2章 潜入の鎖 1
(千景のマンション・朝8時半)
目が覚めると、千景の明るい金髪が枕に柔らかく広がり、淡い紫色のまぶたが静かに閉じているのが見えた。
昨夜の口づけの甘い余韻が唇に残り、シーツの皺が彼女の体の曲線を優しくなぞっていた。
クイーンサイズのベッドの端で、私はそっと体を起こし、足音を忍ばせてバスルームへ向かう。
木製の床が冷たく、素足に微かなざらつきを感じる。
ドアを静かに閉め、鏡の前に立つと、そこには銀色の髪が昨夜の乱れを残して広がり、赤い瞳は血走って焦点が定まらない自分が映っていた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、鏡に影を落とす。
夢の中で、10年前の闇が再び蘇っていた。暗いコンテナの内部、錆びた鉄の壁に滴る水音、男たちの荒々しい息遣い、冷たい鎖が肌に食い込む感触。14歳の私がただの獲物として扱われ、抵抗する力も奪われていたあの時の記憶が、鮮やかに脳裏に焼き付く。
薄暗い空間で、男の一人が私の髪を掴み、別の手が服を裂く音。叫び声が喉に詰まり、涙が頬を伝った。
あの無力感が、今も体に残る。
事件は終わったはずだった。あの人と警察が少女売春組織を摘発し、首謀者たちは牢獄に送られた。
だが、心の奥底に巣食う恐怖は、時折牙を剥いて私を襲う。
体が無意識に震え、吐き気がこみ上げてくる。
冷や汗が背中を伝い、鏡に映る自分が他人に思える。
銀髪が乱れ、赤い瞳が虚ろに揺れる。
慌ててシャワーのレバーをひねり、熱い湯を浴びる。
ボディソープを手に取り、泡立てて肌をゴシゴシと強く擦る。
鎖の跡が幻のように浮かび、肩から胸元、腰、太ももまで、物理的に記憶を剥がそうとする。
熱い湯が肌を赤く染め、蒸気が鏡を白く曇らせる。私は歯を食いしばり、爪が肌に食い込むほど力を込める。
女の体は探偵の仕事で武器になる。
——潜入や格闘で男たちを油断させ、情報を引き出す手段だ。
でも、同時に呪いでもある。あの組織に囚われた14歳の私は、ただの商品として消費された。
男たちの笑い声が耳に響き、シャワーの水音と混ざり合う。
今の私は違うはずなのに、トラウマは体に深く刻まれ、脆さを露呈させる。
シャワーを終え、タオルで体を拭く。胸の谷間をそっと包み、脇腹のくびれをなぞる感触に、わずかな自己嫌悪が混じる。
ペールピンクのスリップを着て、鏡に映る自分を見つめる。
銀髪、赤い目、透明感のある白い肌。アルビノと間違われるこの外見は、探偵業では利点でもあり、時に足枷でもある。
日焼け止めのクリームを手に取り、顔と首に丁寧に塗る。
弱い肌を守るルーティンだ。着替えは黒のタートルネックとタイトなジーンズ。
千景のクローゼットから薄手のパーカーを借り、銀髪を隠すようにフードをかぶる。
ポケットにナイフと隠しカメラを忍ばせ、革ベルトにホルスターを装着。
準備は整ったが、手がわずかに震える。
キッチンカウンターで常温の水をグラスに注ぎ、一気に飲み干す。
喉の渇きが癒え、頭が少しクリアになる。
昨夜の疲れが体に残る中、メモ用紙にペンを走らせる。
「QR解析ありがとう。今池潜入する。またね。綾」
割り切りのはずの関係
——セフレとしてお互いのストレスを発散し、情報交換のついでに体を重ねるだけのはずだった。
だが、昨夜の彼女の温もりが、心の支えになっていることを否定できない。
千景の紫の目が、私の孤独を和らげてくれる。
玄関でブーツを履き、ドアを静かに閉める。
エントランスのガラス扉に、朝の栄の街並みが映り込む。
アクアブルーの愛車に乗り込み、キーを回す。
エンジンの低い振動が体に伝わり、現実へと引き戻される。
ハンドルを握り、事務所へ向かう道中、昨夜の電話が脳裏をよぎる。
安田俊介
——舞の父に、QRの手がかりを伝えた瞬間。
あの声の震えが、今朝の静けさに重くのしかかる。
信号待ちでスマホをチラリと見ると、千景からの未読メッセージ。
「解析結果、昼に事務所で。気をつけて」。
短い言葉に、昨夜の温もりが重なる。
だが、その裏で、10年前のトラウマが私を嘲笑う。
車窓から見える栄のネオンが、昨夜の安田の「変な電話」の恐怖を思い起こさせる。
[newpage]
(紫微探偵事務所・午前10時)
雑居ビルの金属縁の階段を上がる。
足音がコンクリに反響し、朝の静けさが重い。
すりガラスの〈紫微探偵事務所〉の扉を押すと、いつもの紙の匂いと換気扇の低い唸りが迎える。
右のデスクに上着を掛け、左のソファベッドのシーツを軽く整える。
ローテーブルに転がるテレビのリモコンを避け、使い込まれたヴィトンのバッグを置く。
ここが私の寝床であり、戦場だ。
デスクに腰掛け、池田公園で手に入れたQRコードの欠片を拡大鏡でじっくり観察する。
蛍光灯の光が欠片に反射し、黒いインクの滲みが不気味に浮かぶ。
透明なプラスチックの角が一つ欠け、黒いインクが湿気でわずかに滲んでいる。
表面には微細な指紋の跡も残り、誰かが慌てて剥がした証拠だ。
千景が事前にインストールしてくれたオフライン復元アプリをスマホで起動し、慎重にスキャンする。
画面に部分的なデータがゆっくりと浮かび上がる
——「OK-2 / 女限定 / 報酬15万 / 今池地下ハブ / スキャン後3時間有効 / 位置追跡ON / 認証コード: X7K9P」
女限定の高報酬コース。舞の依頼写真が脳裏に浮かぶ。
無表情の正面顔、目尻のわずかな上がり気味の癖、左の口角の小さな癖。長い黒髪のポニーテールが、10年前の自分と重なる。
昨夜、10月14日夜に安田俊介に電話をかけたことを思い出す。
「紫微です。手がかりを掴みかけました。危険な方面ですが、追います」
受話器越しに、四十二歳の元夫の声が詰まった。
「娘を…舞を、頼むよ、綾さん。本当にありがとう。奥さんから連絡があってから、心心配で眠れなくて…。昨夜も変な電話があって、怖かったんだ。男の声で、脅しみたいなことを言われた」
彼の声に疲労と恐怖が混じり、私は「気をつけてください。ドアをロックしてください」とだけ返した。
電話を切った後、すぐに千景のマンションへ向かった。
あの声が、最後の別れだったとは。
あの誘拐事件——少女売春組織にさらわれ、凌辱された日々。
暗いコンテナの中で、男たちの手が私の体を這い、抵抗する力も奪われた。
あの時の無力感が、今も体に残る。
あの人と警察が組織を摘発し、首謀者たちは牢獄に送られたはずだった。
だが、このQRコードは明らかに残党の匂いがする。
アナログな紙のチラシから、デジタル化された現代的な「招待状」へ進化した深淵。
私の過去が、今再び動き出したのか。
冷蔵庫から食パンを取り出し、レンジで温め、蜂蜜をたっぷり塗る。
甘い匂いが部屋に広がり、薄型テレビを付け、朝のニュースを流す。
栄のドン横キッズ問題がチラリと映る——
「家出青少年の急増、警察は手不足で対応に遅れ。違法バイトや薬物中毒の噂も浮上」
社会の黙認が、闇を育てる土壌だ。
キッズたちは貧困とSNSの幻想に釣られ、使い捨ての駒として消費される。
舞もその一人かもしれない。
コーヒーを淹れ、熱い湯気が立ち上る中、十年前のコンテナの記憶がフラッシュバックする。
鎖の音、男の笑い声、抵抗できない体の感覚。体が熱くなり、蜂蜜のパンをかじる。
甘さが現実を繋ぎ止める。
昼前、スマホが鳴る。千景だ。
「解析完了よ。生成源は今池の雑居ビル地下。ダークウェブのボットで一時トークン生成、追跡不能設計。女の子は売春ルートに誘導、男は使い捨て労働で車見張りや運び屋。
OK-2は高級選抜コースで、容姿重視のVIP接客よ。
スキャン後3時間で自動無効化、位置情報は組織にリアルタイム送信。
潜入するなら偽QR作るわ。バックアップは誰?」
私は迷わず答える
「一人で十分」
嘘だ。
白波凛にLINEを送る。
「金山で会おう。QRの件。急ぎ。午後2時」
凛なら、アクションのバックアップができる。
割り切りのセフレだが、彼女のタフさが頼りになる。
玲奈にはまだ連絡しない。
刑事の彼女を巻き込めば、警察の壁に阻まれる。
突然、テレビのニュースが切り替わり、キャスターの声が緊迫する。
「速報です。栄在住の男性が今朝、自宅で殺害される事件が発生しました。被害者は安田俊介さん、四十二歳。現場の財布から探偵事務所の名刺が落ちていたとの情報で、警察が動いています。
容疑者は特定されておらず、近隣住民への聞き込みが進められています。
事件は今朝5時頃とみられ、刃物による首への攻撃が致命傷とされています」
心臓が一瞬止まる。
安田さん? 昨夜電話した依頼人だ。
画面に映るアパートの外観、警察のテープ、血だまりのテロップ。
殺された? 私が調査を進めたせいで?
手が震え、蜂蜜のパンが喉に詰まる。
ニュース映像が、安田の自宅前のインタビューに切り替わる。
近隣住民の声が重なる。
「最近、怪しい男がうろついてた」
「安田さんは優しい人だったのに…。昨夜、玄関で誰かと口論してる声がしたよ」
「血だらけで倒れてたって。5時頃に近所で叫び声が…」
キャスターが続ける。
「警察は名刺の持ち主を特定中。事件性が高いとみて、緊急捜査本部を設置しました。周辺には監視カメラが少なく、目撃情報が鍵を握ります」
私の名前が挙がる瞬間が近い。
胸が締め付けられ、冷や汗が背中を伝う。
昨夜の電話——
安田が「変な電話があって怖かった」と漏らした言葉が、脳裏にこびりつく。
組織の警告か。
深淵が、私に牙を剥いた。
名刺——紫微探偵事務所のものだ。
財布に私が渡した一枚が、殺人現場に落ちていた。
昨夜の電話が頭をよぎる。あの「変な電話」が組織の脅しで、私の調査を知った彼らが安田を黙らせたのか。
安田の「怖かった」という声が、耳にこだまする。
私は拳を握り、机を叩く。
舞を救うためなら、どんなリスクも背負う覚悟だ。
だが、心のどこかで、10年前の無力感が私を縛る。
直後、スマホが鳴る。着信は葛城玲奈
——愛知県警捜査第一課の刑事で、割り切りのセフレ。
赤い瞳の私が、彼女の前でだけ弱さを晒す数少ない女性だ。
「綾? 今すぐ来て。事情聴取よ。安田の殺人現場近くで、あなたの名刺一枚が見つかったの。それに電話履歴もね」
声に棘があるが、刑事の仮面の下に心配が滲む。
「わかった。金山の途中で寄る。喫茶店でいい?」
玲奈の事情聴取は、いつも名目で本気の心配が混じる
「いつもの店。1時間以内」
電話を切り、胸がざわつく。警察の網に引っかかるのは避けたいが、玲奈を無視できない。
彼女は法の内側、私のトラウマを唯一共有する女性だ。
それにあの事件で保護管だったのが彼女の今は亡くなった父親だ。
嫌だけど、行かないといけないよなぁ
事務所を飛び出し、アクアブルーの車に飛び乗る。
エンジンをかけ、栄の朝ラッシュを抜ける。
安田の死が、調査を加速させる。
QRの闇が、命を奪うほど深いことを思い知らされる。
ハンドルを握る手が汗ばみ、昨夜の安田の声が耳に響く。10年前の鎖の感触が再び蘇り、だが今は後退できない。
舞を救い、闇を暴くためだ。
車を走らせながら、窓から見える栄の街が、冷たく不気味に感じられる。




