嵐の前のハニー・トースト
(金山 白波探偵事務所 深夜)
白波探偵事務所の扉を開ける。
リビングに入った瞬間、トリプルモニターが放つ鋭い青い光が目に刺さった。
天井灯は落とされており、液晶の明かりだけが部屋の輪郭を不気味に浮かび上がらせている。
机の上では何本もの黒いケーブルがうねるように絡まり合い、その隙間で、いくつもの差し込み口の赤いランプが、まるで暗闇に潜む生き物の鼓動のように点滅していた。
これほどの機材は普通、居住スペースとは別の仕事部屋に置くものだと思う。
けれど、以前に凛へ尋ねたときには「いちいち部屋を移動するのが面倒だし、そもそも部屋が二つしかないから」という。
彼女らしい身も蓋もない答えが返ってきた。
片方が寝室になれば、おのずとこのリビングが彼女のプライベートを侵食し、そのまま事務所としての心臓部になるわけだ。
机の上では、紙袋の口がだらしなく開いたまま放置され、空になったコーヒーカップが二つ、茶色い輪染みを残して転がっていた。
使い込まれた革ジャンの乾いた匂いと、精密機械が吐き出す熱気が混ざり合った、特有の澱んだ空気。
ここは凛の『巣』なのだと、ここを訪れるたびに思う。
「シャワー浴びなよ。血と汗で臭う」
凛は椅子に深く腰を滑らせたまま、視線をモニターに固定して言った。
指先だけを動かし、タブレットを軽く叩いて接続の確認を続けている。
「はいはい、了解」
私はコートの重みを脱ぎ捨て、ハンガーへかけた。
袖口に付いた小さな黒い点に目が留まる。さっきの現場の煤が、乾いてこびりついていた。
靴下を脱ぐと、足裏に床の微かなざらつきを感じる。
戦場から戻ったばかりの体には、そんな些細な感触さえどこか生々しいと嬉しくなるから変だと思う。
私はそのまま、奥にある簡易シャワールームへ向かった。
白いタイル、無機質な樹脂パネル、そして冷たいLEDの光。
換気扇の低い作動音だけが、一定のリズムで鳴り響いていた。
給湯温度を三十八度に合わせ、まずは手首で熱を確かめてから、一気に肩へと浴びせる。
お湯が皮膚を伝って、包帯を巻いていた跡の周りで白く跳ねた。
傷口の近くは、直接触れなくても、じんじんと熱を持ったような痛みが残っている。
深く吸って、吐く。 柑橘のボディソープを一押し手のひらで泡立てて、うなじから肩へ、円を描くように優しく洗っていく。
こびりついていた硝煙の匂いが消えていき、代わりにさっぱりとした香りが肌に残った。
水を含んで重くなった銀髪が、首筋にぴたりと貼りつく。
鏡の曇りを手の甲で拭うと、赤い目がこちらを真っ向から見返してきた。
疲れと意地が半分ずつ。まぶたの縁に湯気がかかって、鋭かった視界が一瞬だけ、やわらかく滲んだ。
短くお湯を流して、栓を閉める。換気扇の音だけが響く中、タオルで水気を丁寧に拭き取った。
肩の位置を確かめるように動かしてみる。痛みの芯はまだそこにあるけれど、激しさは少しだけ引いた気がした。
シャワー室のドアを開けて外へ出ると、少しひんやりした空気が肌をなでる。
壁のフックに掛かっている、私の予備の黒Tシャツとスウェットを手に取った。
コットンの手触りは柔らかいけれど、布地はしっかりとしたものだ。
棚から救急箱を取り出し、消毒綿と新しい包帯を鏡の前に並べる。
鏡を見ながら包帯を巻き直す手つきは、自分でも驚くほど迷いがない。
テープの端を指先で押さえ、ずれないように角度を微調整する。
最後に肩をひと呼吸ぶん回して、固定具合を確かめた。
こういう応急手当は、もうかなり慣れたものだ。
10年前の事件が起きて少し経った頃、自分の弱さが悔しくて、どうにかできる力を欲した私は、あの人の紹介で『櫻華流古武術』の門を叩いた。
最初の数年間は怪我なんて当たり前だったので、おのずとこういう手当てが自然にできるようになったのだった。
今となっては、それも「いい思い出」なのだろうか。そんなことを思いながら、救急箱の蓋を閉じた。
脱衣スペースのドアを開けると、リビングの少し冷えた空気がふわっと肌に触れた。
戻ってみると、凛はソファの端に座り、片手に缶ビール、もう片方の手でマウスを細かく動かしている。
モニターには、千景がドローンで回収したというQRコードの紙片が映し出されていた。
紙の繊維まで見えるほどの高い解像度で、白と黒の格子の外側に、わずかな縁の歪みと角の折れ癖がはっきり映っている。
「千景は仕事が早くて助かる」
私はソファに腰を下ろした。クッションがゆっくりと沈み込み、疲れた背中を優しく受け止めてくれる。
凛は画面から目を離さないまま、無言でキンキンに冷えた缶を一本、こちらに差し出した。
「けが人にそれを渡すの?」
軽口を叩きながらも、私の指はちゃっかりとそれを受け取っていた。
プルタブを引き、小さなプシュ~ッという音が室内の静けさを切り分ける。
最初の一口を飲むと、キンと冷えた液体が喉の奥まで一気に降りていき、体の中に残っていた戦いのざわつきが少しずつ凪いでいった。
無事に生還したという解放感と、シャワー上がりの心地よい暖かさのせいか、その味はいつもよりずっと深く、美味しく感じられた。
「解析の元は、一時的な『置き場』を経由してる。痕跡はすぐに消える作りだし、うかつに踏めば位置情報が向こうに飛ぶ仕掛けだ。……でも、これで確定したよ。OK-2は『女の子向けの上位コース』で間違いない」
凛は画面から目を離さずに言い、人差し指でモニターの角を示した。
私はソファから身を乗り出し、拡大された画像に目を凝らす。
白い面の四隅のうち、一つだけ角がわずかに潰れていた。
何か硬いものに強く押し当てた時に付く特有の癖だ。斜めに伸びる薄い光の筋は、一度剥がしてまた貼り直した跡だろうか。不自然に重なったのりの層が、モニターの中で鈍く光を跳ね返している。
素早い作業に慣れている者の、迷いのない手の動きが紙の端々にうっすらと刻まれていた。
凛にしろ千景にしろ、よくこんな些細な情報からそこまで読み解けるものだと感心してしまう。
私には、こうしたデジタルな分析のことは一切合切分からなかった。
「OK-3……五十万スタートの仕事。十六歳の舞に、一体何をさせるつもりなんだ?」
缶を傾けながら、凛が私に教えてくれた。
金属の縁が唇に触れ、冷たさが喉へと落ちていく。けれど、不思議と胃のあたりは冷えなかった。
十年前の記憶の断片が、乾いたトゲみたいに指先の皮膚の内側に引っかかったまま、じりじりと熱を持っているようだった。
「千景が新栄のクラブ『シャドウ』に絞り込んでる。詳しいことは明日になるらしいよ」
凛は膝の上でタブレットを置き直し、革ジャンの袖を肘までまくった。
剥き出しになった手首の内側には、一本の薄い古傷がある。彼女自身はそれを気にする様子もなく、ただ淡々と画面を見つめていた。
「玲奈は?」
「あっちもお仕事中。無線で同僚とやり取りしながら、必死に報告書を書いてるってさ。メールで愚痴ってたよ。……内部の情報漏洩の件、かなり気にしてた」
私は、自分の肩をそっと回してみる。包帯の締まり具合はちょうどいい。
突くような痛みはまだ残っているけれど、可動域はだいぶ戻ってきた。
「刑事さんも楽じゃないな。よし、私もシャワー浴びてくる。あんたも寝るなら、勝手にソファベッド広げときなよ」
凛が立ち上がると、床材が小さく軋んだ。
シャワールームのドアが閉まり、少し遅れて、激しい水の音が響き始める。
私は空になった缶を、テーブルにいくつも残っているコップの丸い跡を避けて置いた。
再び画面へ目を向ける。白黒の格子模様は、私にはただの暗号にしか見えない。
けれど、私が信頼する二人がそう言うのなら、そこに真実があるのだろう。
明日は、この紙が貼られていそうな場所を、自分の足で探すことになる。
今夜は休もう。
舞や少年たちの行方は気になるけれど、ここで無理に動いても消耗するだけだと思う。
今回の件で、組織もそれなりの痛手を負ったはずだ。ボスが打撃を受け、クラブへの手入れも始まるだろう。
今日は、これでいい。そう自分に言い聞かせると、胸の奥でくすぶっていた悔しさが、少しだけ遠のいていった。
サイドテーブルから小さな救急箱を引き寄せ、包帯の端をもう一度だけ指で押さえる。
貼り足したテープが肌に馴染むのを待つ間、換気扇の低い音と、モニターのファンの回転音が心地よい背景音となって部屋に溶けていく。
室温は一定に保たれ、窓の外の様子はうかがえないが、雨はもう弱まっているのかもしれない。
無駄だと知りながら、千景から送られてきたデータを眺めていたら、シャワールームの水の音が止まった。
バスタオルで体を拭う気配。やがて戻ってきた凛が、肩にタオルを引っかけたまま、私の視線の先にあるモニターを覗き込んできた。
「どう?」
「私がこんなデジタルのこと、分かるわけないでしょ。拡大されてれば少しは見えるかなと思ったけど、やっぱり無理」
「了解。今夜は保存だけして寝るよ」
私の降参の言葉を聞いて、凛は小さく微笑んだ。
「異議なし」
私も、あれだけ痛めつけられたんだ。しっかり眠って、体を休めなくてはいけない。
凛はキーボードを叩き、データをいくつかの場所に分けて保存していく。
机の端に置かれた記録装置のランプが、規則正しいリズムで点滅を繰り返した。
作業が終わると、彼女は折りたたみのソファベッドに手をかけた。
「引き出すよ」
「お願い」
金具が二段構えで止まり、布地がこすれて小さく鳴く。
凛が片手でシーツを広げ、手の甲でシワを丁寧にならした。
私は反対側の角を持って、布の端を合わせる。
枕の入った引き出しを開けると、色の違うカバーが二つ。
私が暖色の方を選ぶと、凛が無言でもう一つを手に取った。
横になり、天井のシミを見つめる。
「ねえ、凛。なんで探偵なんてやってるの?」
凛のスキルがあれば、企業で専門職に就いた方がよっぽど稼げるはずだ。
探偵の枠内で使うにはもったいない気がして、ふと訊いてみた。
凛が隣に寝転がり、飲みかけの缶ビールを手に天井を見上げる。
「昔、姉貴が似たような組織にやられた。助けられなかったんだ。だから、誰かが同じ目に遭わないように、かな。……あんたと違って、私はデータで戦うけどね」
彼女の声は軽かったけれど、どこか消えない重い響きを含んでいた。
「意外と熱いじゃん」
私が笑って肩を軽くぶつけると、薄いTシャツ越しに凛の柔らかな体温が伝わってきた。
割り切った協力関係のはずなのに、不思議と心が温かくなる。
「あんたこそ、十年前のことを引きずりすぎ。……もっと自分に自信持てばいいのに。二十人相手に立ち回ったんでしょ?」
凛が私の銀髪を指先でもてあそび、からかうように顔を覗き込んできた。
モニターの青白い残像のせいか、彼女の瞳がいつもより熱を帯びて見える。
「たぶん二十人はいなかったと思う。結局捕まったし、それに師匠にバレたら地獄の修行が待ってる」
私が苦笑すると、凛の手が髪から頬へと滑り、指先で私の唇をそっとなぞった。
「……じゃあ、地獄に落ちる前に、少しだけ良いことしよっか」
悪戯っぽく囁いた彼女の顔が、吐息が触れるほど近くに迫る。
少しだけビールの匂いが混じった、甘く、けれど拒めない誘惑。
私はその視線に導かれるように、そっと目を閉じた。
舞の行方、組織、そして安田の死。
頭の中を色んなことがざわつかせているけれど、今はただ、隣にいる彼女の温かさに全てを預けよう。
「明日の朝、蜂蜜パン食べる? あんたの事務所の定番でしょ」
ふいに凛が唇を離して笑い、いつもの調子で語りかけた。
私は熱くなった顔を隠すように、彼女の肩に額を押し付ける。
「……いいね。たっぷり、蜂蜜がけで」
換気扇の音がいつの間にか子守唄になり、私たちは深く、深い眠りへと落ちていった。
(白波探偵事務所・翌朝 8:00)
ブラインドの隙間から鋭い朝日が差し込み、消し忘れたモニターの青い光と混じり合っている。
私はソファベッドの上でゆっくりと目を覚ました。隣では、凛がまだ穏やかな寝息を立てている。
床には脱ぎ捨てられた革ジャンが落ちていて、彼女の黒髪が無防備に枕に広がっていた。
いつもは人を食ったような態度の彼女が見せる珍しい寝顔に、思わずクスッと笑みがこぼれる。
私は朝に弱く、いつもは寝顔を見られる側なので、なんだか得をした気分だ。
キッチンへ立ち、食パンをトースターに放り込む。
焼き上がった熱々のパンに、蜂蜜をこれでもかというほどたっぷりとかけた。
初めてここに泊まった時には、影も形もなかった代物だ。
今では当然のように置いてあるこの大きなボトルは、私が朝食に文句を言い続けて定着させた、いわば私の「戦利品」だった。
インスタントコーヒーの香ばしい湯気を吸い込むと、いつもの感じが戻ってくる。
ふとモニターに目をやると、千景からの新しいメッセージが届いていた。
『QR解析、11時頃完了予定。OK-3のルート特定中。舞の足取り、クラブ『シャドウ』に繋がる可能性大。詳細は後ほど』
「……おはよ。朝メシ? 気が利くじゃん」
凛が目をこすりながら、のそりと起き出してきた。昨夜の熱っぽさはどこへやら、いつもの気だるげな彼女だ。
「お客に朝食の準備をさせるな」
「家主の許可なく勝手にやってるんだろ。別に咎めないけどさ」
私は焼き上がったパンを皿に載せて渡し、彼女の分のコーヒーを淹れる。
「今日は千景のデータ待ち。昼までは、頭を整理することにするよ」
思ったよりも解析がスムーズに進んでいる。
昨夜考えていた「足で稼ぐ」計画は一旦保留にして、情報を精査すべきだろう。
「だな。……私、もう一回シャワー浴びてくるわ」
凛が欠伸をしながら立ち上がる。その背中を見送りながら、私は蜂蜜パンを大きくかじり、窓の外に広がる金山の街を眺めた。
雨上がりの空は、驚くほど清々しい。
戦いはまだ続く。けれど、信頼できる仲間たちのバックアップがある。
蜂蜜の甘さが染み渡る体の中から、新しい力がじわりと溢れてくるのを感じていた。
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