3章 深淵からの脱出 2
倉庫のドアが背中でぎしっと鳴いた。
冷えた夜気が一気に肺に入って、さっきまでの火薬と油の匂いがやっと薄まる。
肩がすごく痛い。濡れたコートが重くて、シートに体を落とすだけで息が漏れた。
ボスの薄笑いと、舞がいない事実だけが頭に残っている。
まさか逆手に取られて罠に引っかかるなんて思わなかった。
笹原さんにも後日きちんと礼を言わないといけないなぁ。
口の中に広がる血の味と好きになれない血の匂いがしていた。
凛が、運転席の鍵を回す。エンジンの低い振動が床から伝わり、ワイパーが一度だけフロントガラスを拭った。
雨粒が伸びて、街灯の光がゆがんだ線になる。
「綾、血が止まってないよ。事務所で手当てしよ。千景のドローンが、画像を取ってるからわかり次第連絡来るよ。あいつもすごく心配してた」
今回なぜか、私の動きが読まれていた。
もしかしたら千景はネットや通信をハッキングされたと思ってるのかもしれない。
私自身軽率な動きが目立ってしまった。
もう少し冷静に動けばここまで酷くならなかった。
声はいつも通りのだけど、横顔の目尻だけが私を気にしている。革ジャンの肩が濡れて鈍く光る。
普段さっぱりしているのに本当に私の周囲の人たちは私に甘いなぁ
助手席のタブレットが起動して、青白い待機画面が薄く車内を照らした。
「今日は、私の事務所に行くよ。あんたの事務所に何か仕掛けられてるかもしれないし、そっちは千景が調査してくれるみたい。」
傷口が少し開いたので私は左手で肩を押さえた。
手袋越しに、包帯の湿った感触。
十年前のコンテナが一瞬よみがえる。
鎖の冷たさ。胸が締め付けられて、舌の奥が苦くなる。
このままだと過呼吸になる恐れがあるので、ゆっくり深呼吸をする。
少し落ち着きながら話を聞いていた。
運転席の凛が短く言う。エンジンはまだかけない。コンソールの下から小さな救急袋を引っ張り出し、消毒の袋を破る。アルコールの匂いが立つ。
「しみるよ」
子供扱いはやめてほしい
「わかってる」
私は少し不満そうにそういい返した
綿が触れた瞬間、視界の端が白くはねた。息が勝手に鋭くなるのを押さえ、歯を噛む。
ガーゼを当て、布で肩から脇に回して固定していく。結び目を作る手つきは乱暴に見えて、無駄がない。
「よし。無理に上げないで、動きは最小にできるな」
「ありがとう。多分楽になると思う。運がいい事に傷だけで、骨とかの異常はないみたいだしね」
「骨とか折ったら、向こうさんも手間がかかるから痛めつけるにしてもそういう事はしないんじゃないの」
確かにそうだ、向こうは私を商品と性のはけ口として扱いたかったのだから、骨を折ることはしなかったのだろう
これは運がよかったのか?少し疑問に残った。
凛がエンジンを回し、ライトを低く点ける。雨の粒がフロントガラスで線になり、ワイパーがそれをかき取っていく。バックミラーの奥、倉庫口の影に凛の横顔がちらりと見えて、すぐ人垣に紛れた。
「街中は奴らの目も多いだろう。うろつけば嗅がれるし、警戒の仕様がない。ずっと警戒していたら怪しい人だしな」
凛がアクセルを踏む。タイヤが水膜を切って、小さくはねる。
狭い路地から大通りへ。右手の看板が雨で流れて、色だけが帯になって過ぎていく。
そういえば私の事情聴取がなかったけど、よかったのか?多分よくないと思うが、戻るわけにもいかないので玲奈に一任しておこう。
信号が赤へ変わる。停車の反動で肩がずれる。凛がちらとこちらを見る。
「はい、水」
急に渡してきたので、とっさに水の入ったボトルを受け取った。
ボトルのキャップを開け、ひと口含む。冷たさで喉が目を覚ます。
ふと、サイドミラーの奥に黒い軽が映った。ライトの上げ下げが雑で、車間が近い。
「後ろ、追手?」
車内に緊張が走り、凜が警戒しながらそう言ってきた。
「まず様子を見てみよう。怪しい動きをせずに、距離を置いてみて」
次の青でわざとゆっくり発進し、交差点の手前で一台、二台と間に挟み込む。
信号が赤に変わる。
停止線の手前で止まると、ルームミラーの中で軽が少しあわててブレーキを踏んだ。
私の指先は無意識にジャケットの内ポケットを探り、いつもの小さな蜂蜜の袋をつまむ。
透明な金色が端でぷくりと動く。切り口を歯で開けて、少しだけ舌に落とした。
ゆっくり喉を滑り落ちる甘さで、さっきまで尖っていた世界の輪郭が、ほんの少しだけ緩む。
「ここ左。高架の下を抜けて一本」
私は頭の中でここの地図を出して見せた。
「了解」
高架下は雨音が一段深く、路面は暗い。
コンクリの柱が規則正しく流れていく。
ミラーで軽を拾うと、柱の影でヘッドライトがにじんで、距離感がぼやける。
「撒かなくていい、今のところはね」
私はそう言った。どうせ撒いてもうじゃうじゃ出てくるしね
「了解」
凜はそう言って車をスムーズに運転していた。
実際怪しい動きかもしれないが、名古屋走りかもしれない
気を張りすぎるのも良くないしねと思いながら口の中にある蜂蜜の味を確かめながらのんびり雨が降っている名古屋の風景を眺めていた。
少し回り道をして走っているが、まだ追跡していた。
気づいてないとでも思っているのか、何とも間抜けな尾行者なので、そろそろ退散してもらおうと思った。
「この先、ひとつだけ明るい道を使う」
私は凜に一言伝えた。
「角でミラーを使うの?」
凜は的確にわかってギアを変えながらそう返事してきた。
「うん。反射で抜く。凜ならできるでしょ」
「全く人使いが荒い」
角のガラス張りの店を鏡にして、後ろの光を拾う。
黒い軽はまだいる。けれど、左右の出入りに弱いタイプ。直線でしか詰めてこない。
「直線で勝負しないの、助かる」
茶化すように凜は言ってきた
「勝負じゃない。帰るだけ」
そろそろ私はゆっくりしたいので招いてない人たちには帰っていただきましょう。
凛がほんのわずかに笑い、ハンドルに視線を戻す。
凛は、ヘッドライトの光をビームに変えて、私たちは直進した。
相手の軽はあまりのまぶしさに右へハンドルを切ったみたいだった。
事故らなくてよかったね。
ここで事故ったらまた玲奈たちの仕事が増えてしまう。
ミラーから完全に外れたのを確かめて、私はやっと息を深く吐いた。
赤信号。横断歩道の白が濡れて光る。
待ちの間に、凛が手元のスマホを一度だけ見て私に渡してきた。
「綾に送ったけど、気づいてないからあなたに渡すわね。
倉庫の押収品、サイバー班が洗ってる。でもボスは動きが速くて行方不明。それと……あなたの名刺が安田さんの財布にあった件、やはり上司が突いてきてうるさいわ。今回もあなたが絡んでるとみてね
私が来た時には、争っていた人たちは退散したと言っておいたわ。
ばれたら減俸になっちゃうわ♡」
「玲奈は、全然懲りてないなぁ」
「どうした?すぐに渡したからきちんと読んでない」
車のわき見運転は危険だから関心関心。
私は玲奈から来たメールを伝えてあげた。
ビルの手前で一旦停まる。凛がライトを落とし、駐車場の入口を確認する。金属の柵が半分開いていて、その先にスロープがある。
「到着したな」
「うん」
ここが玲奈の暮らしているマンションでこちらもいいマンションであった。
金山の駅からすぐ近くで交通の便もすごくいい所で食べる所は何不自由はしないいい街だ。
傾斜に乗ると、タイヤが濡れたコンクリを踏んで、低い音を出した。
壁の白い番号が一定間隔で過ぎる。
ここに来て、やっと心身の緊張が解けたと思う。
屋内駐車場の止める場所に着いた。
エンジンを切ると、雨の音が地下なのに、遠くで聞こえて来る感じがした。
外の世界が突然遠くなる感じ。
凛がシートに軽くもたれて、こちらを一度見る。
「まずは休もう。そして情報とかは明日にしよう」
「うん、そうだね」
私は素直に返事した。
私は、車を降りて、ゆっくり腕を上げのびをした。
少し痛みが走ったけど生きた感覚がして、そのイタ気持ちいいを少し堪能していた。
「綾」
行き成り私の名前を呼ばれた。
何の用かと思い振り向いた。
「なに?」
「生きて帰ってきた。それで十分だ」
凄く心配そうな顔で私に問いかけてきた
「……そうだね」
皆のおかげで無事生還出来ました
こころの中で感謝する
ドアに手をかける。外の空気は冷たいはずなのに、頬に触れると柔らかかった。ネオンの色はここまで届かない。
私たちは並んで、エレベーターの前へ歩いた。
上に灯る階数表示が、ゆっくり数字を変えた。
凛の家の前に来てほっと一息をついた。




