ゴリゴリ
ほとんど誰もいない平日の昼下がり、俺はただぼんやりとゴリラを眺めていた。ここには事件も事故も、誹謗中傷もない。柵の向こうにある穏やかな時間だけが、俺の心を静かに癒やしてくれていた。
ゴリラっていいよなぁ。ムキムキだし、彫りが深いし、全裸だし、男の憧れだよなぁ。
そんなことを思っていると、一頭のゴリラがこちらを凝視しているのに気がついた。最古参のゴリ吉だ。
目が合った。すると、ゴリ吉は手招くような仕草をした。もう一方のムキムキハンドには、砂のついたバナナが握られている。
もしかして、俺にくれようとしているのか?
砂まみれのバナナなんて食えたもんじゃないが、その不器用な優しさに少し口元が緩んだ。
俺は軽い気持ちで、柵の隙間にすっと右手を伸ばした。
次の瞬間、視界が大きく揺れた。
丸太のような腕に右腕を掴まれたと思うと、すぐさま抗う余地もない圧倒的な力で引きずり込まれた。
俺はそのまま錆びた鉄柵に強く叩きつけられ、ゴリ吉は俺の右手を己の口元へと引き寄せた。
「ちょ、ゴリ吉、なにやって⋯⋯」
ガブリ。
というよりは「ゴッ」という感じだった。経験したことのない激痛に体中を苛まれ、右手にいたってはもはや熱ささえ感じていた。
必死に離れようと引っ張るも、ゴリ吉の手と口はビクともしなかった。
そんな俺をゴリ吉は不思議そうに見つめながら、再びかぶりつく。
バキバキと肉と骨が潰れる生々しい音と、ゴリゴリと歯と骨が擦れ合うおぞましい感触が肘を伝って脳へと響く。人間の肉など彼の前では熟した果実ほどの歯応えすらないらしく、全く苦戦する様子もなく簡単に噛み砕いていく。激痛は単なる痛みを超え、焼けた鉄棒を腕の神経に突き刺されてかき混ぜられているような、狂い切った熱量となって全身を駆け巡った。
次第にゴリ吉は目を血走らせ、一心不乱に俺の右手を貪るようになった。ブチブチと筋繊維がちぎれる音がし、手の甲から指先にかけて、肉が引きちぎられていく。激痛の波が押し寄せるたび、視界が真っ白に明滅し、胃の底から熱いものがこみ上げる。
声を出して叫びたかった。痛い、助けてくれと狂ったように叫び散らしたかった。
だが俺は歯を砕けんばかりに食いしばり、絶叫を血の味とともに喉の奥へ押し殺した。
周りには誰もいない。もし今、俺が大声を上げてしまったら警備員や他の客が大急ぎで駆け付けるだろう。
そうなれば、この事態は凄惨な「事件」として世間の知るところとなり、ゴリ吉は「人間を襲った凶暴な動物」として確実に殺処分されてしまう。
俺はゴリ吉を愛していた。
開園当初、幼かった彼がこの動物園に来たときから、俺はずっと彼を見守ってきた。何度もスケッチブックを抱え、彼の雄姿を描いた。
言葉はなくとも、心を通わせた親友であり、共に育った兄弟のような存在だと思っていたのだ。
右手の骨はすでに噛み砕かれ、感覚は麻痺しかけていた。だが、ゴリ吉の咀嚼は止まらない。バリバリと骨を噛み砕く鈍い音が響き、次は腕の肉へと歯が食い込んでくるのが分かった。引きちぎられる痛みに膝がガクガクと震え、意識が遠のきそうになる。
それでも俺は残された左手で必死に柵を掴み、耐えた。
顎の力の一瞬の緩み、あるいは彼が満足して口を離す一時の隙。俺は真っ白になりかける意識を激痛で繋ぎ止めながら、逃走のチャンスをじっと伺い続けた。
それからしばらく経ち、俺が血の臭いで嘔吐き、激痛で視界がぼやける中、ゴリ吉の咀嚼が肘のあたりまで達しようとしていた。
バリ、ガシャ。
前腕の骨が容赦なく噛み砕かれる。脂汗が止まらない。頼む⋯⋯もうやめてくれ、ゴリ吉⋯⋯
その時だった。ゴリ吉が大きめの肉を齧り取ったようで、腕の咀嚼が一瞬緩んだ。
今だ!
俺はまた歯を食いしばり、全体重を乗せて後ろへ退がった。
ブチチッ!
筋肉と皮膚が引きちぎれる生々しい音とともに、拘束から解放された体が後ろの地面へと転がる。
右腕を見ると、動悸がした。ほとんどの肉が食われ、骨と残った肉がぐちゃぐちゃになって辛うじて繋がっている状態だった。流れ出るおびただしい量の血が、地面を黒く染めていく。
柵の向こうを見ると、ゴリ吉は俺の腕の一部だったものを口にくわえたまま、ポカンとした顔でこちらを見つめていた。その瞳には狂気も悪意もなく、ただ「食べ物を手に入れた」という野生の純粋さだけが宿っていた。
そうだ。こいつは俺を憎んで襲ったわけじゃない。ただの習性と、圧倒的な力の差。心を通わせたつもりになっていたのは、俺の身勝手な幻想に過ぎなかったのだ。
もし俺がここで倒れ、発見されたらゴリ吉は処分される。俺は残された力を振り絞り、這うようにしてその場を離れた。地面に血の痕を残さぬよう傷口を上着で包み込み、必死でかばいながら。
出口付近のトイレへ滑り込み、個室の鍵を閉めた瞬間、俺の意識はぷつりと途切れた。
病院のベッドで目を覚ますと、右腕の肘から先がすっかりなくなっていた。
ベッドの脇には青ざめた顔の園長と、事情聴取のために訪れていた警察官が立っていた。
防犯カメラの映像とゴリ吉に付着した血痕から、事態の全ては把握されていた。
「あいつを⋯⋯ゴリ吉を、殺処分にしないでください⋯⋯!」
俺は必死に懇願し、ハゲた頭をフル回転させた。
「そういうわけにはいきません。それに今どきあんな錆び錆びの鉄柵でゴリラなんて、これは大きな問題になりますよ」
警官はそう言って園長を睨んだ。
「俺がいけないんです! 俺が檻に手を入れて、ゴリ吉を触ろうとしたから⋯⋯! あいつはただ、目の前に出されたものを口に入れただけなんです!」
俺が、俺が悪いんだ⋯⋯!
「ですが、一度人間を襲った個体は⋯⋯」
そう渋る警官に対し、俺はベッドから降り、頭を床に擦り付けてまた懇願した。
「俺は園を訴えるつもりは微塵もありません! これは俺の不注意で、ゴリ吉は何も悪くないんです! お願いです! どうかあいつの命だけは! どうか! どうか⋯⋯!」
「まぁ、そこまで仰るなら⋯⋯」
命乞いのような縋り方をする俺に、警官は悪役にでもされたような微妙な表情でそう言った。
園長はずっと謝っていた。そして、礼も言っていた。俺は礼を言われることではない、自分が悪いのだと何度も言った。実際、俺の身勝手なスキンシップのせいでゴリ吉は殺処分の危機にさらされたのだから。
その後、警官は約束(というか俺のお願い)を守ってくれたようで、この件はニュースや記事にならず、防犯カメラの映像も俺の過失を証明する材料として処理された。
よかった。
3ヶ月後。
あの事故以来初めて、俺は動物園を訪れた。
右腕の袖は空っぽのまま、風に揺れている。
柵の向こうでは、ゴリ吉たちが相変わらずのんびりと日向ぼっこをしていた。俺が近づくと顔を上げ、じっとこちらを見た。
その瞬間、あの日の恐怖と激痛を思い出し、右腕の存在しないはずの部位がずきんと痛んだ。
だが、俺は静かにスケッチブックを取り出した。
「よぉゴリ吉、また描きに来たぞ」
俺は左手で鉛筆を握り、いつも通りの彼の姿をゆっくりと紙に写し取り始めた。
よし、また上手くなろう。




