16
「結婚してください」
眩い光の中、次に目を開けると辺りは暗く目の前には一人の男の姿だけ。その男の顔はルーカスよりも低い位置にあり、弥生は少し上を向くだけで目を合わせる事が出来た。
男は弥生が光に包まれていた事など分かっていない様子で指輪を差し出し少し緊張した面持ちで弥生を見つめているーーそう、弥生の彼氏だ。
(……戻って来れた)
本当に戻って来た。 弥生は今の自分の状況などお構いなしに彼氏の顔を見つめた。
約一ヶ月ぶり。 それほど長い時間ではなかったが懐かしく思うのは今までこことは全く違う世界にいたせいだろう。
「……弥生?」
いつまでも返事をしない弥生に彼氏ーー和樹は焦れたように名前を読んだ。
「あっ、ごめん。 びっくりして」
「弥生はこんな時もマイペースだな。 で? 返事は? 」
「………」
これを言えば確実に和樹を悲しませる。弥生はこの期に及んで躊躇う自分に嫌気がさした。
(言うのよ。 そのために戻って来たんでしょう!)
自分自身を叱咤して意気込む心とは裏腹に、その言葉は震える声で絞り出すように出た。
「……ごめんなさい」
瞬間、息を呑む音が聞こえた。
「ごめん、ごめんなさいっ……」
弥生は必死で頭を下げた。
「それは何に謝ってるの? 結婚出来ない事? それとも……」
「別れて欲しいの」
一度口から出てしまえば、あとは自然と言葉が続いた。
「ごめん。 和樹が悪いんじゃないの。 でも私は、和樹と結婚出来ないし、このまま付き合う事も出来ない」
「何でだよ、理由は? 俺の事が嫌いになったのか? 」
「違う、 そうじゃないの」
「じゃあ何でだよっ」
「好きな人ができたの」
「…………」
二人の間に落ちる沈黙が重い。
やがて、長い長い溜息が和樹の口から漏れた。
「俺さ、一目惚れだったんだよ」
「和樹……」
「弥生がうちの会社入って来て、初めて挨拶した時から。 俺が弥生の教育係になれてめちゃくちゃ嬉しかったの知らないだろ」
「……うん」
「一緒に仕事するようになって、弥生の内面も知って益々好きになって……。 でも俺年上だし、あんまりガツガツするのも格好悪いから余裕ぶって告白してさ。 でもOKもらえてすげー嬉しかった。 本当は弥生の事好きすぎて一緒に住まないかって言いたかったけど、弥生ってあんまりベタベタするの好きじゃないだろ? 適度に距離を保たないと離れて行くんじゃないかって思ったんだけど……、どこで間違えたかなぁ」
(馬鹿だ、私……)
燃え上がる様な恋じゃない。 適度な距離感がある和樹との恋愛は居心地が良かった。そう思ってた。 でもそれは和樹の努力の上で成り立っていた関係だった。
(和樹の気持ちも知らないで……)
そんなぬるい関係がいいだなんて。自分の鈍さに腹が立つ。
「そいつって俺の知ってる奴?」
弥生は頭を左右に振った。
「そいつに告白した?」
「和樹と別れてないのに、そんな事するわけない」
「だよな。 弥生のそういうとこも好きなんだ。 あー……しばらく立ち直れそうにないけど、会社じゃなるべく普通に接するようにするから」
「うん……でも私、仕事辞めるの」
「はあ? 辞める?」
「うん」
「何で? 」
「その、好きな人の傍にいたくて……」
開いた口が塞がらないって、今の和樹みたいな事を言うんだろうなと、固まってしまった和樹を見て弥生は冷静に思った。
和樹は忙しく表情を変え、弥生に何かを言おうとしては口を噤む事を繰り返した。
「言いたい事や聞きたい事が山ほどあるが、まぁそれが弥生の決めた事なら俺は何も言えないな」
「ありがとう」
「素直に応援するのはまだ無理だけど……上手くいくといいな」
「うん」
そして和樹に家まで送ってもらったのを最後に同僚に戻った。
自分から望んだ別れであるのに、最後の最後で和樹の本当の気持ちを知って凄く心が痛かった。
「ふっ……」
その夜は誰もいない部屋で一人泣き明かした。
◇◇◇
「今日が休みで良かった」
泣き腫らした顔を鏡で確認して弥生は週末である事に心底ほっとした。
とりあえず温めたタオルと冷やしたタオルを交互に目に当てながら、今後の予定を考えていく。
会社を辞めるための引き継ぎや、この部屋を引き払う準備もしなければならない。そして何より……
(叔父さんにも連絡しなきゃな……)
正直あまり会いたいとは思わないが、親が亡くなってから弥生を援助してきたのは間違いなく叔父だ。何の連絡もなくいきなり姿を消すのはまずいだろう。
やる事は沢山ある。 でも全てこなして何の憂いもなくルーカスの元に行きたい。
(……頑張ろう)
まずは少し腫れの引いた瞼に、腫れを誤魔化す化粧をする事から取り掛かる弥生だった。
「あ、お米安い」
帰りに買って帰ろうかなと考えて、むしろ今あるストックをどうにかしないといけない事に気づいて頭を悩ませた。
(捨てるのは勿体ないけど、かと言ってストック全部消費するのは無理だよねぇ)
前に特売で買いすぎた醤油が残ってるし、他にもレトルトやインスタント食品のストックもある。
(もういっそ全部向こうに持って行こうかな)
サンドイッチですら大喜びされた世界なら他の食品も受け入れてもらえそうだと、弥生はストック類は全て向こうに持ち込む事を決めた。
(よし。あとはひたすら詰め込もう)
弥生はスーパーでもらってきたダンボールの束を抱え直して家路を急いだ。