17
「ありがとうございました」
たった今、管理会社の人の立ち会いのもと部屋を引き払った。
この一ヶ月、叔父への挨拶や会社を辞める準備に部屋の片付けなど、とても忙しかったがそれも今日で終わりだ。
弥生は唯一の持ち物であるスーツケースとボストンバッグを持って近所の公園ーーあの日プロポーズされた公園へと向かった。 そこは普段から人気のない寂しい公園なので誰にも見られずに異世界に行くには丁度いいと思ったからだ。
だが誰もいないと思って着いた公園には人影がいた。それは弥生もよく知る人物で……
「和樹……」
ベンチの背もたれにだらしなく寄りかかり顔を赤くしている元彼の姿があった。
「弥生か」
「こんなとこでどうして……酔ってるの?」
いつもと違う様子に弥生が近づくと、和樹からは強い酒の臭いがした。
「その荷物……そうか、今日行くのか」
「う、うん、そうだけど……」
和樹と最後に顔を合わせたのは数日前、会社を退社した日だ。 その日は普通に同僚として他の人と一緒に別れを済ませた。 なのに何故彼がここにいるのだろう。 しかもこんなに酔った状態で。
「弥生……弥生……」
「ちょっと! 」
和樹は近づいて来た弥生を強く引き寄せると腕にかき抱いた。
「好きだ。 愛してるんだよ。 俺には弥生だけだ! 頼む、俺とやり直してくれ!」
「やめて、無理よ。 私はもう和樹とは付き合えない」
弥生は和樹の腕の中から抜け出そうと必死に身をよじるがびくともしない。
「何でだよ。 あの日まではそんな素振りなかったじゃないか。 他に好きな奴が出来たなんて、俺と別れたいための嘘なんじゃないのか」
「違う、本当に好きな人が出来たの」
「でも少なくとも、あの時まではいなかっただろ。 プロポーズしたあの時までは」
「それは……」
「弥生は他に好きな奴が出来て俺と付き合い続ける器用な真似なんて無理だ。 別れたかったらあの日、会った瞬間に別れを告げてるはずだ」
確かに弥生に和樹と別れる気はなかった。
むしろプロポーズを心待ちにしてすらいた。でも……
「いるよ。 好きな人」
「だから、それじゃおかしいだろ」
「本当なの。 でもその人とどこで出会ったのかは……きっと言っても信じてもらえないと思う」
「言えよ。 言ってくれよ! 」
「異世界で!」
声を荒げられたのでつい弥生も勢いで返してしまった。
「こんな事言っても頭おかしくなったんじゃないかって思われるのは分かってる。 でも私、和樹にプロポーズされた瞬間に異世界に行ったの。 そこでルーカスに会ったの!」
「異世界……」
「本当なの。 だから、これから異世界に……ルーカスの所に戻らなきゃ」
「なんだよ、それ。 異世界なんてある訳ないだろ!」
「あるの! 行って来たの! そこでルーカスを好きになったの!」
沈黙はほんの一瞬。
「……もし異世界なんてものがあったとして、ヤヨイは本当にそれでいいのか。 違う世界になんて行ったら、簡単にこっちの世界に戻って来る事は出来るのか? もし出来ないなら、ヤヨイはこの世界を捨てて行くって事だろ。 そうしたら友達と会う事も、ご両親の墓参りも出来なくなるんだぞ」
胸が痛い言葉だった。
それは弥生だって何度も考えた事だ。
何度も何度も考えて、あちらとこちらの世界を天秤にかけた。
こちらの世界の天秤に乗るのは弥生が生きてきた全て。あちらの世界の天秤に乗るのはルーカスただ一人だ。それでも天秤が傾いたのは……
「私ね、どっちを選んだってきっとまた迷う。選ばなかった世界を、相手を想って泣くと思う。でもね、どうせ泣くなら……ルーカスの傍で泣きたい」
そう思ったのが弥生の中でルーカスを選ぶ決定的な理由だった。
弥生は今度こそ和樹の腕の中から抜け出すと、首からさげていた魔法具を外して手に持った。
なんだろう。さっきから心臓がバグバクしてる。
ーー呼ばれてる。 何故だかそう感じた。
「ごめんなさい。 こんな一方的な別れ方しか出来なくて。 でも私、和樹と一緒に過ごした時間は幸せだったよ」
そして弥生は魔法具を地面に叩きつけると、その魔法具を中心に魔法陣が現れた。
「なっ、なんだよ! これ! 」
「ごめん、もう行くね! 」
「弥生!? 」
弥生は荷物を掴むとしっかりと抱え込んだ。
やがて光の渦に飲み込まれ、音も何も感じられなくなり、弥生の意識が一瞬だけ遠のいた。
………………。
……………。
…………。
………。
「あれ?」
次に弥生が目を開けると、そこは見た事もない景色だった。
森の中なのは分かる。 でもここは聖なる森と呼ばれた弥生が始めてこちらの世界に来た時にいた森とは違うと思う。 何故なら弥生が今いる場所のすぐ先にポツポツと家が並んでいたからだ。
「どこ? ここ……」
こちらの世界に来たら当然ルーカスの元へ行けるものと思っていた。 それが来てみたら見た事もない場所。
「ええー……」
なんかこう、思いっきり肩透かしをくらった気分だ。和樹に対する罪悪感と、ルーカスに会える期待で泣きそうになりながら世界を渡って来たのに。
「どうしよう」
携帯やGPSもないのにどうやってルーカスに連絡を取ったり現在位置を確認したらいいんだろう。
目の前に見える民家を訪問するのは安全だろうか。
「よし。 とにかく行ってみよう」
こんな所で迷っててもしょうがない。一刻も早くルーカスに会うんだ。 そう考えたら弥生の中で妙なヤル気が湧いてきた。
「前回は迎えに来てもらったけど、今回は私の方から押しかけてやるわよ。首洗って待ってなさいよ! ルーカス! 」
弥生は腰に手を当て、空に向かってビシッと指を突きつけると高らかに宣言をして第一歩を踏み出し……苔で滑って転んだ。
「痛たたたた、」
おかしい。今回はちゃんとトレッキングシューズを履いて来たのに。
決意に燃えた一歩目をコケるとか、幸先悪いんじゃないの。 ちょっと落ち込みながらも立ち上がろうとしたその時ーー。
ヒュンッッ
顔の横を何かが通り過ぎ、それは地面に突き刺さった。弥生は訳も分からずそれをよく見てみると、地面に刺さった何かは矢のようだった。
「何者だ」
次いで聞こえてきた声に、弥生は頭が真っ白になりながらもゆっくりと後ろを振り返った。
「ここがエルフの里と知っての進入か。 人間が許可なく立ち入るのは条約違反だぞ……ん? お前、もしかして異界の者か? 」
そこで弥生が見たのは、金髪に青い目、耳が長く肌が異様に白い美男子。 ゲームなどでよく見るエルフと呼ばれる者の姿がそこにあった。