鎖が断ち切られる時
私が一歩踏み込もうとした瞬間。ボスが、脂ぎった顔を歪めて低く笑った。
テーブルの下にある隠しボタンを、狂ったように叩いた。
私はもしかして逃走経路かって思った瞬間だった。
ガチャン、という重厚な機械音が室内に響く。
壁のパネルがスライドし、そこから現れたのは「人間」の形をした異形の怪物だった・。
身長は二メートルを優に超え、筋肉の一房一房が破裂せんばかりに膨張している。目は血走って赤く充血し、口からは獣のような濁った呼気が漏れていた。
組織の切り札。
薬物で無理やり強化された狂戦士。理性を失った瞳には、ただ破壊の衝動だけが宿っている。
「かまわん、潰せ!そいつの代わりはいないが、もうそんなことはどうでもいい」
ボスの短い命令と共に、マッチョが地鳴りのような咆哮を上げて突進してきた。
ドォォォォォンッ!
床が悲鳴を上げ、凄まじい足音が鼓膜を直接震わせる。頑丈なはずのコンクリートが奴の重圧に耐えかねて軋み、その逃げ場のない振動が、足元から私の全身へと伝わってくる。
巨大な壁が、殺意を持って押し潰しにくるような圧倒的な威圧感。
巨大な拳が、風を切って振り下ろされる。空気が裂ける重い音が聞こえてきた。
私は体を深く沈め、櫻華流・動視でその死の軌道をギリギリで読み切る。
こぶしの巨大な影が視界を覆い尽くし、猛烈な風圧が頰を叩いた。
拳がかすめ、コートの裾が裂ける音が室内に響く。
ガガッ、と布地が力任せに引き千切られる生々しい感触。
もし反応がコンマ一秒遅れていれば、今ので私の体は砕け散っていただろう。
背筋を冷たいものが駆け抜ける。
こいつ、ただの薬漬けになった奴じゃない。
格闘のプロが薬漬けになって、組織の命令を聴くだけの獣になったんだ。
研ぎ澄まされたプロの技術を、薬でリミッターを外した獣の本能で振り回してくる。
力任せの暴力じゃない。急所を的確に、最短距離で、それでいて異常なまでの怪力で狙ってくる、
最悪の殺人機械がこいつなんだと理解した。
一瞬の油断も許されない。私は冷や汗を拭う暇もなく、再び襲い来る獣の影を睨み据えた。
私は間髪入れず、地を蹴った。
バネのように体を弾ませて、一気に男の懐へと飛び込む。
突っ込みながら、地を棲うような低さまで一気に姿勢を落とした。
そこから独楽のような鋭い回転力を加えて踏み込み、死角から奴の足元へ潜り込む。
低く沈み込んだ姿勢のまま、一回転する勢いのすべてを奴の足元と重心へと叩きつける。
巨体でフィジカルが強い相手の体勢を、物理の法則で体勢を崩すための技。
櫻華流の『瞬身』を使用した。
すべてが完璧だった。
狙い澄ました回転軸が奴の重心を捉え、その巨体を根こそぎ刈り取るはずの、確信に満ちた一撃が決まったはずだった。
しかし、相手は気にするそぶりも見せなかった。
膝をつくどころか、奴の足はコンクリートに根を張ったかのように一ミリも動かない。
それどころか、薬で感覚を失った真っ赤な瞳が、足元で回転する私を、まるで路傍の石でも見るかのような無機質な視線で見下ろしていた。
完璧な「崩し」を食らってなお、微動だにしない筋肉の壁。
奴は痛みも衝撃も、最初から存在しないかのように無視している。
私の行動は、硬い鋼鉄を蹴った時のような、無慈悲なまでの反動だけだった。
「そんな、バカな・・・」
絶望する私をあざ笑うかのように。
奴の太い足が、無防備な私のお腹を目掛けて、容赦なく振り下ろされた。
踏み潰される直前、私は反射的に床を転がった。
ドゴォォォォンッ!
直後、さっきまで私の腹があった場所に、凄まじい衝撃音が轟く。
コンクリートの床が爆ぜ、砕けた破片が礫となって頬を掠めた。
コンクリートを粉砕する足の力。
まともに食らえば、内臓ごとすりつぶされていたに違いない。
私は埃にまみれながら、必死に距離を取る。
だが、回避の衝撃で肋骨の激痛が跳ね上がり、喉の奥まで熱い血がせり上がってきた。
視界がチカチカと点滅する。
そんな私の苦痛など知らぬげに、奴はゆっくりと足を土中から引き抜き、また無機質な視線をこちらへ向けた。
その瞬間、肋骨の傷が激しく疼いた。
事故の後遺症が、最悪のタイミングで牙を剥く。
意識が遠のくほどの激痛に、視界が揺らいだ。
男の巨大なタックルが襲いかかってくる。
私は反射的に避けようとした。だが、動いた瞬間にガクンと膝が落ち、踏ん張りがきかない。
回避が遅れたその隙に、男の巨大な肘が正面から直撃した。
ドカッ、という鈍い衝撃が耳音で聞こえた。
体が紙屑のように浮き上がり、数メートル後ろの壁へと叩きつけられた。
背中からコンクリートに激突し、衝撃が脊髄を駆け抜ける。
ゴフッ、と肺の空気が無理やり吐き出され、焼けるような痛みが襲う。
視界が白く光り、地面に落ちた膝が、自分の意志とは無関係にガクガクと震えて笑う。
「まった……く。女性のエスコートが……なって……ないわよ」
私は壁に手をつき、なんとか意識を繋ぎ止めた。
口に広がるのは、生臭い血の味。唇を深く噛み破ったのだろう、血が顎を伝って床に滴り落ちる。
肩の傷が熱く脈打ち、じわりと血がコートを赤く染めて肌に張り付く。
体中の細胞が、限界だと悲鳴を上げていた。
わかってたけど、長期戦出来るコンディションじゃないな。
視界の端で、舞の視線を感じた。
負けられない。ここで負けたら元の木阿弥だし。今までの十年間が無駄になる。
男が、息を荒げながらゆっくりと立ち上がる。格闘家の骨格と筋肉を、獣の本能が操っている。充血した真っ赤な瞳が、再び私を殺すためだけに捕らえた。
私は『流転の構え』をとり、膝を軽く曲げ、バラバラになりそうな体の芯を強引につなぎ留めた。 岩のような質量が目前に迫る。
私はその勢いを手のひらで捉え、円を描くようにいなそうとした。
だが、今の私にはその衝撃を逃がしきるだけの踏ん張りがきかない。
逃がしきれなかった凄まじい衝撃が、手のひらから肩へと突き抜け、私は再び数メートル後方へと吹き飛ばされた。 床を転がり、たまらず膝をついて激しく咳き込む。
吐き気が喉を逆流し、視界がぐにゃりと歪んだ。
口から滴った血の塊が、じゅうたんを無残に汚していく。
男が、勝利を確信したように咆哮を上げ、巨大な拳を高く振り上げた。
舞の悲鳴が聞こえ、ボスの歓喜の声も聞こえた。
残念だけど、私は、あの日から諦めが悪い方だ。
私は、床の埃を指先でかき集め、渾身の力で男の真っ赤な目掛けて投げつけた。
「――っ!?」
さすがの怪物も目は鍛えれないみたいだった。
男のまぶたが反射的に閉じた。
奴の視界が一瞬塞がった。その刹那、私は一気に奴の死角へと潜り込み、背後を取った。
私は腰のベルトに指をかけ、灰皿を模した隠しボックスの蓋を親指で弾く。
まきびしは全部使い切ったが、蓋の裏にはまだ、極細の鋼糸ワイヤーが残っていた。
取り出したワイヤーを奴の太い首筋に迷わず絡め、全力で引き締めた。
男が咆哮を上げ、私を背負ったまま振り払おうと暴れる。
だが、私はワイヤーを素早く絡め直し、全体重をかけて首を後ろに引き倒した。
ドォォォン……!
巨体が床に叩きつけられ、ホールが激しく震える。
爆発的にホコリが舞い上がり、喉の奥が詰まった。
だが、男はなおも這い起き上がろうとする。
まだ立とうとするの?
丈人だったら、首の骨が折れているっていうのに。
本当に化け物ね。
私は、無防備に晒された奴の顎へ、右手の掌底を叩き込んだ。
衝撃で跳ね上がったその横面、こめかみを目掛けて、左の掌底を深く打ち抜く。
脳を直接揺さぶる、重い衝撃。 巨体が大きく痙攣し、今度こそ完全に、糸が切れたように脱力した。
荒い息を吐きながら、汗と血が滝のように額を伝う。
体が、限界を訴えて悲鳴を上げている。
肩の傷は熱く脈打ち、血がコートを赤く染め、床にポタポタと滴り落ちる。
視界は揺らぎ、膝はガクガクと震えて止まらない。
だが、勝った。
私は、激痛を噛み殺してゆっくりとボスの方を見た。
そして、顔を真っ青にして扉へ逃げようとしているボスへ、
――次は、お前だ
ボスが、慌てて扉へ逃げようとする。
私はナイフに回転を加え、ボスの足を狙いを定めて投げた。
銀光が閃き、ボスの足を正確に貫く。
ザクッ、という音が聞こえた。
ボスが悲鳴を上げ、床に崩れ落ちる。
足から血が広がるが、致命傷じゃない。動きを止めただけ。
櫻華流の飛刀をプレゼントした。
今の状態でもこれぐらいはできた。
私は、震える足を一歩ずつ踏み出し、床に這いつくばる奴へと近づく。
コートから滴る自分の血が、床に点々と、逃げ場のない道標を描いていた。
私は奴の至近に立ち、ナイフをその喉元に突きつけた。
「助けてくれ、命だけは! 過去は変えることはできねえんだ。わかるだろ。悪いことは言わねえ、我と手を組まないか? 対等なパートナーでやっていこうじゃないか。絶対にそっちの方がお互い理があるしな……なぁ!」
人はここまで下種になれるのか?
こいつは人の皮をかぶった何かに違いない。
自分さえよければ他人はどうでもいいのか。
十年前の記憶が、脳内で爆発する。
コンテナの闇。男たちの嘲笑。髪が白くなった絶望。
少女たちを商品にしたこの男。ストレッチャーに横たわった少女たち。言いなりになるしかない少年たち。
無念の中で死んだ安田さん。十年の月日と、今回の事件のすべてがフラッシュバックした。。
これですべてが終わる。私のしがらみの鎖を、今、断ち切る。
殺意が、冷たい炎となって燃え上がった。
私は、人ではない獣の脂ぎった顔めがけて、ナイフを振りかざした。
その時背後から、温かい腕が私を抱きしめた。
「ここまでよ、綾」
玲奈の声だ。
震えながらも、強い響きを持った声。
背中から伝わる彼女の体温と、汗で濡れたスーツの感触。
彼女もまた、死に物狂いでここまで駆けつけてくれたのだ。
「あなたは、もう十分戦った。あなたが殺人を犯す必要はないわ。……大丈夫よ」
指先から力が抜け、ナイフが床に落ちた。
カラン、という虚ろな音がホールに響く。
私は、玲奈の腕の中で、十年分の涙を零した。
自分を縛り続けてきた重い鎖が、音を立てて断ち切られた気がした。
やがて、舞がゆっくりと近づいてくる。
「えっと……助けてもらって、ありがとうございます」
彼女は私にジャケットを返そうとしたが、自分が下着姿だったことを思い出し、慌てて再び体を隠した。
「……そのジャケットの中に名刺があるから。落ち着いたらそこまで来て返してくれればいいわ」
「は……い」
外では、重なり合うサイレンの音が近づいてくる。
玲奈たちのチームが、ストレッチャーの少女たちを救出していく。
船はすでに、警察のボートに完全に包囲されていた。
私は、玲奈に支えられたまま、救急車へと乗せられた。
遠ざかる船を見つめながら、私は深く、重い眠りへと落ちていった。
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