救出 前編
意識が戻ると、冷たい鉄の床に倒れたまま、錆びた鎖が足元で軋む音が耳に届いていた。
視界がぼやけ、頭に残る鈍い痛みが全身に響く。薬か?、殴られた衝撃なのか?、体が思うように動かない。
その感覚に飲み込まれないよう、必死に意識を振り絞る。
「……しぶとい女だ。これだけ叩き込んで、まだ目が死んでねえのか」
ボスの冷徹な声が降ってくる。次の瞬間、髪を乱暴に掴まれ、無理やり顔を上向かされる。
腫れたまぶたの隙間から見える、男たちの不快な歪んだ笑み。
「……束縛しないと暴力もできない男たちに……なんで私が屈しないといけないのさ」
私は、掠れた声で、精一杯の毒を込めて吐き捨ててやった。
喉が焼けるように痛む。震える唇を押しつけ、意地を込めて目を細めて睨み返す。
絶対に屈してやるもんか。
ボスが一瞬、眉を歪めた。その表情の中に、少しだけ驚きが見えたが、すぐに笑みが広がっっていた。
「殴っても効かねえみたいだな……。脱がせ。威勢のいい口は、身体を玩具にしてから叩き潰しても遅くねえ。そうなっても、その舐めたセリフが言えるのか、楽しみだぜ」
タトゥーの男が、下卑た笑いを漏らしながら、無理矢理コートを剥ぎ取る。
冷たい空気が露わになった肌を這い、錆びた鎖がさらに食い込む。
ナイフの男が襟元に刃先を這わせ、脂ぎった指が触れる。
ぬるりとした感触が走り、全身が震える。生理的な嫌悪感が一気に押し寄せ、無力感が胸を締めつける。
10年前の悪夢が、脳裏でざわめき始める。
男の重い体が覆いかぶさり、熱い息が首筋にかかる。
絶望が迫る――その瞬間。
ガシャアァァンッ!!
倉庫の暗闇に、ガラスが割れる音が鋭く響き、薄い光が床に飛び散った。
ナイフを構えていた男が、驚愕に目を見開き、動きを止める。
男たちの手が、ゆっくりと綾の体から離れていく。
反射的に、足に力を込め、腕を引き上げると、硬直していた体が動き出す。無駄にしている時間はない。
目の前に広がるは、もはや生死を賭けた戦いだ。
その瞬間を生き延びるため、私はいつでも動けるように呼吸を整え始め、動けるようにした。
「それにしても、凛はわかるけど」
朦朧とする意識の隅っこで、場違いな思考がよぎった。
玲奈は現職の警官だ。いくら緊急事態とはいえ、後でまずいことになるんじゃないのか。
そんな私の不安を切り裂くように、笹原さんが静かに扉を蹴り開けた。その眼光は、いつになく冷徹に見えた。
「お前らの遊びはここまでだ。俺らの知らないところで、随分と好き勝手やってくれたな」
あの笹原さんに、ここまで大きな借りを作っちゃうなんて。……後が怖いけど、今はその頼もしさが心底ありがたかった。
現職の警官と笹原さんのような「あっち側」の人間が一緒に踏み込んできたらまずいでしょ全く。
凛、玲奈、そして笹原さん。 目の前に並ぶ三人の姿に、一瞬、自分の願望が見せた都合のいい白昼夢かと思った。だが、凛が放った一言で、それが現実だと突きつけられる。
「誰の許可取って私のものに触ってんだよ、ゴミ共が。……たっぷり利子付けて回収してやるから覚悟しな!」
凛が低く、震えるような怒りを込めて言い放つ。 「うちの子猫」なんて千景みたいな甘い呼び方はしない。
ただ「私のもんだ」と所有権を主張するような感じだし、ドローンから『子猫大丈夫』って声が聞こえてくるし。
誰が子猫だ、誰が……。全く、こんな時まで。
でも、これでわかった。
現場を仕切る凛と、裏で全ての情報を繋いだ千景が、私の危機を知って即席のレスキュー隊を組織してくれたんだ。
感謝するのは本当にこの割り切りの関係のみんなだね。
私もこのまま守られているだけではいられない。
鎖に絡まった足をどうにか解こうともがく中、笹原さんが素早く近づいてきた。
「動くな。……すぐに外す」
笹原さんが私の鎖の隙間に重厚な棍棒を滑り込ませ、力任せにこじ開ける。
金属が悲鳴を上げ、一本目の鎖が弾け飛んだ。
私は這うようにしてワイヤーを操作し、二本目の拘束からも脱出する。
やっと自由になった両足で、ふらつきながらも立ち上がった。
視界はまだ揺れていて、肩の傷も焼けるように痛い。
それでも、十年前のトラウマを心の奥底へ押し込み、私は櫻華流の構えを取った。
「紫微。……お前、その体でやる気か?」
笹原さんが呆れたように、けれどどこか試すような視線を向けてくる。
「私、お返しは自分できっちりやりたい主義なので」
笹原さんは「やれやれ」といった様子で鼻を鳴らし、一歩後ろに下がった。
深追いはせず、伏兵が来ないか周囲を警戒する遊軍に回ってくれるつもりだろう。
こいつらの敗因は、監視を怠り、戦力を分散させていたことだ。
流石に五十人、百人と囲まれていたら、いくらこのメンバーでも厳しかっただろう。
だが、今は違う。反撃の狼煙は、今上がった。
凛が、獲物を見定めるような妖しい笑みを浮かべて鉄パイプの男に近づいた。
「……おい、ゴミ。私の触ったツケ、利子付きで払ってもらうよ」
男が先に動く。怒りに任せて鉄パイプを大きく振り上げ、頭上から叩きつけた。
重い風切り音が響いてきた。当たれば骨などひとたまりもない一撃だった。
凛は優雅に、無駄のない動きで身を沈め、紙一重でそれを避けた。
革ジャンの裾が鋭く翻り、腰のナイフが鈍い光を放つ。
ナイフで腕を斬るのか?
そう思った瞬間、凛の刃は男ではなく、背後の壁際へと向けられた。
凛は倉庫の隅で束ねられていた太い荷締め用ロープを、根元から鋭く切り裂いた。
バチンッ!!
極限まで張られていたロープが、切断された衝撃で猛烈な反動を伴って跳ね上がる。
それは鋼鉄の鞭のように男の顔面を襲った。
「——っ!? ぐああぁっ!」
予想外の方向からの衝撃に、男が悲鳴を上げて体勢を大きく崩す。
視線が逸れ、脇腹が無防備にさらけ出された。
凛はすでに動いていた。低く、滑り込むような加速で間合いを詰め、渾身の力を乗せた肘を男の腹のど真ん中に突き刺した。
ゴッ!!
肉を断ち、内臓を押し潰すような衝撃音が響いた。
「……息の仕方を忘れたか? 安心しな、すぐ楽にしてやるから」
男の巨体が後ろへ吹っ飛び、背中からコンクリートの壁に激突した。
壁に鈍いひび割れが走り、男は呻き声を漏らす余裕もなく膝から崩れ落ちた。
口元から血の混じった唾液が滴り、鉄の床に赤い染みが広がっていく。
凛はナイフを静かに収め、ゴミを見るような冷淡な目で男を見下ろした。
唇の端に、計算通りの結果を得た満足げな笑みが浮かんでいる。
容赦ない。……いや、残酷だ。
いつも「荒事は苦手。喧嘩は綾に任せる」と言っていたはずなのに。
これが凛の本気なんだ。絶対に怒らせないにしようと心に決めた瞬間だった。
モニター越しにターゲットを冷徹に追い詰める時と同じ、知性による蹂躙を目の当たりにして、私は背筋が凍るような熱さを感じていた。
玲奈はナイフを構えた男に狙いを定め、警棒を手に低く身をかがめた。
その瞳は、いつもの包容力のあるお姉さんのものではない。犯罪者を「処理」する、冷たい現職警官の眼差しだった。
「刃物を置いて。警察よ。いまなら、まだ軽く済むわ」
仕事の癖だろうか、彼女は素早く左手で警察手帳を掲げた。
だが、理性を失った相手には逆効果だった。返ってきたのは不快げな舌打ちと、殺意の乗った踏み込みだった。
横薙ぎの鋭い刃が空気を裂く。玲奈は最小限の動きで腰を落とし、その内側へ滑り込んだ。
相手の懐で、彼女の足が鎌のように男の足首を外から刈り取る。
支点を失った男の巨体が背中から床に落ち、短い息が虚空に散った。
だが、男も必死だった。起き上がりざまに、狂ったような突きを繰り出す。
ナイフの先端が玲奈の胸元を狙うが、彼女はそれを警棒で金属音とともに外へ弾き飛ばした。
弾いた勢いのまま、返しの一撃が男の脇腹へとスイングされる。
「あ……がっ……!」
警棒の硬質な衝撃が男の脇を砕き、彼は苦悶の表情で片膝を床に突いた。
そこへ、玲奈の静かな、けれど逃げ場のない声が降る。
「動いたらだめよ。……綾を辱めた代償は、あなたが考えているよりずっと深いの。……抵抗しなければ、怪我だけで済ませてあげる」
男の握りが緩み、ナイフが床に転がった。玲奈は迷いなく靴の先で刃先を遠ざけると、男の左手首を掴み、そのまま自分の肩へ肘を乗せて体重を預けた。
男をうつ伏せに回し、膝で背中を固定する。完璧な拘束だった。
それでもなお、男が身体を捩って逃れようとした瞬間。
玲奈は容赦なく、警棒の先端を男の鳩尾へと垂直に突き上げた。
「……っぐえ……っ」
肺からすべての空気が強制的に押し出され、男から力が抜ける。
抵抗の意志さえも砕く、プロの「痛み」の与え方だ。
「暴行・監禁の現行犯で逮捕する」
玲奈は冷淡に告げると、男の両手首を背面でまとめ、手錠で結束した。
カチリ、という硬質な金属音が倉庫に響く。
彼女は胸ポケットから証拠保存用のビニール袋を取り出し、床のナイフを淡々と回収した。
その動作の一つひとつに、一切の無駄がない。
最後に、倒れた男の脈と呼吸を冷静に確認する。男はただ呻きを漏らして沈んでいるだけだ。
玲奈は警棒を腰のホルダーに収めると、ようやく周囲を見渡し、私の方へ視線を向けた。
その瞬間だけ、彼女の瞳に「刑事」ではない、ひどく痛ましそうな、深い慈愛の色が戻ったのを私は見逃さなかった。
玲奈が男を制圧しているその隙に、タトゥーを刻んだ大男がボスを援護しようと、私めがけて一直線に走り出した。
鉄の床を蹴る足音が、倉庫内に不吉な振動を伝える。だが、その突進を遮る影があった。
笹原さんが、鋭い踏み込みと共に男の顔面へまっすぐ拳を飛ばす。空気を切り裂く最短距離の一撃。
男は反射的に首を引いて紙一重でかわしたが、その風圧に顔をしかめた。
「そういえば、もう一人いたな」
男は口の端を歪に釣り上げ、厚い胸板を誇示するように肩をぐるりと回した。
皮膚の下で、刺青の施された筋肉が生き物のようにうねる。
対する笹原さんは、静かにあごを引き、拳を頬の横に掲げた。
つま先で小さく弾み、正面から一歩も引かない。
いつもは冷静な笹原さんの、本気の「荒事」。
その剥き出しの闘気に、私は圧倒された。
私自身、いろいろな戦いの場へ師匠に言われて行ったことがあるけれど、こんな威圧感は味わったことがなかった。
師匠との立ち合いは、どこか澄み渡った鋭さがある。
けれど笹原さんのそれは、泥を啜り、血を流し、地獄を這い上がってきた者だけが放つ、逃げ場のない黒い重圧だと思った。
師匠の本気はまだ見たことないんだけどね
そう思った矢先だった。
先に動いたのはタトゥーの男だ。
怒号とともに放たれた右の振り回しが、凶器のような唸りを上げる。
笹原さんは避けるそぶりがなかった。
半歩だけあえて内側へ滑り込み、肩を相手の胸にぶつけてその勢いを殺す。
互いの吐息がかかるほどの至近距離。
笹原さんは畳んだ肘を、男の脇腹の最も柔らかい場所へ深く突き刺した。
「ぐっ……!」
男が息を詰まらせた瞬間、笹原さんの左の拳が、腕を振らずに最短距離で男の頬骨を打つ。
ゴツッ、という、硬い石がぶつかったような乾いた鈍い音が響いた。
男の視線が、衝撃でわずかに滲んだ。
「……効かねえよ、こんなもん!」
男は吐き捨てると、狂ったように左右の連打を繰り出す。
重たい拳が乱暴に空を切り、笹原さんは首をすくめて前後に体をずらし、紙一重ですべてを無効化した。
拳が頬をかすめ、油と鉄、そして血の混じった匂いが流れた刹那。
同じ立ち位置から、笹原さんの右ストレートが男の顔面の中心を貫いた。
ベチャッ!!
鈍い音と共に、鼻血が赤い霧となって空中に散る。
逆上した男が、体ごと押し潰そうと乗りかかってきた。
「男に抱き着かれる趣味はないんだがな」
笹原さんは短く息を吐き、男の巨体を両腕で受け止めて胸の前で組み付く。
自分の頭を、男のあごの下にねじ込み、足を外側へ回して体の軸を強引にずらした。
巨大な質量が外へと流れ、男の腰が大きくぐらつく。
組付きを解く刹那、笹原さんの右拳が、男の腹の深層まで沈み込んだ。
脇腹の奥で何かが壊れる鈍い音が鳴り、男の膝がガクンと折れる。
その瞬間に、左アッパーで男の顔を撥ね上げ、返しの右フックで再び脳を揺らす。
ガードが浮き、無防備な胴体がさらけ出された。
「まだだぁぁっ!」
うそでしょ。ふつうあれ食らったらK・Oなのに、相手のあの男はゾンビか何かなの?
私はボスをにらみながら少しだけ背中の汗が冷えた感じがした。
タトゥーの男は半狂乱になり、肩ごと振り切るような大振りの拳で笹原さんを殴り飛ばしにいった。
だが、その振り始めを笹原さんは見逃さない。
踵を踏み替え、体ごとその懐へねじ込む。
まず肉体同士の重厚な衝突が起こり、一瞬遅れて、笹原さんの正拳が男の顔面の真ん中を、今度こそ完璧に打ち抜いた。
ドゴォォン!!
倉庫に乾いた破裂音が響き渡る。
男の後頭部が背後の鉄壁に激突し、凄まじい衝撃音が跳ね返った。
男の背中がずるりと滑り、膝から床へ崩れ落ちる。
両手が空を掴もうとして、そのまま力なく垂れ下がった。
笹原さんは、構えを解かずに半歩下がって、静かに呼吸を整える。
「悪いな。……お前では、俺の相手にならない」
男の瞳から光が消え、肩がだらりと落ちる。
その姿を確認すると、笹原さんはようやく私とボスの方へと鋭い視線を向けた。
ガチで笹原さんとは喧嘩をしないようにしようと心の奥で私は誓った。
「——お待たせしたな、綾。……あとは、あいつだけだ」
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