1章 栄の夜に沈むQR 1
(オアシス21/正午すぎ)
依頼人から預かった顔写真を日差しにかざして確認した。
正面を向いて無表情、目尻が少し上がり気味で、左の口角にほんの少し癖がある。
長い黒髪をまとめたポニーテール。少しでも動くと、その髪がふわりと揺れるのが目に浮かぶ。
背は、後ろの門扉と比べると、たぶん一六〇センチは超えているくらいかな。
第一印象は、学校でもすぐ目立ちそうだなと思った。
多分、クラスでもモテてるんじゃないかな。
覚えるのはこのくらいかな。
写真を封筒に戻し、名刺束と一緒に内ポケットにしまった。
鞄の重みが肩に食い込むけれど、今日の湿気がそれすら心地好い錯覚に変えてくれる。
オアシス21の地上広場に立つと、楕円の水盤が空を大きく押し広げる。
三角のガラス屋根が陽を反射し、白い手すりがまっすぐに光る。足元には反射の網が広がって、そこに映る風景が不思議な美しさを持っている。
バスの到着音と、アスファルトにこもった熱、それから売店から流れてくるアルコールの匂い。
全部まとめて、湿った風が運んでくる。
六月の名古屋は、ほんと遠慮がない。
髪が頬に貼り付いて、首筋までじっとりしてくる。
毎年のことなのに、この湿度にはいまだに慣れなくて死にそう。
私がジャケットなんて着てるのも悪いのかもしれないけど
こんな日は調査をやめて冷房の効いた部屋でのんびりしたいぐらいだけど、仕事だから仕方ない。
倒れたら話にならないし、せめて熱中症だけは自分で避けておかないといけないよね。
額の汗を手の甲でぬぐって、バスターミナルのカウンターに向かった。
窓口の前には何人か並んでいて、冷房が効いているはずなのに、人の熱がこもって少しむっとする。
私の番になったところで、カウンター越しの女性に名刺を出し、封筒から写真を見せる。
「この子、どこかで見覚えはありませんか。いつ・どこで、くらいで大丈夫です」
彼女は写真と私の顔を一度見比べてから、モニターに視線を落として首をかしげる。
「うーん、入れ替わりが多くて……すみません。毎日何百人も通るんですよ」
苦笑いまじりにそう言われて、こっちも軽く会釈して下がる。
通る人の顔を一人一人覚えてたら、それこそ人間業じゃない。
今度は売店の方へ回る。
棚の前で品出しをしているおじさんに声をかけて、さっきと同じように写真を見せる。
「似た子はよく見るけどなあ。これって言われると、ちょっとわかんないね」
返って来た答えは、やっぱりぼんやりしている。決め手にはならない。
メモ帳を開いて、「バスターミナル:収穫なし」と走り書きする。
ペン先が紙を擦る音だけが、やけにくっきり耳に残った。
人の記憶なんて、もともとあいまいだし、仕方ないよね。
屋上の「水の宇宙船」へ上がる。
エレベーターの扉が開いた途端、風が一気に顔にぶつかってきた。
手すりにそっと指をかけると、足元の方から送風の低い唸りが、かすかに指先に伝わってくる。
ガラスの甲板を一周してみた。
手すりと植栽の帯のあいだは風の通り道みたいになっていて、ここだけ少し外の視線がゆるむ感じがする。
相変わらず不思議な感覚が起きるので私は結構好きだったりする。
ベンチの端に、紙コップの底がつけた丸いシミがひとつある。外側だけ色がまだ濃い。
ついさっきまで、ここに誰か座っていたんじゃないかなって思う。
支柱の足元には、四角いテープの跡。
小さい紙でも貼ってあって、それをあわてて剥がしたみたいな糊の跡が、うっすら残ってる。
街中だったら、電柱とかシャッターにこういう跡があっても「まあそんなもんか」で流しちゃう。
でも、景色をきれいに見せたいはずのオアシス21で見ると、ちょっとだけ場違いに見える。
家出してる子たちが、ここを待ち合わせに使ってるのかもしれない。
時間と短いひと言だけ書いた紙を貼っておいて、合流したらすぐはがす、みたいな簡単な合図かもしれないなぁて推理してみた。
その推理が当たっていたとしても全く意味はないけど
気にならないと言えば嘘だけど、ここで立ち止まってても仕方ない。
今は、この場所に残ってる手がかりをひとつでも多く拾うほうが先だ。
私はもう一度舞さんの写真を見る。
風が写真をめくりそうになるのを指で押さえて、近くでゴミ袋をまとめている清掃スタッフに声をかける。
簡単に名乗ってから、写真を見せた。
「この子、見たことあります?」
中年の男性はほうきを止めて、目を細める。
「はっきりとは言えないですね。似た雰囲気の子なら、ここだと珍しくないですし。夜遅くに集まる子たち、多いですよ」
都会は、似たような雰囲気の子でいっぱいな可能性が多い。
郊外なら、少し変わった雰囲気だったらすぐにわかるのに。
手すり越しに下の交差点をのぞく。
信号が青になった瞬間、人が一気に広がって、すぐばらけて流れていく。
降りるなら、地下より地上口のほうが早そう。
やっぱりここは、誰かがたむろする場所というより、通り抜けていく場所なんだよね。
メモに「屋上:テープ跡いくつか、夜に人が集まってる可能性」と書き足した。
地下の「銀河の広場」に降りてみた。
上の水面の揺れが天井に映って、光の網みたいになってふわっと広がっている。
空調の低い音がずっと続いていて、ときどきエレベーターの到着音が混ざっていた。
床の石は人の往来でよく磨かれていて、よく通るところだけ少し明るく光って見える。
柱の足元には注意書きの掲示。その角だけ日焼けしていて、その横に四角いテープの剥がし跡。
地下鉄や地下街ともつながっているから、平日なのに人通りは途切れない。
インフォメーションで名刺を出して、写真を一秒だけ見せる。
カウンターの中のスタッフの女性は、申し訳なさそうに首を振った。
「申し訳ないです。この階は通り抜けで使う方が多くて……。
でも、最近ベンチに座ってる子たちのグループを見かけたって話はあります。
家出っぽい雰囲気の子たちで」
大当たりって感じじゃないけど、まるっきりハズレってほどでもない。
メモに「ベンチに丸いシミ二つ、ゴミ箱の横に新しいはがし跡」と書き込む。
広場を一周して、出入口の先を見る。上りエスカレーターと階段があった。
人の列が明るい場所に出ていって、また別の陰に吸い込まれていく。
昼だと、どうしても目に入るのは「形跡」ばっかりになる。
私が探す子を探すのなら、やっぱり夜のほうがやりやすいのかもしれない。
それにさきほどから気になっているテープの跡には、いったい何が貼ってあったんだろう。
スマホで時間を確認したら、もう正午を過ぎていた。
喉がからからだったので、売店横の自販機で冷たいお茶を買う。
ペットボトルの冷たさが、少しほっとする。
麦茶ってなんでこんな気持ちになるんだろう。
さっきまでの聞き込みを簡単にメモにまとめてから、広小路通の横断歩道に向かう。
青の時間は短いから、信号が変わった瞬間、歩幅をちょっとだけ大きくする。
渡りながら周りをぐるっと見回す。
サラリーマン、学生、買い物袋を下げた主婦。
雑賀舞の特徴、ポニーテールと左の口角の癖に当てはまりそうな子は、ぱっと見ではいなかった。
渡りきった先は久屋大通公園。
大きい車道と車道のあいだに、そのまま大きな分離帯みたいな広場になっていて、木がずらっと並んでいる。
その木の上にかぶさるみたいに、細い鉄骨を組んだ塔がまっすぐ伸びていた。
今はMIRAI TOWERって呼ばれている観光スポット。
東京でいう東京タワー、みたいなポジションだよね
公園のベンチや噴水の周りをぐるっと回りながら、ジョギング中の人や、芝生で弁当を広げているグループに声を掛けていく。
「すみません、この子見たことないですか?」
何人かにスルーされて、ようやく一人のおばさんが足を止めてくれた。
「似た子、昨日の夕方に見たかも。黒いキャップ被って、友達と話してたわよ」
黒いキャップ、という単語が頭の中で引っかかる。
安田さんが言っていた証言と、ちゃんとつながる。
メモに「公園:類似目撃、夕方」と書き足す。
でも、それだけで舞さん本人と決めつけるには弱すぎる。
そのあとも何人かに声をかけてみるけど、決定打にはならない。
木陰に入って一息つき、スマホの地図アプリを開く。
このあとどこを回るか、大須の情報屋に連絡を入れるか、頭の中でざっと並べてみる。
少しヤバいかも、昼の熱気で思考が少しぼんやりしてきた。
人の記憶はもともとあいまいだし、今日みたいな昼間に細かい顔情報を期待するほうが無理があるのかもしれない。
よし。ここでいったん区切ろう。夜に期待してみようかな。
(栄・事務所)
栄の熱気が背中にべったりと張りつくころ、私は事務所の雑居ビルに戻ってきた。
冷たい白い光がコンクリートの壁に均等に影を落とし、金属製の階段を踏むたびにカツン、と音が響く。
三階。すりガラスの扉に〈紫微探偵事務所〉の文字が見える。
真鍮の鍵を差し込んで、静かな音を立てて回す。
部屋に入ると、紙とインクの匂いがふわっと広がって、換気扇の低い唸りが耳に届く。
右手にはデスクがあり、左にはソファベッドが置かれている。
ローテーブルの上には、テレビのリモコンが今朝のまま、少しだけ傾いた角度で置きっぱなしだ。
この部屋にいるのは、だいたい私ひとり。
誰かが来ることもあるけど、たいていが依頼人だった。
ブラインドの隙間から午後の陽光が差し込んで、部屋の中に埃がふわりと舞っている。
上着を椅子の背にかけ、封筒をトレイに、鍵をテーブルに置く。
ブラインドの角度を少し変えると、光の線が床を横切り、午後の白い光が少しだけ柔らかくなった。
ソファのシーツに残った皺や、リモコンが少し傾いているのを見ると、なんだか落ち着く。
ちょっと恥ずかしいけど、愛着のある風景だ。
コップに水を注ぎ、ぐっと流し込む。
冷たさが喉を通り抜けると、張りついていた湿気がふっと取れた気がする。
女の顔に戻ったような気がする。鏡を見たら、リップが落ちているだろうし、髪も湿気で広がっているだろうけど。
まあ、誰に見せるわけでもない。
汗を落として、気になる匂いも取りたい気分だった。
(シャワールーム)
白いLEDライトが真っ直ぐに落ち、樹脂パネルの壁が柔らかい光を放つ。
蛇口をひねるとぬるめの水が手のひらに落ち、最初のひと跳ねは手の甲で受ける。
肩から水を流し、うなじや鎖骨、胸元を斜めに洗い流すと、水が肌の曲線をなぞって、腰で一瞬溜まり、太ももへと落ちていく。
昼はよく働いてくれたけど、夜はもっとハードになる可能性があるので今はリラックスしないとね
アルビノに近い白い肌が、ほんのり湿って、透明感が増していく。
日焼け止めが洗い流される感触が、ほんの少しだけ心地よく、安心をくれる。
ボディソープを一押し、泡が指先に優しく立ち、香りは薄い柑橘の香りがふわりと広がる。
鎖骨から胸元に向かって、円を描くように泡を流すと、白い泡が谷間にひと筋残り、少し時間が経っても消えずに、そこにまとわりついている。
わざと焦らすように、最後に熱い湯をかけると、泡はすぐに溶けて消えた。
二の腕から脇腹、くびれを丁寧に洗いながら、指先が胸元の下や腰のあたりをかすめるたび、少しだけ動きが鈍る。
温かいお湯に包まれながら、肌に赤みが浮かび、心の中で感じる以上に身体が敏感になっていく。
鏡越しに胸が上下するのを見て、無意識に息を止めて、ほんの少し目を逸らしたくなる。
櫻華流で鍛えた筋肉が水流に揺れ、しっかりと支えてくれるけど、それでもこういうプライベートな瞬間に感じる繊細さが、体に残っている。
シャンプーは無香料に近い。
根元に指を差し込んで、地肌をやさしく揺らす。
泡が束になって、耳の縁をすべり、首筋をくすぐる。
目を閉じると、まぶたの裏で光が揺れて、少しだけ眠くなる。
流すと、お湯が均等に跳ね返って、ガラスの端で細かい網目のように割れた。
すりガラスの向こうに、自分のシルエットがぼんやりと浮かんでいる。
見られていないはずなのに、どこか見せている気分。
女って、こういう時だけ少し気取るんだよね。
湯気で鏡が白く曇って、そこに指を軽く滑らせると、赤い目が一瞬、顔をのぞかせる。
髪の水分を絞ると、毛先が肩口にぴったりと貼りついて、ひんやりとした感触が広がる。
うなじにもう一度だけ湯をかけてから、レバーを戻す。
換気扇のスイッチを切ると、低い音がふっと消えて、鼓膜の内側が軽くなる。
この瞬間が、なぜか少しだけ心地よくて、私は結構好きだった。
十年前の“深淵”の記憶が、湯気の中でふっと浮かんでくる。
あの恐怖で白くなった髪が、今は水に濡れてずっしりと重く感じる。
どうしてこんなこと、今思い出してしまったんだろう?
ここ数年、思い出すこともなかったのに。
タオルを首にかけると、布がしっとりと肌をなぞり、熱を奪って冷たさを残していく。
胸元を端でそっと包み込み、鎖骨からみぞおちへと流れる。
滴る水を追いかけるように撫で下ろすと、豊かな胸の下でいったん手が止まり、柔らかな感触と鼓動を隠しきれずに布が沈む。
脇腹を撫でると、くすぐったさに思わず息が止まり、唇からかすかな吐息がこぼれた。
太ももの内側を一筆で撫で下ろし、熱を残した指が触れるたび、体の中で火照りがまた蘇る。
最後に、かかとをなぞり、布越しに小さな骨の輪郭を感じ取ると、背筋を走るような冷たい感覚が広がった。
(仕事部屋)
自分の体を、誰よりも近くで愛おしむように確かめているのは、
やはり私しかいない。
ドライな恋人たち、凛、玲奈、千景との関係では、こういう感傷は許されない。
割り切った触れ合いだけ、そう思っている。
ペールピンクのシアー・スリップに腕を通す。細いストラップ、ロールヘム。
布が火照りの残る肌にふわりと冷たく触れて、息がひとつ深くなる。
女に戻った、この時だけはね。
鏡で自分を確認してみた。
赤い目が、疲れを映している。
銀髪が肩に落ち、アルビノめいた透明な肌が、事務所の薄暗さに溶け込んでいた。
ソファベッドを半分だけ引き出し、スマホの目覚ましを夜に合わせる。
蜂蜜の匂いがまだ残るキッチンを横目に、深くひと息。
昼の仕事は空振りに終わったけれど、
拾った痕跡は、必ず夜につながると信じている。
テープ跡、ベンチの染み、目撃の断片。
雑賀舞はどこにいる?
なぜ先ほど深淵が関わっているんじゃないかと思ったのか?
十年前に壊滅したはずの組織が、今も動いているのだろうか?
それとも、ただの勘違いか、妄想に過ぎないのかもしれない。
目を閉じると、静けさがじわりと胸に落ちてくる。
おやすみ。
ゆっくり休んで、夜に備えよう。
きっと長い夜になる予感がするから。
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