<おもいで文庫より その3> 祖母の物語
初孫を溺愛してくれた祖母と、恩知らずな初孫のエピソードです。祖父母にうっとうしい思いを抱いている方、私を反面教師として、悔いのない日々をお過ごしいただければ幸いです。
私に「美穂」と名付けてくれたのは、祖母と母だ。「稔るほど 頭を垂れる 稲穂かな」――教養を積んでもなお謙虚な人となれ、との願いを込めて命名されたものだ。私はこの名を誇りに思う。名前負けしてしまうことは多々あるが。
祖母にとって、私は初孫であった。よく「孫は目に入れても痛くない」と言われるが、なるほど祖母もご多聞に漏れず、私をすこぶる可愛がってくれた。
私の出生を役所へ届け出てくれたのも祖母だった。私が生まれたのは4月1日。同学年の中では最も遅い日。祖母は窓口で聞かれたそうだ。「4月1日だと何かと不利だから、2、3日後にずらされますか?」
しかし運命論者の祖母は、「いいえ、この日に生まれたのも何かのご縁。そのままでいいです」と断ったという。おかげで私は、同級生の主人と巡り合えたのかもしれない。
祖母は未亡人だった。夫は太平洋戦争に召集され、重巡洋艦「筑摩」に搭乗、昭和19年10月25日、レイテ沖海戦で船もろとも沈んだ。以来、当時9歳だった母と2歳だった叔父を、女手ひとつで育て上げた。今こうして私たちがあるのも、戦火をたくましく生き抜いた祖母あってこそだ。
幼い頃、私は度々祖母の家へお泊まりに行った。
初めて泊まることになった夜、私は急に家が恋しくなり、「みぃちゃんやっぱりおうちへ帰ろうかなぁ……」と言って祖母の機嫌を損ねてしまった。「そらみたことか!」祖母はどんなに悲しかったことだろう。あの時の光景は、今も鮮烈に脳裏に焼き付いている。
翌朝、私は「ででっぽっぽー、ででっぽっぽー」という雉鳩の声で目が覚めた。隣の布団から、祖母がにこにこしながら私を見つめている。 「みぃちゃん起きたけ?」「うん、おはよう」夕べの寂しさはもうなかった。窓から注ぐやわらかな日差しと、心地よい布団に包まれながら、もう少しこのままでいたい気分だった。
朝ごはんに祖母はよく「スィートコーン」を作ってくれた。コーンクリーム缶を牛乳でのばし、ごはんとベーコンを入れてフツフツと煮た、洋風おじやのようなものだ。あの年代にしては随分ハイカラな料理を編み出したものだ。
食べ終えると、散歩がてら買い物に出た。近くを川が流れていた。底には長い水草がゆらゆらと揺れていた。
「水草や……」祖母は俳句を嗜んでいた。「水草や おさげのように 流れたり」あっというまに捻った。「いいねおばあちゃん」「ならこれ、みぃちゃんの句にしられ」と祖母は言った。「え、あたしの……?」そしてそれはいつのまにか、私が初めて作った俳句ということになってしまった。
おやつにはよくプリンを作ってくれた。大きめのマグカップに卵液を注ぎ、アルミホイルで蓋をして、蒸し器で加熱するものだ。私はここでしか味わえない、ドでかサイズの熱々プリンがたまらなく好きだった。
私が物心ついた頃には、祖母はいつも「俳句手帳」なるものを携帯し、頻繁に句会に出席していた。ある時、私もお伴することになった。
祖母は私を主宰の先生に紹介し、例の「水草や……」と、少し前に捻った「朝顔の つぼみ数えて 水をやる」の2句を「この子が作ったんですよ」と言った。私は面映ゆいのと後ろめたいのとで、じっとうつむいていた。きっと主宰はお見通しだったことだろう。
母以上に達筆で筆まめだった祖母は、私が字を覚え始めた頃から事あるごとに手紙をくれた。
ある時、覚えたての「殿」という漢字をどうしても使ってみたくなり、私は封筒の宛名の下に「殿」と大きく書いて送った。
ほどなく祖母から怒りの返事が届いた。「『殿』は目上が目下に使う言葉。年長者に使うのはご法度ですよ」と書かれていた。
難しい字を覚えて得意気になっていた天狗の鼻は、敢えなくへし折られた。祖母は字の先生であると同時に、常識の先生でもあった。
祖母は節目に、記念の品をプレゼントしてくれた。小学校入学の時は「これでちゃんと起きられ」と、白雪姫がデザインされた赤い目覚まし時計を、3年生の時には同じ白雪姫の赤い腕時計を、中学校入学の時には黒い革のベルトの腕時計を、高校入学の時には赤い万年筆を、それぞれ贈ってくれた。
中学の入学祝の腕時計を、私は毎日身に付けて登校していた。ところがある時、友だちから「それ、してきたらだめなんぜ」と指摘されてしまった。生徒手帳を読み返すと、なるほどたしかに「腕時計禁止」と書いてある。「せっかく役立つようにともらったのに……」私は融通の利かない校則に軽い反発を覚えた。腕時計が本格的にデビューしたのは、高校に入学してからだった。
私にチーズケーキのおいしさを教えてくれたのも祖母だった。
ある時「みぃちゃん、これ『チーズケーキ』言うがやと。ちょっと食べてみられ」チーズとケーキ……どちらも大好物だが、一緒となると全く相容れないように見える集合体に、私はおそるおそるフォークを入れた。次の瞬間、口いっぱいに広がる甘味と酸味。「お互いが引き立て合う」とはこのことだと初めて知った瞬間だった。以来私はチーズケーキの虜だ。最後の晩餐はチーズケーキと決めている。食いしん坊の私に、こんなにもおいしい食べ物の存在を教えてくれた祖母は、まさに恩人だ。
祖母は大変な占い好きだった。泊まりに来るたび「どれどれ」と、家族の手相や指紋を拡大鏡で分析した。「みぃちゃんはいい手相をしとるねぇ。無駄な線がないねぇ」と、私の手相はベタ褒めだった。「親バカ」ならぬ「婆バカ」だ。そしてある時、H先生の四柱推命学の著書と出合ってからは、暇さえあればチラシの裏に家族の名前と運命数を書き出し、ああだこうだと独り言のようにブツブツつぶやいていた。
私はそんな祖母が次第にうっとうしくなり、ある日ついに「そんなものにばっか頼っててどうすんの!?」と吐き捨ててしまった。祖母はもの悲しい笑みを浮かべて私を見つめた。最愛の初孫にひどい言葉をぶつけられ、どんなに傷ついたことだろう。
祖母はきっと、占いをすることで自らを慰めていたのだ。幼くして父を亡くし、母の再婚で不遇な時を過ごした少女時代、戦争で夫を失い、手塩にかけた一人息子をも40歳の若さで脳幹出血で失うという、家族との縁の薄さ……それらをみな「運命のせい」と諦め、無理矢理納得し、自らに言い聞かせながら今日まで生きてきたに違いない。それを慮ることなく暴言を吐いた浅はかな自分を、今さらながら悔いている。
朗らかで笑い上戸で親孝行だった息子を突然失って以来、祖母は俳句と4人の孫たちの成長を生きがいにしていたように思う。だから私たちの進級、進学や受賞などの出来事を、まるで自分のことのように喜んでくれた。節目のお祝いには、ひとかたならぬ思いが込められていたはずだ。今こうして祖母のことを書きながら、自分がつくづく恩知らずの裏切り者に思えてくる。
そんな私が祖母をとびきり喜ばせたのは、大学合格の知らせだった。中学1年生の時から憧れていた東京の志望校に受かり、誰よりうれしいのは自分自身だと思っていたが、祖母のそれは私の比ではなかったようだ。母からの電話で知るなり「おめでとう、おめでとう、おめでとう!!」の連呼で始まる手紙をしたため、ご祝儀を入れた書留封筒を手に、郵便局まで走ってくれたという。72歳の老女が全力疾走する姿は、なかなか想像しがたい。
祖母は浅草の生まれだった。それだけに、私の上京がひときわ感慨深かったのだろう。
初めての夏休みを控えたある日、祖母は叔父たちとともに移り住んだ長野から特急「あさま」に乗ってやってきた。浅草寺の「四万六千日」に参拝し、浅草の夏の風物詩「ほおずき市」へ出かけることが目的だった。
私は大学からほど近い神楽坂にある大家さん宅の2階に下宿していた。6畳の和室にもう6畳のキッチン付きの部屋のある、恵まれた環境だった。
私たちは和室に布団を並べて休んだ。幼い日、祖母がそうして私を泊めてくれたように。
翌朝目を覚ますと、祖母はすでに着替え終わり、障子を開けて朝日を入れながら化粧をしていた。まだ7時前だというのに、なんとせっかちなことか。祖母の浮き立つ心が手に取るようにわかった。そんな祖母を、私は布団から愛おしく見つめていた。幼い日にお泊まりした翌朝、祖母が私を見ていたように。
朝ごはんはじゃがいもとわかめの味噌汁に卵焼き、そして胡瓜としその即席漬けだったろうか。祖母は即席漬けの塩加減を褒めてくれた。ささやかな喜びをかみしめながら、私は久々の独りではない食卓を幸せに思った。
最寄りの東西線神楽坂駅から地下鉄に乗り、日本橋で乗り継いで浅草へと向かう。祖母には何年ぶりの帰郷だろうか。
祖母はすこぶる健脚だった。身内が相次いで早世する中、「わしがみんなの分まで長生きせんにゃ」と、普段から健康には人一倍気を遣っていた。その成果を遺憾なく発揮し、乗り換えや散策にも全く疲れ知らずだった。
祖母のおかげで初めて訪れた浅草寺の境内には、煙が舞い立つ大きな火鉢のようなものがあった。煙を体の不調な所に当てると治るらしい。私は迷わず回転の悪い頭に、祖母は「呆けないように」と頭、「老けないように」と頬に、当てていた。
46,000日分のご利益があるとされるお参りを無事済ませると、2人はお約束のおみくじを引いた。なんと私は、人生初の「凶」を引いてしまった。すかさず祖母が「みぃちゃん、これは今がものすごくいい時ということながやよ。気にしられんな」とフォローした。方言での励ましがひときわ身に沁みた。
浅草がすっかり気に入った私は、このあとも三社祭などにたびたび出かけてはおみくじを引くことになるのだが、「凶」以外出た試しがなかった。「ほとほと相性が悪いのだ」と悲しくなったものだが、今にして思うと、東京で思いきり羽根をのばす私を、観音様が適度に戒めて下さっていたのかもしれない。
気を取り直してほうずき市へと向かい、夥しい数の中から2つの鉢を選んだ私たちは、「駒形どぜう」でお昼をいただくことにした。
祖母は遠い昔に味わったことがあるらしく、懐かしさに胸を高鳴らせていた。
「どぜう」と大きく書かれた暖簾をくぐると、畳敷きの落ち着いた店内いっぱいに、どじょう鍋の甘く芳しい香りが漂っていた。
初めて目にする柳川鍋を、おそるおそる口に入れる。どじょうと卵のふんわりとした口あたりに、「どじょうってこんなに上品なんだ!」と正直驚いた。幼い頃、近くの小川で網を片手に追いかけていたどじょうの泥臭さはみじんもない。こうして私は、祖母のおかげでまたも食の新発見をしたのだった。
大満足で店を後にし、水上バスの乗り場へと向かった。隅田川を行き来する観光船だ。祖母は心地よい風を受けながら、思い出深い橋々をくぐるたび、今は亡き両親や生家を思い浮かべ、感慨に浸っていたことだろう。
帰りは「九段下」で途中下車し、靖国神社へと向かった。無念の戦死を遂げた夫の魂が眠る場所だ。
巨大な鳥居に圧倒されながら、奥にある本殿へと進んだ。写真でしか見たことのない祖父に、私もようやく会えるような気がしていた。
「おじいちゃん、初めまして。孫の美穂です。おばあちゃんと来たよ。おじいちゃんが沈んだ海までお参りに行けなくてごめんね。でもここで会えてよかった。これからも、おばあちゃんや私たちをずっと見守っててね……」
長い祈りを終えて目を開けると、祖母は隣でまだ手を合わせていた。いいよ、ゆっくり語らってね。
初夏の東京巡りを終えて帰宅すると、障子からは夕日が差し込んでいた。ほうずきに付いていた、これまたほおずきのように赤く丸いガラスの風鈴を窓辺に吊るし、「舟和」で求めた名物「芋ようかん」でお茶にした。やさしい甘さに、心地よい疲れが溶けていくのを感じた。
翌日、祖母は再び「あさま」で長野へと帰っていった。ほおずきの鉢を大事そうに抱えて。
ほどなく私も入学後初めての帰省を果たした。同じくほおずきを連れて。夕方、鉢に水をやりながら、私はしばし、祖母と過ごした時間の余韻に浸るのだった。
あの日以来、スーパーの鮮魚コーナーでどじょうが泳ぐ樽を見るたび、祖母とどじょうの思い出がなつかしく蘇る。
4年の月日は矢のように過ぎ去り、卒業式には祖母と母が出席してくれた。全てのカリキュラムを終え、いったん帰省していた私は、長野から富山に合流していた祖母や母とともに、前日に東京入りした。
既に下宿も引き払っていたので、宿は上野近くのウィークリーマンションだ。CМでは知っていたが、利用するのは初めてだった。
寝る時だけ引き出し、日中は壁に収納できてしまう画期的なベッドをはじめ、至れり尽くせりの設備は感動ものだった。
東京での「最後の晩餐」は、銀座にある「天國」だった。老舗でいただく極上の天ぷらは格別だった。卒業祝にと奮発してくれた両親に、祖母ともども手を合わせた。
翌朝は近くのおにぎり屋さんからおにぎりとカップみそ汁をテイクアウトし、部屋で済ませた。祖母がベッドの上でにこやかにぱくつくスナップが残っている。
いつか着たいと思っていた母の薄ピンクの小紋のちりめんに袖を通し、祖母がこの日のために買ってくれた、紺と赤のグラデーションが効いた袴を履く。着付けは祖母が丹念にしてくれた。
春の日差しが降りそそぐ中、少し面映ゆい気持ちでキャンパスへと向かう。仲間たちもほぼ「はいからさん」で勢揃いしている。「みんなとこうして寄り添えるのも今日限り……」ふと押し寄せる寂しさを笑顔の後ろに隠しながら、私たちはスナップを撮りまくった。少し離れた場所から、祖母と母が目を細めて見つめていた。
夜、私はこれまた母の紅型の着物に着替え、謝恩会ならびに仲間たちとの最後の飲み会に出席した。
遅くに宿へ戻ると、祖母も母もぐっすり眠っていた。都会の雑踏、キャンパスの賑わい…さぞかし疲れたことだろう。起こさぬようにと気遣ったつもりだったが、気配に気づいた祖母が声をかけた。
「みぃちゃんけ。おかえり。楽しかったけ」「うん、楽しかったよ。最後はみんなが改札まで送ってくれたよ。ありがとうね……」宴の余韻に浸りながら、私もいつしか夢の中へと落ちていった。
翌日も快晴だった。空も卒業を祝福し、東京最後の日に花を添えてくれているようだった。
午後の高速バスの時刻まで、私たちは上野を散策することにした。
上野公園は既に桜が見頃だった。地元よりひと足早く、春真っ盛りだ。花のトンネルの下を、私たちはゆっくり歩いた。祖母は相変わらずの健脚ぶり。母は7年前からパーキンソン病を患い、徐々に左半身に麻痺を来たしていたが、この日ばかりは病気を忘れたかのように軽やかに歩いていた気がする。母も若かりし頃、東京で過ごした時期があった。ひょっとしたらこの辺りを恋人と歩いたことなどを思い出していたのかもしれない。
午後、これで見納めとなる東京の風景を思い思いに心に焼きつけ、私たちは池袋から発った。
「みぃちゃんは、大学2年から4年までの3年間が大殺界。でも、就職する年からは運が開けるからねぇ」と、事あるごとに繰り返していた祖母。なるほど、地元に戻って病気の母を手伝いながら、再び両親とともに暮らせる幸せを味わってはいたが、仕事疲れで週末は家でゴロゴロしたい気持ちが強く、時々長野から来宅する祖母の相手も満足にしてあげなくなってしまった。
祖母は根っから好奇心が旺盛で、さまざまなイベントに足を運びたがる人だった。叔父が脳幹出血で倒れた時も、美術館へ行きたいという祖母を車で送る途中だった。
ある冬、祖母は地元から20キロほど離れた町で開かれる「鍋まつり」に行きたいと言い出した。広場に大きな鍋が用意され、豚汁や魚介汁など、さまざまな種類の鍋が堪能できる冬の風物詩だ。「いいよ。そんなら行こうか」優しい叔父なら、二つ返事で祖母を連れて行ったことだろう。ところが面倒臭がりの上、祖母の占い漬けにいい加減うんざりしていた私は、「え~!?」と嫌だ感丸出しでぶっきらぼうに返答。祖母は最愛の孫に拒まれ、次第に言葉を飲み込んだ。内心どんなに傷ついたことだろう。その後も「菊花展」「かに即売会」「ラーメンまつり」……などなど、テレビの告知を見ては出かけたがったが、結局どれにも連れて行くことなく、祖母の来富の機会は次第に少なくなっていった。
「恩を仇で返す」とは、まさにこのことだろう。身辺に余裕がなくなったとたん、あれほど可愛がってもらったはずの祖母にさえ邪険なふるまいを続けた自分が、ただただ情けない。今さら悔いても仕方ないのだが……ごめんねおばあちゃん。
その後、祖母は次第に痴呆が進み、単身でわが家へ来ることもいよいよ難しくなってきた。
結婚前の最後の夏、お盆に叔母や従妹とともに来宅し、叔母たちが帰った後もしばらく滞在していた祖母を、私が長野まで送り届けることになった。
すっかり独り言が多くなり、つじつまの合わない話ばかりするようになった祖母を不憫に思うと同時に、これまでの恩知らずな態度を詫び、償うべく、私は祖母と久々の、そして最後の旅に出た。
道中が少しでも快適になるよう、私は当時付き合っていた主人が作ってくれた、お気に入りの曲ばかりを集めたカセットテープを流した。耳もかなり遠くなっていた祖母に、ちゃんと届いたかどうかはわからないが。
祖母は窓の外を眺めながら、時折うつらうつらしていた。話しかけてもほとんど一方通行で、会話らしい会話はあまり交わせなかったが、うたた寝できるくらいくつろいでいてくれるならそれでよいと思い直し、私はハンドルを握り続けた。
2時間ほどのドライブの後、車は長野の自宅に着いた。久しぶりの来訪だ。叔父が元気だった頃は、毎年夏休みに親子で泊めてもらい、叔父たちに信州の名所をあちこち案内してもらった後、みんなで地元へ向かうのが恒例だったが、叔父が他界してからは訪れる機会も少なくなっていた。
「みぃちゃんありがとね」叔母や従妹が温かく迎えてくれた。叔父の死後、この家は祖母と叔母、従妹2人の女衆4人で守ってきていた。叔母は働きに出て、従妹たちの面倒は祖母が見ていた。時が経ち、従妹たちも自立した今は、老いて痴呆の症状も進みつつある祖母を、みんなで支え合い見守ってくれている。実の娘である私の母が自ら病気を抱えており、祖母の面倒を見ることが叶わぬ現実の中で、辛抱強く姑の世話をしてくれている叔母たちには、感謝してもしきれない。
祖母は自室に引き揚げた。私は居間で、叔母や従妹と夜更かしを楽しんでいた。
ふと、廊下から人の声が聞こえてきた。それは祖母が発している独り言だった。まるで相手がいるように、語りかけは続いた。いかにも楽しそうに。時に笑い声も交じりながら。それが余計に悲しかった。こんな日が来るなら、あの時もっとちゃんと話し相手になってあげるべきだった。まさに「後悔先に立たず」だ。
今日こうして祖母を送ってきてよかった。ショックながらも祖母の日頃の様子を知ることができたし、時に迷子になり、警察沙汰になったりもしている祖母を、叔母たちがありのままに受け止め、温かく包んでくれていることもわかった。
これまでの祖母への仕打ちを懺悔するとともに、叔母たちに心から感謝しつつ、私は床に就いた。
翌朝、少しひんやりする風に信州の早い秋を感じながら、私は祖母宅を後にした。12月に控えた結婚式にみんなで出席してもらうことを楽しみにしながら。
しかし、その願いは叶わなかった。痴呆がかなり進み、突飛な言動が目立つ祖母が結婚式や披露宴に臨席することは難しいと両親が判断したのだ。
「どうして!?一番出てほしい人なのに。私の名付け親じゃない!!」私は食い下がった。だが両親の審判は覆らなかった。「先方の皆さんにご迷惑をかけるようなことがあってはいけないでしょ」「大体お前はひな壇におるし、誰もばあちゃんの面倒を見れんやろ?」という答えだった。
言い返せない自分が悔しかった。「こんなことになるなら、もっと早くに花嫁姿を見せるんだった……」とさえ思った。
平成6年12月3日。いよいよ挙式の日を迎えた。祖母は従妹の運転する車で、叔母とともに駆けつけてくれた。だが留め袖に着替えることはなく、このまま祖母の義妹とお留守番だ。
私が座敷で支度をしてもらっている所へ、祖母が義妹に連れられてきた。「あれこの人、真っ白な顔して」笑い上戸の祖母は、そう言って笑い出した。「義姉ちゃん、美穂ちゃんやがいね」「えっ、みぃちゃん?」祖母は一瞬、真顔になった。聞き覚えのある名前だったのだろう。そして「あのみぃちゃん?」とつぶやくと、涙を浮かべた。「あぁ、わかってくれたんだ……」私も思わず涙ぐんだ。
しかし次の瞬間、「ふぅん……」とつぶやいたきり、また訳が分からなくなってしまったようだった。白塗りの顔にかつらを被り、打ち掛け姿。なんともない人が見たって誰だかすぐにはわからないだろう。認知症の祖母に見分けがつかないのも無理はない。
でもさっき、ほんの一瞬だったけれど、祖母は確かにわかってくれた。きっと神様が、祖母の途切れた思考回路を一瞬だけつないで下さったのだ。初孫の嫁入りを、名付け親に知らせるために。きっと小さな奇跡が起こったのだと、私は今でも信じている。
従妹が写してくれた祖母との最後の記念写真は、今も棚の上で微笑みかけている。
その後、私は祖母が介護施設に入所したことを母から聞いた。叔母たちにとっても苦渋の決断だったに違いない。しかし、叔母も従妹も仕事に出たあと、祖母独りになる家は危険に満ちてしまう。そこで両親も加わって相談した結果、施設で暮らすことが祖母にとっては安全で、家族にとっては安心なのではないかということになったのだ。
お見舞いに行こうと思いながら、家業の手伝いに引っ越し、そして妊娠……とバタバタする中で、なかなか時間を作れないまま時は過ぎて行った。
「もしもし美穂?お母さんだけど……おばあちゃんね、今夜あたりが山らしいの……」耳を疑うような電話が飛び込んだのは、平成8年5月1日のことだった。
「そんな……山っていきなり……」受話器を持ったまま立ちすくむ私は、生まれて初めて足元から力が抜けていくのを感じた。
聞けば祖母は少し前から体調を崩し、肺炎を患ったという。弱り果てた体に、肺炎は命取りとなる病気だ。既に危篤状態にあり、今夜あたりが峠だという。
「どうして今まで教えてくれなかったの!?」私は電話口で叫んだ。どうやら周りは、5月19日に迫った出産予定日を前に、私にショックを与えてはなるまいと、事情を一切伏せてくれていたようであった。
全ては私のためを思ってのことだった。だからと言って素直に「ありがとう」と言えるわけがない。「どうして……私なら平気だってば!!」込み上げる悔しさに私は言葉を失い、慟哭するばかりだった。
両親は葬儀の支度をして向かうという。「あたしも連れてって!」と頼むが「あんたはだめ。急に産気づいたりしたらどうするの。却って皆さんにご迷惑でしょ!」と一蹴されてしまった。
13年前、叔父が脳幹出血に倒れた時は、受験生だからと置いて行かれた。今度は妊婦だから駄目だという。散々お世話になった人たちとのお別れを、2度までも欠礼するとは……私は自らの薄情さに憤った。
その夜、私は主人の胸で泣き明かした。もうちょっとでひ孫が生まれるというのに。見せに行くのを楽しみにしていたのに。神様はなんて意地悪なんだ。お願いです、あと少しだけ待って。せめてひ孫と対面できるまで。
祈りは届かず、祖母は平成8年5月2日未明に旅立った。享年82。早世した家族の分まで長生きすると公言していたとおり、長寿を全うした。
祖母の遺骨は菩提寺の境内に眠っている。今頃は、若くして戦死した夫や両親、最愛の息子や娘夫婦(10年後、11年後に相次いで旅立った私の両親)とともに、水入らずの毎日を過ごしているのだろうか。それとも、自らと入れ替わるように24日後に生まれたひ孫の守護霊となり、見守ってくれているのか。
祖母は自らの一重まぶたにコンプレックスを持ち、子どもも孫たちも一様に一重であることをよく嘆いていた。
私が授かった3人の子たちは、いずれも主人譲りの二重まぶた。きっと「でかした、みぃちゃん!!」と褒めてくれたに違いない。直にお披露目できなかったのがつくづく残念だ。
この子たちも、祖母あればこそ生まれてきた命。祖母への懺悔が尽きることはないが、3つの宝物を責任を持って育て上げることが祖母への恩返しになると信じている。
私は時折俳句を詠むようになった。祖母の影響に他ならない。母の遺品とともに持ってきた歳時記は、手に取りやすいよう辞書の隣に並べてある。
天国と手紙を交わすことはどうやら無理のようだが、代わりに子どもたちの成長を句に詠んで空へ送ろう。かつて祖母も私を詠んでくれたように。
「胸薄き 少女五月の 湯に泳ぐ」(完)
「苦あれば楽あり」「親の小言となすびの花は 千に一つの仇もなし」「仕事は大勢 うまいもんは一人」……たくさんの諺を教えてくれた祖母。恩を仇で返してしまった今となっては、最も身に沁みているのは「後悔先に立たず」です。