした!もう戻って大丈夫だ!」
(断固拒否の姿勢を崩さない)
「戻りません。決して。戻りたくありません」
しっかりとそう告げると、旦那様は目を見開いた。
「な、何を言っているんだ?そうか、不安なのか。大丈夫だ、あの女とはもう縁を切った」
(…感情的になってはならない)
あの女とはまさか夫人の事だろうか。うっかり「え!?」と言いそうになったが根性で堪えた。
「関係ありません」
冷静に返せただろうか。内心ドキドキでハラハラだが、ここは絶対に負けられない。なんとしても、絶対に諦めさせて一人で帰ってもらうのだ。
私の強い意思を察したのか、ニゼア氏は狼狽えた。
「どうしてそんなことを言う?君と私は愛し合っていたじゃないか!」
(おおおおお!?)
いきなりトンデモナイことを言い出すので、思わず叫び声をあげるところだった。何だそれは、初耳もいいところだ。
「…そんな事実はありません」
冷たく返せば、元旦那様は私に一歩近づいた。顔が強張っていて、目の焦点がどこにあるのか分からない。
(こ、怖!!!!!!)
一歩下がると、一歩寄ってくる。嫌なループに入ってしまった。しかし気持ちが悪いので距離を詰めたくないのである。
「いつも私に気を回してくれたし!」
(仕事の範疇でしか何もしていないけど)
「笑いかけてくれたし!」
(ひええ愛想笑いじゃないかな)
「ずっといてくれと言ったら『旦那様次第ですね』と!!!!」
(雇用の話だよ!!!!!)
大変な食い違いすれ違いにゾッとした。これは無理だ。絶対に無理。5,000,000,000歩譲っても無理。いやもう譲らない。
「旦那様」
そう呼ぶと、目の前の人は嬉しそうに目を光らせた。
「勘違いです。旦那様のことを好きだったことなど一瞬たりともございません」
「………」
ニゼア氏は両手を前に差し出しかけて固まった。
「は、はは…」
しかとニゼア氏を見据えていると、急に乾いた笑いを発し始めた。
「ふ、ふははははは」
異様な雰囲気を感じ取り、私はさらに距離を空けようと後ずさった。しかし、ニゼア氏は存外機敏に動き、私の腕を捕らえた。
(ぎゃああ)
ぎりぎりと強い力が腕を握る。痛みで顔が歪んだ。
「お前のために何をしたと思っている?あの女を追い出し、お前用の部屋も用意した。二人で使うベッドもシーツも新しくしたし、あとはお前が来るだけなんだぞ?使用人だって皆入れ替えたから安心しなさい」
言っていることがおぞまし過ぎて殆ど耳に残らなかったが、執事のレイヴンが一抜けしたことだけは分かった。羨ましいなどと思っている場合ではない。
「さあルシル!」
腕を力任せに引き、ニゼア氏は私を腕に閉じ込めようとする。
「いやああああ!本当にやめて!!!!!変態!!」
感情的になってはいけないのは重々承知だが、もう限界だ。生理的に、本能的に悲鳴を上げた。見ている人、気味が悪いのは分かるけど、ドン引いていないで助けて!
必死で抵抗しているが力比べも限度がある。体格的に私は圧倒的に不利だった。
(押し負ける…!)
ニゼア氏の胸板に顔が近づいた時。
ドオオオオオオオオオン……!
辺りに轟音が鳴り響いた。
「何だ!?」
「きゃああ!何!?」
さっきまで息を飲んでいた人々が騒ぎ始める。一人が叫びながら空を指さした。誰もがつられて空を見た。
(……)
先生の家のある方角で、黒い雲がとても不自然にモクモクと集まっていた。雲の隙間を稲妻が走る。今にも落雷しそうだ。
「うわあああ!熊だ!」
「トラよ!」
続いて、地上にも異変が起こった。
街の奥から、所謂猛獣と呼ばれる動物たちが列を成してこちらに近づいてきていた。熊、トラ、狼。可愛らしく森の仲間たちと呼ぶには唸り声が低過ぎる。
「あ、あれは…!?」
ゆらり、と陽炎が揺れたかと思えば、突如人影が現れた。頭上に黒雲を頂き、背後に獰猛な動物たちを引きつれながら歩いてくるのは。
「せ…先生…」
紛うことなく、うちの先生だった。
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