温かい手
あれから数週間。私の心配も他所に、誰の襲来もないまま時間が過ぎた。いつ来るのか分からない、そもそも本当に来るのかも分からない。
例のメモをいつもどこかのポケットに忍ばせ、準備だけは万端にしているが、どうにも不安で神経を使い、流石に疲れを感じてきた。
(大変大変、待ってる待ってる)
お風呂上りの先生がリビングに戻って来て、キッチンをちらりと見るとそのままソファに腰を下ろした。完全に飲み物待ち状態だ。
私はお風呂前に受注した飲み物を慌ててトレイに載せた。
「お待たせしました」
先生は無言でトレイを受け取る。ひとつ頷くと、階段を上がって行った。ペタペタと、裸足で歩く音がした。先生は裸足で生活する人なのである。
先生は変わらずきっちりとした生活を送っている。今日も時計を見れば20時。見事な時間運び。
(安定していて立派だよね)
私は無意識にため息を零した。この生活は絶対に維持したい。雇用条件的に最高だし、こんなに仕事が面白いのは初めてだ。
早く件の問題を解決したい気持ちはある。ただそれが相手の都合で先延ばしになっているのか、それとももうこの件はこれ以上何もないのか。それすらも知る術がないのだから困ったものだ。
「ぐううどうして私がこんなにキリキリしないといけないの…」
やりきれない思いが募り、むしゃくしゃする。
「お風呂!」
そんなときはお風呂に限る。私は部屋に戻ってバスセットを持ってくると、お風呂場へと向かった。
さっき先生が出たばかりなので、浴室はまだ湯気が残っていた。先生は出るときにお湯を抜いてしまうので分からないが、私はお湯に浸かってふやけたい派だ。先生の「好きに使っていい」という言葉を盾に、いつもお湯を張っている。
「使用人がお湯に浸かれるなんて本当にありがたい…やっぱりここは天国…」
ここに来るまで、仕えている屋敷の湯舟に浸かれたことなど一度もない。使用人用の簡素な風呂場には浸かれる大きさのバスタブは無い。
バスタブにお湯を溜めている間に髪と体を洗う。コルテスさんがくれた石鹸も大分減ってきた。甘くて優しい香りのする泡に包まれると身も心も癒される。
(先生も香油石鹸使ってるんだよね)
お風呂上がりの先生から良い匂いがする。この石鹸は種類がたくさんあるらしい。私とは違う匂いがするのできっと別の香りのものを使っているのだろう。
次自分で買う時は別の香りを試してみたい。本当は先生の使っている匂いが好きなので同じのが欲しいのだけれど、聞いて教えてくれるかどうか。そもそも聞いて大丈夫か。
「…自力で探すか…」
私の方が後にお風呂をもらうのだ、同じ香りを使ってもバレないだろう。きっと。おそらく。
たっぷりゆっくりお湯に浸かり、ホカホカでお風呂から出た。
「熱い…」
些か長く浸かり過ぎたのか、体が熱い。とてもこのままベッドに入ることはできかねる。
リビングのガラス戸を開けると、涼しい風が入って来た。
(気持ちいい)
数センチ、戸を開けたままにして、私はソファに座った。成程、これは快適。昼間に先生がたまにここで休憩しているわけだ。
先生の真似をして、そのまま横になってみた。
(あ、これはダメになる)
あまりの心地よさに、体の力が抜けてゆく。
「……」
気が付けば、私は意識を手放していた。
フィリスは真夜中、ルシルを発見した。ついでにガラス戸が開けっ放しなのも見つけた。
「……」
とりあえず、ガラス戸を閉め、施錠する。フィリスは顔をしかめてルシルを見下ろす。
「何をしているんだ、君は」
寝ているルシルに問いかけた。しかし、返事はない。静かな寝息を立てるばかりだ。
「……辞められては困る」
どうして、何故は必要ない。困る、という事実だけが全て。
フィリスはソファの隣に立ち、ルシルの若干痩せた頬を眺め、苛立ったように眉を寄せた。
朝日がカーテンの隙間から目に直撃した。
「~~~~!」
あまりの眩しさに顔を覆う。そしてハッと気が付いた。こんなこと、普段はあり得ない。自分が今どこにいるのかを認識し、私は絶望した。
「ッ!戸締り!!」
ソファから転がり落ちる様にガラス戸の方へ向かえば、きっちりと閉じられ、鍵がかかっている。
(先生だーーー…)
がっくりと床に膝を突いて、昨夜の失態に頭を抱える。
「つい、ついあのソファが悪魔的な心地よさで…」
後ろめたい気持ちでソファへと視線を移すと、そこにはまだ私に追い打ちをかけるものがあった。
床でくしゃくしゃになっているブランケット。
「………」
思わず絶句した。
(せ、先生か?え、嘘、先生が???)
私はその場に崩れ落ちた。先生がかけてくれたのだろう。だって他に誰がいる?いやいない。
呆れただろうか。こんなだらしない奴は不要、とか普通に言いそう。解雇検討の真っ最中だったらどうしよう。
寝起きから嫌な汗が噴き出した。
(ここで働き続けるために何とかしなくてはとほざいて、この様…!)
私は力なく立ち上がり、部屋の時計を見た。もう畑に水やりに行く時間だった。
農作業用の長靴に履き替え、桶に水を張る。柄杓で水を掬い、畑に撒いた。
「朝ごはんですよー」
いつもの声掛けもテンション低め。頭の中ではどれから謝ったらいいかの会議が開かれている。
「これで最後かもしれないから、たんとあげようね」
「何故だ」
「!!????」
心臓が口から飛び出た。
誰も居ないはずの朝の畑。どうして先生がここに。動悸と息切れ激しく、私は背後を恐る恐る振り返った。
「………」
朝日に髪を輝かせた先生が何とない感じで畑の際に立っていた。
私は固まり、先生を見た。怒っているでもなく、呆れているようでもなく、いつもの朝7時に階段を降りてくるのと同じ感じに見える。
耳の奥でドッドッと脈がダッシュする音が響いた。
「………」
「…………」
柄杓を片手に硬直する私と、何を考えているのか分からない目で私を見つめる先生。双方、どちらも動かない。
どちらかがアクションを起こすのか待っている。それはまるで動物が間合いをはかっているかのようだった。
先生は静かに佇んでいるだけなのに、絶対に勝てないどころか太刀打ちもできないと思わせる何かを醸している。紫色の目は少しも揺れることはない。
(な、何か言わなくちゃ…)
しかし喉が張り付いて動かない。
「………」
緊迫した場の空気を破ったのは私でも、先生でもなかった。
バサバサバサ、と複数の鳥が畑に飛来した。何事かと振り仰げば、足元にはいつの間にか数匹の猫。
(!!??????)
足を取られた私はバランスを崩して後ろにスッ転んだ。ドシャリと尻もちをつく。猫が「今だ」と言わんばかりにニャーニャーと私に群がって来た。
(し、幸せ……じゃなくて!)
一体何がどうしたんだ。何故突然畑に鳥の群れが集まり、猫がやって来た?意味が分からない。
色んなことに混乱して目を白黒させていると、目前から深いため息が聞こえた。先生は尻もちをついたままの私の前にしゃがみ込み、私と目線を同じくする。いつもと違う視界に私の心臓が跳ねた。
「行きなさい」
先生が一言告げると、猫たちは皆先生に体をこすりつけて去って行った。鳥たちも続いて飛び去って行く。何だったんだ。
「お、お友達ですか」
つい思ったことをそのまま言ってしまった。だって皆先生の言葉が分かったかのように…。
「…街の仲間たちだ」
笑っていいのかどうか、判断がつく程今の私は冷静ではない。
私が表情を完全に失って呆然としていると、先生は立ち上がりついでにこちらへ手を差し出した。
(…手を取っていいんでしょうか)
「……」
一か八かで手を伸ばすと、先生は私の手を掴んで引っ張り上げた。意外と力があってびっくりした。お爺ちゃんなのに。
「…すみません」
するりと自然に謝罪が零れる。一度口が利ければ、勢いがついた。今度は深々と体を半分に折り、「昨夜は申し訳ありませんでした」と謝った。
先生はジッと私の顔を見て、一言「ああ」とシンプルな返事をし、くるりと踵を返す。
(え!?終わり!?行っちゃうの!?)
相変わらず先生の意図を汲むのが難解過ぎる。私はスタスタと行ってしまう先生の背中に向かって声を上げた。
「ブランケット、ありがとうございました」
先生はやはり何も言わなかったが、前を向いたままスラリと手を挙げて応えてくれた。
(いいよ、ってことでいいんですかね…)
言葉がもらえないので、都合よく解釈するしかない。どうやら、解雇だけは免れたようだ。
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