潜入 後編
(クラブへの移動)
バンの後部座席に、乱暴に押し込まれる。
扉が閉まった瞬間、空気が一段重くなった。
汗と安物の香水が混じって、鼻の奥が痛い。シートは擦り切れてて、布の毛羽立ちが肌に引っかかる。
座っただけで、ここがまともな場所じゃないって分かる。
走り出すと、車体が小刻みに揺れた。
ガタガタした振動が腰から背中に伝わって、嫌な記憶を引っ張り出しそうになる。
私は意識して息を吸って、吐く。深呼吸。深呼吸。10年前じゃない。
隣の少女が、ずっと小さく震えてた。
まだ十代半ばだろうか、化粧が濃いが、幼さが隠しきれていない。
彼女が、掠れた声で呟く。
「怖いよ……男に、殴られた……」
涙で濡れた瞳が、私を捉える。
頰に残る青紫の痣が、薄暗い車内のライトに浮かび上がる。
その顔が、10年前の自分と、ぴたりと重なる。
怯え、痛みに耐え、ただ運ばれていくしかない無力な少女の顔。
胸の奥が、熱く締め付けられる。
「大丈夫」私はおもわず彼女の肩を抱き寄せて安心させる。
細い体がびくりと震え、すぐに私の腕にすがりついてきた。
「大丈夫だよ。なんとかなるから」
私はそう言ったが、本当は、なんともならないかもしれない。
偽善かもしれないけど、今だけは安心させてあげたかった。
相変わらず、こいつらは、人を道具か何かにしか見てない。
運転席の男たちが、下品な笑い声を上げながらタバコを吸っている。
煙が後部に流れ込み、喉を刺激する。
バンの振動が、コンテナの記憶を呼び起こす。
あのときの恐怖が、背筋を冷たく這い上がる。
深呼吸を繰り返し、なんとか抑え込む。
少女の手が、私の腕をぎゅっと握る。
冷たかった指が、少しずつ温かくなっていく。
握り返すと、彼女の体温が伝わり、私もわずかに心が落ち着く。
全く慰めてるはずが、反対に慰められてる感じを受けた。
一人じゃない。今は、少なくとも。二人とも私に気づいてるはず。
クラブ「ネオン」に到着する。
扉が開いた瞬間、重低音が胸を殴ってきた。
音が耳に刺さるというより、体の内側に直接入ってくる感じ。
汗とアルコールの匂いが鼻を満たして、喉が乾く。
VIPルームへ通される。客は四十代半ば、サラリーマン風の男。
高そうなスーツに、金のロレックスがチラリと光る。
ソファにふんぞり返り、グラスを片手にニヤニヤと笑っている。
笑顔を装い、腰を低くして近づく。
グラスを手に取り、ウィスキーを注ぐ。
氷がカチンと音を立て、琥珀色の液体が揺れる。
「可愛いね。お姉さん、名前は?」男の声が、音楽に混じって耳に届く。
笑みを浮かべたまま、適当に答える。
心の中では、すでに情報を引き出す算段を立て始めていた。
軽い声。軽い目。軽い手つき。
私は笑ってるふりをして、適当に相槌を返した。
目は逸らさない。逸らしたら負けだって、ここではそういう種類の空気がある。
グラスを傾け、ウィスキーを少しだけ口に含む。
喉を焼くアルコールの熱が、緊張をわずかに和らげる。
雑談を装いながら、言葉を慎重に織り交ぜて情報を引き出す。
仕事の話、クラブの常連、最近の「いい子」の話題
男は酒が入って上機嫌で、ポロポロと口を滑らせる。そうやってわかった。
舞は奥の部屋にいる。
ボスが気に入って、特別に囲っているらしい。心臓が一瞬強く跳ねる。
隠しカメラのスイッチを、スカートの裾でそっと入れる。
レンズが回り始め、映像が千景に送信されるはずだ。
その瞬間客のスマホが、テーブルの上で振動しながら鳴った。
男が画面を見て、眉をわずかに動かす。
スピーカーにしたまま通話に出たせいで、私にも声がはっきり聞こえた。
「紫微が潜り込んだ」
背中が冷たくなる。血の気が引くのが分かる。
客が何も言わずにボタンを押すと、すぐにチンピラが二人入ってきた。
手際が良すぎる。待ってたみたいに。
多分、怪しいと思われたのはあの瞬間。
舞の名前が出た時、反応しすぎた。明らかに失態。胃の奥がきゅっと縮む。
でも、今さら悔やんでも遅い。次の一手だけ考える。
客が無言でスマホのボタンを押す。
次の瞬間、扉が勢いよく開き、チンピラが二人、部屋に飛び込んできた。
黒いスーツに身を包んだ、筋肉質の男たち。
片方は手にナイフ、もう片方は棍棒のようなものを握っている。
状況が、一瞬で緊迫する。迷っている暇はない。グラスを握ったまま、右側にいたチンピラへ飛びかかる。
膝を高く引き上げ、腹の中心に全力の膝蹴りを叩き込む。
ゴッ、という鈍い音とともに、男の息が一気に抜ける。
「ぐはっ……!」という呻き声が漏れ、膝をついて崩れ落ちた。
汗と吐息が顔に飛び散り、アルコールの強い匂いが鼻を突く。
2人目が、怒りに満ちた目でナイフを振りかざす。
刃が肩をかすめ、赤いワンピースの生地が裂ける音と同時に、熱い痛みが走る。
血が滲む感触が、皮膚に広がる。
私は動きを止めず、櫻華流古武術の幻歩を使用した。
足を不規則に動かし、予測不能な横ステップで体を翻した。
相手のナイフが空を切り、勢い余って体勢が崩れる。
その隙に、ヒールの鋭い踵を手首に強打させた。
カキン、という乾いた音とともに骨が軋み、男が「ぎゃっ!」と叫んだ。
ナイフが床に転がり、金属音を立てて跳ねる。
すごく痛そうだった。男が手首を押さえて後ずさる。
ご愁傷様と心の中で言った、
私は息を整え、次の動きに備える。
部屋の空気が、血と汗とアルコールの匂いで重く淀む。
音楽の重低音が、鼓動のように体を震わせ続ける。まだ、終わっていない。
チンピラの一人が手首を押さえて後退する隙を、逃がさなかった。
客の腕を素早く掴み、櫻華流の関節鎖をかける。
指を絡め、てこの原理で肘を逆方向に極める。
男の関節が軋む音が響き、持っていたグラスが手から滑り落ちる。
ガシャン! という鋭い音とともにガラスが粉々になり、床に琥珀色の液体が飛び散る。
「ぎゃあああっ!」という甲高い叫び声が部屋に響き、男がもんどり打って床に倒れ込む。
全く近所迷惑だって…VIPルームだから防音だっけ?
叫びもガラスの割れる音も、外には一ミリも漏れなかった。
息つく間もなく、次の動作へ動く。
テーブルを踏破で蹴倒す。
脚の裏で床を捉え直して、倒れたテーブルの向こうで酒瓶が転がる。割れた匂いとアルコールが一気に立ち上って、視界が少し霞む。
重低音のビートが掩護となり、足音を掻き消してくれる。
裏口へ向かって駆け出す。
足の踏み込みは無駄なく、背後と側面の気配を警戒陣で敏感に捉えながら、廊下を疾走する。
裏口の扉を蹴り開けると、冷たい雨が顔に叩きつけられる。
また雨が強く降り始めたのか、都合がいいと思う。
外にはすでに三人の男が待ち構えていた。
黒いレインコートに身を包み、棍棒を握りしめている。
アスファルトは雨でぬめり、街灯の光が水溜まりに揺らめく。
即座に陣形崩しを展開して、三人の包囲網を乱す動きで間合いを詰める。
一人が棍棒を振り上げ、頭を狙って振り下ろす。
棍棒が空を切り、雨を裂く音が耳をかすめた。
櫻華流の流転で体を回転させ、壁を蹴って跳び上がる。
空中で男の背後に回り込み、首に腕を巻きつける。
そのまま絞鎖に移動する。
肘を曲げ、気道を完全に締め上げる。
男の脈が指先に伝わり、徐々に弱まっていく感触を確かめながら、力を緩めない。
やがて抵抗が止み、重い体が雨の中に崩れ落ちる。
雨水が顔を伝い、男の体温が急速に冷えていく。
二人目に接近して、連鎖打を繰り出す。
肘を鋭く振り上げ、鼻の骨を正確に捉える。
メリッ、という嫌な音とともに骨が砕け、血飛沫が雨に飛び散る。
赤い霧が一瞬視界を染め、男がよろめきながら後退する。
鼻を押さえ、苦痛に顔を歪める姿が、雨にぼやけた。
三人目が棍棒を振り下ろしてくる。幻歩で身を翻し、攻撃をかわす。
太ももからナイフを抜き、脇腹を浅く斬りつける。
刃が肉を切り裂く、ぬるりとした感触。
男の呻き声が雨音に混じり、耳障りに響く。
傷口から血があふれ、雨で足元が滑る中、踏破でしっかりとアスファルトを捉え、バランスを保った。
三人とも戦闘不能にしたが、まだ追手が来る気配がある。
とりあえず距離を取ることを優先した。
雨を切り裂きながら、闇の中へ身を躍らせる。息が白く、肩の傷が熱く疼く。
インカムが鳴って、凛の声が割り込んできた。
「綾の車、あそこに置いといた。今すぐ逃げて」
「了解」
指定された場所に向かうと、私の愛車を見つけた。
雨に濡れたアスファルトを滑るように走り、アクアブルーの車に飛び乗った。
ドアを閉める間もなくキーを回し、エンジンが低い唸りを上げて目覚める。
アクセルを踏み込むと、タイヤが水たまりを蹴り上げ、車体が前へ飛び出す。
雨を切り裂き、金山の橋へ向かう。
ワイパーが激しく動き、フロントガラスを叩く雨音が車内に響く。サイドミラーに、黒いセダンが映る。
並走し、窓がゆっくりと下がる。
銃口が現れた。
ここ日本で、まだ深夜でもないのに銃を使ってくるの?
驚きより先に、体が動く。
櫻華流の動視を駆使し、銃口の微かな動きと雨粒の乱れから弾道を予測した。
ハンドルを急に切る。
次の瞬間、弾が車のボディに命中し、金属が甲高い悲鳴を上げた。
「修理代が…誰に請求すればいいと思ってるの。まったく!」
衝撃がシートに伝わり、肩の傷が熱く疼く。
サイドウィンドウが蜘蛛の巣状にひび割れ、ガラスの破片が内側に飛び散った。
頰をかすめた欠片が、薄く血を滲ませる。
追い越しを試み、サイドミラーで敵の位置を正確に捉える。
アクセルを踏み込み、並びかけた瞬間に急ブレーキ。
制動の要領で、ブレーキとアクセルのタイミングを完璧に合わせる。
相手の車が慌てて回避し、ガードレールに激突していった。
衝撃で燃料が漏れ、火花が散る。
次の瞬間ドンという爆発が後方で聞こえてきた、
重い音とともにオレンジの炎が雨の中に広がるのをルームミラーから見えた。
熱風が車体を揺らし、炎が雨に触れて白い蒸気を上げながら消えていった。
血とガソリン、焦げたゴムの匂いが、窓の隙間から鼻を突く。
ハンドルを握る手が、小刻みに震えた。
タイヤの摩擦音が耳に残り、心臓が激しく鳴る。
今日の深夜、絶対にこのニュースばかりになるんじゃないかな。
それと絶対に怜奈に怒られる。
そんな、場違いな考えがよぎってしまった。
爆発の余波で橋がわずかに揺れ、後方から黒いバンが猛スピードで迫る。
サイドミラーにヘッドライトが拡大し、警戒陣で背後の殺気を敏感に察知。
急ハンドルで路地へ曲がり、ドリフトで車体を滑らせる。
濡れたアスファルトをタイヤが鳴らし、敵の視界を一瞬乱す。
運転は凛が得意なんだけどなぁ。
確か、プロのライセンスまで持ってたはずだ。
そんなことを思いながらも、集中を切らさない。
切らしたら絶対に事故る自信があった。
バンが路地の壁に擦れ、火花を散らしながら金属音を響かせる。
バックギアに切り替え、車体を滑らせてバンの横をすり抜ける。
制動を応用し、ブレーキとアクセルの細かな切り替えで距離を一気に取る。
敵の窓から再び銃が構えられる。
弾が車体を掠め、金属が軋む嫌な音。
体を縮こまらせながら、動視で弾道を読み切る。
車が悲鳴上げてるのがわかる。ごめんよ私の愛車。
そう思いながら急発進させる。
タイヤが水たまりを蹴り上げ、派手な水しぶきを上げながら射撃を空振りさせる。
狭い路地でUターンして、死角に回り込む。
窓からナイフを投げる。
櫻華流の飛刃を使用した。
ナイフが回転しながら飛び、敵の肩に深く刺さる。
男のうめき声が雨に混じり、銃が手から滑り落ちてアスファルトに転がる。
バンがコントロールを失い、壁にぶつかりながら減速。
追手を、完全に振り切った。
雨がさらに強まり、フロントガラスを叩く音が激しくなる。
震える手をハンドルに握り直し、新栄へ向かう。車内で、荒い息を整える。
10年前の無力感が、胸の奥から這い上がってくる。
あのときの自分は、ただ運ばれ、耐えるしかなかった。
今は違う。そんなことより、舞の救出が先だ。
インカムで、凛に短く連絡。
「新栄へ。バックアップを継続よろしく」
雨がフロントガラスを叩き、ワイパーの動きに合わせて銀髪が濡れて額に張り付く。
助手席に置いたナイフを握りしめ、アクセルを踏む。
車を走らせながら、安田の死が自分の調査のせいかと、胸が締め付けられる。
昨夜の電話、あの警告めいた声が、頭の中で反響する。
多分私を不安にさせるためにやったことだと思う。
10年前のコンテナの血と汗の記憶が、鮮明に蘇る。
探偵業を続けて、心の傷は埋まったと思っていた。
思った以上に深く残っているのを理解した。
凜から千景の解析で、組織の拠点が新栄の倉庫だと教えてもらった。
そこに、舞がいる。アクアブルーの車は、雨の中を疾走する。
ヘッドライトが闇を切り裂き、私は過去と向き合う覚悟を決めて、アクセルをさらに踏み込んだ。
「紫微綾の事件簿1 鎖の記憶」をお楽しみいただけましたか?
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