序章 新しい依頼
アクション探偵物になる予定です
古びた雑居ビルを上り、すりガラスの扉の前で足を止める。
ガラスには「紫微探偵事務所」と大きく書かれている。
稼ぎは決して多くないけれど、一人でやる分には窮屈さを感じることは少なかった。
そっとドアを押し開けると、薄暗い事務所に紙の匂いと、換気扇の低い唸り音が響く。
右手にデスク、左手にはソファベッドが見える。
ローテーブルの上に転がっている薄型テレビのリモコンが、まるでひとりぼっちのように放置されている。
上着を椅子に掛け、鍵をテーブルに置く。
リモコンを避けるようにして、使い込まれたヴィトンのバッグを静かに置く。
家にはほとんど帰らない。
ここが私の寝床であり、生活の拠点だった。
私は心の中で愚痴をこぼす。
なんで探偵の仕事って、浮気調査ばかりなんだろう。
小説のような派手な事件なんて、偶然でもない限り起こらない。
だいたい、七割は浮気調査で、残りは身辺調査や人探し、ストーカー調査なんかが占めている。
ちょっと嫌気がさしてくると、変な事件が舞い込むこともある。
実際、一見退屈だと思っていた案件が、お茶の間のニュースになって、思わぬ笑いを取ったこともあった。
でも、今日は本当にくだらなかった。
いつものように、浮気調査のためにキャバクラに体験で入った。
普通、キャバクラに行ったからって、それが浮気にはならない。
飲んでおしゃべりして、楽しい時間を過ごして終わりのはずだ。
これで浮気だと言ったら、飲み屋に行く人は全員浮気者になっちゃう。
まあ、浮気のラインは人それぞれだとは思うけど。
軽いのは異性と二人きりで食事や映画に行くこと。
重いのは、一夜を同じ部屋で過ごすこと。
私はどうだろう。浮気かぁ。
きちんとした恋人なんて、今まで一度もできたことがないから、よくわからないかも。
やっぱり、私は割り切った関係の方が楽だし、気が楽だ。
特にこんな胡散臭い職業では、余計にそう思う。
それに、恋愛って結局カップル同士のやり取りだから、私はそこまで干渉しない。
干渉したところで、ろくなことにならないし。
結局、夫婦喧嘩の延長みたいなものだからね。
……なのに、くだらないはずの案件が、思わぬ面倒事に繋がっていた。
そのキャバクラには裏オプションがあった。
店に金を払って、気になる子をホテルにお持ち帰りできるシステムが。
なんでそんな危険なことをするのか、私には全く理解できない。
それでも、裏はしっかりとるのに成功した。
ホテルに入る瞬間と、朝に出るところを撮影した。
今朝方戻ってきて、その写真を添付して奥さんにメールしたんだけど。
あとは奥さんがどうするか、彼女の判断だしね。
商売女は浮気にはカウントしない、という人もいるけれど、
私の勘では、もめるだろうな。
普通でももめるのかな?わからないけど、そんな予感がした。
私は奥さんに証拠を渡して、さっさと事務所に戻った。
そのまま居残っていたら、仲裁役とか、余計なことに巻き込まれてロクなことにならないから。
そんなお金にもならないこと…お金になってもやりたくないしね
少し仮眠を取りたいけど、その前に汗と汚れを落とさなければ。
シャワールームに向かう。
ドアを引くと、白いLEDの光がまっすぐに差し込む。
壁は樹脂パネル、床はグレーベージュのタイルが並んでいる。
サーモの混合水栓と、スライドバーのシャワー。鏡は縁なしで、表面に細かい水滴が浮かんでいる。
24時間換気の低い風音が、部屋を静かに包む。消毒アルコールと石けんの混ざった薄い臭いが鼻をつく。
ゴム目地の角に、うっすらと黒ずみが残っている。
裾をひと折りして、温度を38度で止める。
やはり、シャワーだけじゃなく、きちんとしたお風呂に入りたい。
家に帰ればお風呂はあるけど、出来ればあそこの家には帰りたくない。
私にとっては、あの家はただの負の遺産でしかないから。
帰るのは、月に一度か二度ぐらいだろうか。
そう考えていると、シャワーを浴びながらふと頭によぎった。
やっぱり、もうここが私の帰る場所なんだなと。
シャワーを終えると、アルコールと石けんの匂いだけが部屋に残った。
ペールピンクのシアー・スリップに腕を通す。
細いストラップが肩に掛かり、縁はロールヘム。下には薄いライナーがついていて、体の線がうっすらと浮かび上がる。
こんな雑居ビルの部屋で、こんな格好をしている自分が、まるで場末の風俗嬢みたいに思えてくる。
なんだか今日は、いつも以上に感傷的すぎる。
こんな日は、誰かに会いたい気分なんだけど、それよりも眠りたい心境だった。
証拠を取るために徹夜だったし仕方ないよね。
ソファの座面を引くと、金具が二段で止まり、革が小さく鳴いた。
タオルを縫い目に沿って広げ、じわっと体温が回るのを待つ。
充電ケーブルを差し込み、通知を切る。
ブラインドを半分だけ下ろすと、街の白い光が細い線になって、部屋の中に差し込む。
冷蔵庫のコンプレッサー音、換気扇の低い唸り、遠くで響くタイヤノイズ。
その音に呼吸を重ねるように、私は静かに眠りにつく。
この音を子守唄にして、心地よい眠りへと誘われていく。
朝日を感じて、私は眠たそうに目をこすりながら、時刻を確認する。
カーテンを閉め忘れていた私は、朝日で半覚醒してしまった。
まだ眠いけど、今何時かと思い目覚まし時計を見た。
現在時刻は9時40分。うちは一応、10時開店だから起きないといけない。
眠い体を起こし面々が終わるころには頭はさえていた。
いつものように冷蔵庫から食パンを取り出し、赤い扉のレンジに入れる。
温めたら、蜂蜜をたっぷりとかける。
ティファールで湯を沸かし、カップにインスタントコーヒーの粉を入れて湯を注ぐ。
私を助けてくれたあの人は、コーヒーが好きで、ブレンドや焙煎まで自分でやっていた。
私は手早くて面倒くさがりだから、そんなことはしないけれど。
それに、現代社会は私が思っている以上に時間が早く流れる。
朝ごはんを並べ、ニュースを一本だけ流しながら、私は静かにその時間を過ごす。
私の朝は、いつもこうして始まる。
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身なりを一応整えてから、OPEN札を返す。
二十分は過ぎてしまったが、仕方ない。
いくら何でも最低限の身だしなみは整えないとね。さすがに羞恥心もあるし。
今日も読みかけの小説を読みながら時間をつぶそうと思っていた矢先、呼び鈴が鳴った。
まあ、どうせ昨日と同じように、浮気調査か素行調査、または人探しのどれかだろう。
案の定、人探しの依頼だった。
この事件が、私が約十年前に覗いた深淵を、もう一度覗くことになるとは思ってもいなかった。
今の私が知るはずがない、
けれど、心の中では、少しだけ予感がしていた。
「どうぞ」
私の声に、重い扉がきしみながら開く。
入ってきたのは、くたびれたサラリーマン風の男性。
四十代手前。靴は黒光りで磨かれているけれど、底はすり減っている。
裾のシャツは少しくたびれていて、営業だろうなと思う。
「どうぞ、おかけになってください」
礼を言って腰掛ける男性。視線が私の顔と事務所の看板を往復する。
「探偵はどこだ?」と、まるで探し物をするかのように、私をじっと見つめる。
私は名刺を出す。
「紫微探偵事務所、所長兼探偵の紫微 綾です」
彼は一瞬だけ目を丸くし、少し驚いた様子で内ポケットから名刺を取り出して渡してくれた。
名刺の角を親指で無意識にいじりながら、私の顔をじっと見つめる。
彼は珍獣でも見るように、私をじろじろと見つめる。
……それも仕方ない。
女性一人の探偵、しかも二〇代だ。
髪は…私は銀髪だと言っているが、分類的には多分白髪だろう。
昔の事件の恐怖で白くなったらしい。
実際のところは分からないけれど、医者がそう言うなら、きっとそうなのだろう。
目は赤く、肌は透明感があるほど白い。
アルビノと言われることもあるけれど、実際にはアルビノではない。
それでも肌は弱いから、年中日焼け止めを欠かさず塗っている。
身長は一六〇センチしかない。
「所長」と言うと、二重の意味で驚かれることも、これまたいつものことだ。
よくある話だ。依頼予定の彼も名刺を出し、自己紹介をしてくれた。
依頼はこんな感じだった。
依頼人は安田 俊介、四二歳。
雑賀 舞、一六歳を探してほしい。
関係は娘で、奥さんが再婚して苗字が変わったらしい。
聞けば、最近、娘さんは家に帰ってこないらしい。
安田さんのところに来ていないかと、別れた奥さんから連絡があり、事態を知ったという。
一週間ほど経ってから警察に届けたため、なかなか見つからない。
当初、奥さんは「友達の家に泊まっているだけ」と思っていたらしい。
二~三日連絡がなくても、泊まることはよくあることだと。
でも、さすがに一週間も帰ってこないとなると、不審に思ったようだ。
警察と安田さんに連絡を入れたが、連絡が一週間以上ないとなると、心配するのは当然だと思う。
事件性がなければ警察も動きづらいし、友達の家に泊まるのは今どき珍しくもない。
それに、家出が年々増えてきているし、警察も人手が足りていないんだろう。
だからこそ、うちみたいな探偵の出番が回ってくる。
「安田さん、ゆっくりでいいです。少し詳しい話を聞いてもいいですか?」
そう言うと彼はスマホを伏せて差し出す。
「既読にはなるんですけど、返事が来ないんです」
「最後に顔を見たの、いつですか」
「先週の金曜。駅前で五分だけ会いました。黒いキャップをかぶってました。」
「お母さん側は?」
「再婚して姓が変わってます。昨夜、そっち行ってない?って電話がありました」
「親権は奥さまですか?」
「はい、そうです。雑賀と言います。」
安田さんは視線を落として、名刺の角を少し潰す。
「連絡先を確認します。LINEは既読止まり。電話は鳴りますか?」
「鳴ります。…今は出ません。留守電も入れない。」
そりゃそうだろうね。
連絡があれば、私のところに来る必要ないし。
私はうなずきながら、封筒から写真を取り出す。
正面からの写真、無表情。目尻が少し上がり、左の口角がちょっと癖になっているのかな。
ポニーテールが特徴的だ。
覚えるのはそれくらいでいいかも。
でも、かわいいのに無表情なのは、ちょっと残念かも。
「写真は預かります。返却は必ず。費用はここに、着手金と実費、報告は進捗ごとにします。夜の連絡は短文でお願いします。既読がつかなくても、ちゃんと確認しますので。全力を尽くします。若い女性を探すのは、男性よりも女性の方が調べやすいので、安心してください」
安田さんは、私の言葉で安心したのか、ゆっくりと頭を下げた。
「お願いします」
「わかりました」
私は番号・住所・連絡先の順に最終確認をした。安田さんに確認して、小さくうなずいて告げる。
「私はオアシスとか、少年少女たちが集まる場所から行きます。安田さんはお仕事がなければ家に帰ってください。無いとは思いますが、行き違いという線もありますので、何か変化があったら、その瞬間に連絡ください。最初の一報は今日中に入れます」
「はい」
そう言って安田さんは事務所から出て行った。
私は立ち上がり、鍵や財布、スマホ、メモをいつもの順番で鞄に放り込む。
静かな事務所の中で、準備をしながら次に何をするべきか考える。
ドアを引くと、廊下の蛍光灯が一瞬だけちらついた。
階段の手すりは冷たくて、あまり変わらない。
靴音が三階から二階に向かって響く。
その音に合わせて、私はゆっくりと階段を降りていった。
足跡が残ってるといいな、なんて思いながらオアシス21に向かった。
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