不名誉な解雇
「この泥棒猫!!」
バチン、という鈍い音と共に頬が熱くなった。叩かれた、と追って頭が処理をした。
(成敗されるのは、私の方ですか…)
目の前で上げた手をそのままに、夫人は赤い顔で息を荒くして私を睨んでいる。夫人の背後では全ての元凶である主人のニゼア様が青い顔で立っていた。そんな私たちを、他の使用人たちが息を呑んで見守る。
「出て行きなさい!!!」
私が口を開く前に、夫人が声を高くした。弁明するつもりは無いが、もう何を言っても無駄だなと思った。
「…お世話になりました」
こうなった以上、私だってこの屋敷には居たくないし、居られない。
私は三年間雇われたニゼア夫妻に頭を下げ、荷物をまとめるために足早に屋根裏部屋へ向かった。同室のメイドが後から入って来て、悲しそうな顔をしてアレコレと慰めてくれたが、彼女が私と旦那様とのことを他のメイドと一緒に噂していたのを聞いてしまったため、あまり心に響かなかった。
私がトランクを一つ持って屋敷を出たのは、夫人に頬を叩かれてからほんの30分後のことだった。振り返った屋敷の窓からかつての主人がこちらを見ていた。
「さようなら!」
その忌まわしい視線から逃げる様に、私は駆け足で門を飛び出したのだった。
「おまたせしました」
「ありがとうございます」
晴れて無職になった私は、空腹を満たすために取り急ぎ街のカフェに落ち着いた。国で指折りの栄えた都市だけあって、周りはガヤガヤと賑々しい。
「いただきまーす」
ローストされたチキンと、胡麻のドレッシング。ザクザクと歯触りの良い葉物が挟まれたサンドイッチは今の私にとっては超ご馳走だ。何せ、収入元がなくなったのだ。
(次の職場を見つけなくては…)
口を動かしながらサンドイッチを置くと、私はトランクから地図帳を取り出してテーブルの上に広げる。コーヒーを一口啜ってため息を吐いた。
あんな形で解雇されたのに、この街に居続けるのはきつい。あの奥方のことだ、このまま矛先の違う刃物をいつどこで向けてくるか分かったものではない。比喩ではなく、本当に刺しに来る可能性もある。
身の安全を考えても、別の場所に移った方が賢明だろう。
「ドニアーズは…大きい街だけど、治安が悪いって聞くし…うーん、パッシルもいいけどちょっとここから近すぎるなあ…」
ブツブツと独り言を言いながら地図帳をめくる。
「穏やかに過ごしたい…どこか静かそうなところ…」
私ももう自立した24歳。先ほどのようなトラブルに見舞われた後ということもあり、賑やかな街よりも落ち着いて生きていける場所を心身が求め始めた。
「この路線の一番果ては…」
自然と私の目線は地図の端っこの方へと向き出した。
シュポシュポと汽車の蒸気が吐き出され、車輪の音が響く。車窓はさっきから野原や畑ばかり。ひたすらのどかな光景が続く。それだけでも、街から離れたことを実感した。
「切符を拝見します」
車両に現れた車掌に、私は切符を差し出した。
「コートデュー…終点ですか」
車掌は切符に書かれた行先を見て、目を大きくした。
「車中一泊ですが…個室でなくても?」
「あ、はい…大丈夫です」
返される切符を受け取りながら、私は苦笑いを返した。
私が目的地に選んだのは、元居た街から出ていた線路の一番先。もちろん遠いところだから、というだけでは選ばずに本屋に駆けこんで街の様子を調べた。小さい街だが、活気があり、自然に囲まれた住みやすいところ、とのこと。
ただ、昼から汽車に乗ったのでは本日中に着くことは不可能で、車中で夜を明かすことになる。到着は明日の正午過ぎだろう。勿論個室を取ることも考えたが、失業中の身である。おかげさまで退職金も出なかった。節約の二文字が脳裏で蠢き、諦めたのだった。
(終点に行く人なんて、きっと一握りだし、夜にはきっとこの車両一人になるでしょう…いや、なって)
半ば呪うような気持ちで私は日が暮れていくのを見守る所存である。
車掌は私の頼りない笑いを見て憐れんだのか、「後で毛布をお持ちしますね」と言ってわずかに微笑んだ。
(いい人だ…)
一礼して、次の乗客のところへ向かっていく背中がやけに頼もしく見えた。
夜、汽車の中は想像以上に真っ暗だった。私の呪いめいた願いは叶い、車両には私しかいなくなっている。だが、暗さと不気味さのせいで、却って自分一人なのが心細くて仕方がない。視界を変えるために、座席に寝っ転がって、車掌が持ってきてくれた毛布にくるまった。
(あったかい…)
ゴトゴトと揺れながら、窓の外を仰向けに眺める。昼間、通り過ぎていく木々はあんなに速く車窓を流れて行ったのに、夜空の星や月はいつまでもそこにあるように見える。汽車が速度を落としたのではないかという錯覚を覚えた。
ぼんやりと夜の空を見ていると、昼間の事がじわじわと蘇ってきた。
三年居たが、あまりいい屋敷ではなかった。街一番の名士という見栄から給金だけは良かったが、それだけである。メイド用の屋根裏部屋は狭くて埃っぽく、ネズミの足音が煩かった。
同僚も協力的ではなく、仕事の押し付け合いをするような連中だった。しかし、とりわけイマイチだったのは雇い主であるニゼア夫妻だ。
夫人はいつも気が立っていて、機嫌がマックスで悪いと物や人に当たった。疑り深く、いつも夫が浮気をしているのではないかと心配していたが、その割に自身は若い貴族などに目が無いという中々のお転婆っぷりであった。
それ以上に私に有害だったのは夫の方で、私が雇われて初めのころはそうでもなかったのだが、いつからかニゼア氏は異様に私に絡むようになった。
「かわいいね」だの「ね、今暇?」だのと、顔を合わせる度に声をかけられた。私はそのころには夫人が嫉妬深く、目をつけられたら厄介なことを知っていたので、全力でやんわりニゼア氏から遠ざかった。夫人のことを差し引いても、ニゼア氏と懇意になるつもりは毛頭なかった。
しかし、いくらこちらが「仕事がありますので」と一貫して断っていても、日々仕事の中に面白味を探している同僚たちの手にかかれば、私とニゼア氏の仲は「アヤシイ」関係にされてしまう。
そのせいかどうかは定かではないが、ニゼア氏からの「声掛け」は更に頻繁になったし、遂には手や腰を触られ、酷く不愉快だった。雇い主だから強く言わずにあっさりといなし続けていたのだが…。
それがいよいよ夫人の耳に入り、激昂した彼女が本日声を上げた次第である。
「…爆発したかったのはこっちよ…」
ギュッと目を瞑り、考えを中断させる。
(忘れてしまおう。これからの事の方が、大事なのだから)
心身の疲労が臨界に達し、固い座席に体を預けた。相変わらず人の気配はなく、ただ規則的な汽車の発する音だけが眠りに落ちるまで耳に残り続けた。
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