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秘密の楽師は素顔を隠す   作者: mononom
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第一章



 セレスティアの王都の中心にそびえる大神殿は、夕刻の祈りの時を迎えていた。

 白亜の大理石の壁は沈みゆく陽の光を受け、金の装飾を淡く照らしている。

 高い天井に吊るされた大燭台には無数の灯がともり、静謐な空気の中に柔らかな光を広げていた。


 私は裾を揺らしながら、荘厳な石段を一歩ずつ上がっていく。


 丁寧に結い上げた髪が光を受けてほのかに煌めき、瞳に映る神殿の輝きはどこまでも清らかで――それなのに、胸の奥はどうにも落ち着かなかった。


 大理石の床には信徒たちの足音がこだまし、香の煙が天へと揺らめいていた。

 その隣には、いつも付き従う侍女ミサの姿。


 「お嬢様、本当にお祈りだけが目的なのですか?」

 「もちろんよ!」

 即座に言い切る。けれどミサの目は、どこかじっと探るようだった。


 「ただ……放浪の楽師殿が今日ここで歌うと伺いましたので」

 「偶然よ!」

 思わず声を張り上げてしまい、慌てて咳払いでごまかす。


 ――わたしは祈りに来ているのよ。

 けれど胸の奥では、あの夜の歌声がまだ消えなかった。

 光と風を従える声。心を奪う旋律。

 どうしようもなく、もう一度聴きたくなってしまったのだ。




 ホールの扉を開けた瞬間、むわっとした熱気が押し寄せてきた。

 聖堂の高い天井に響き渡るのは、祈りの静謐ではなく、人々のざわめきだった。

 壁一面のモザイク画は燭台の光を受けて金色に瞬き、荘厳であるはずの光景が、群衆の熱気にかき消されている。


 長椅子はすでにぎっしりと埋まり、通路にまで立ち見の人々があふれていた。香油の甘い匂いと人の吐息が混ざり合い、空気が重く胸にのしかかる。

 ざわめき、押し合う気配、笑い声――誰もがただ一人を待ち望んでいた。


 「……っ、こんなに……」

 思わず小さく息をのむ。神殿でこれほど人が集まる光景など、これまで見たことがなかった。


 「皆さん……ミナトさんを待っておられるのですね」

 ミサが感心したように目を輝かせる。


 「わ、私は違うわ! 祈りにきたのよ!」

 強引に言い切ったけれど、胸の奥がざわめいていた。

 ミサの視線を振り切って、ホールの奥へ進もうとしたその時。


 「――まぁ! ユリアナ様ではございませんか!」


 振り返ると、見慣れた茶色の巻き髪が揺れ、きらびやかなリボンを飾った少女が立っていた。

 ライラ・ヴァレンティ伯爵令嬢。舞踏会やお茶会で顔を合わせることのある、数少ない友人のひとりだ。


 「ふぇ? ラ、ライラ様……?」

 思わず声が上ずる。


 「こんな場所でお会いできるなんて……! まさかユリアナ様までミナト様の歌を?」

 大きな瞳を輝かせながら、彼女は私に駆け寄ってきた。


 「ち、違うの! 祈りに――」

 慌てて言いかけると、ライラは両手を胸の前で組み、うっとりとため息を漏らす。


 「わたくし、ずっとミナト様ファンなんですの!あの歌声……一度聴けば、誰もが恋に落ちてしまいますわ」

 彼女の頬は赤らみ、瞳はきらきらと輝いていた。


 「こ、恋ですって……! わ、私はそのようなつもりではございませんわ」

 思わず強く言い返してしまう。

 「ただ……祈りに参っただけですもの」

 必死に取り繕う私に、

 「まあ……」

 ライラは口元に扇を添え、ころころと笑う。


 「それでは、ユリアナ様はミナト様を見ずに礼拝室へ行かれてしまうのですか?」


 ライラは扇子で口元を隠し、くすりと笑った。

 まるで「そんなこと、あり得ませんわよね?」とでも言いたげに。

 茶目っ気のある声音に、胸の奥が不意にざわめく。


 「そ、それは……!」

 反論の言葉が喉までせり上がり、唇がわずかに震える。

 空気が張り詰め、次の一言を待つように時が止まった――。


 その時――。


 

 ――リーン、リーン……。


 透き通るような鐘の音が、天蓋の高みに反響して降り注いだ。

 神殿の広いホールに漂っていたざわめきが、音に吸い込まれるようにしんと鎮まる。

 色ガラスの窓から射し込む夕映えの光が揺らぎ、黄金の柱や壁面の聖像を淡く照らした。

 燭台の炎さえも呼吸を止めたように、静けさが広がっていく。


 やがて、奥の緞帳が静かに開かれる。

 そこから現れたのは――紫紺の外套を纏い、銀の弦を張った不思議な楽器を抱える青年。


 あの広場でみたミナトだった。


 姿を見せた瞬間、堰を切ったように歓声があがる。

 「きゃあ!」「ミナト様!」

 人々の声が波のように押し寄せ、荘厳な神殿が一転して祝祭の舞台へと変わる。


 青年はゆるやかに歩み出ると、楽器を片腕に抱いたまま深々と一礼した。

 その仕草はまるで、観衆ひとりひとりに敬意を示すかのようで――けれど、どこか挑むような自信もにじんでいた。


 ……胸が、熱くなる。

 わたしはただ祈りに来ただけなのに。

 けれど、どうしても視線を逸らせなかった。


 「……なんて素敵なのでしょう」

 隣のライラが、胸に手を当ててうっとりと目を潤ませている。頬はほんのりと紅潮し、まるで恋する少女そのものだった。


 「……っ」


 息が詰まる。ほんの一瞬――。

 舞台の上の彼の眼差しが、まるで私を捉えたように思えたのだ。


 リーン……リーン……。

 澄んだ鐘の音が、やがてかすれるように小さくなり、広間を静寂が包んだ。

 蝋燭の炎が揺らめき、白亜の柱に長い影を落とす。祭壇の上方に描かれた聖女の壁画さえ、息を潜めて見守っているかのようだった。


 舞台中央に立つ青年が、そっと手を掲げる。

 淡い光が彼の腕に集まり、白銀の竪琴が形を結んだ。


  ――幻奏琴


 舞台の中央で、青年の指が白銀の弦に触れた。

 ポロン――。


 澄んだ一音が、ガラスの滴のように空へ落ち、静まり返った広間に波紋を描く。

 その震えに呼応するように、蝋燭の火がゆるやかに揺れ、人々のざわめきはたちまち掻き消された。


 ライラは宝石のような瞳を輝かせ、うっとりと舞台を見つめている。

 ミサもまた、胸の前で小さな手を組み合わせ、祈りの姿勢で息を詰めていた。

 ―けれど、私だけが違った。


 胸に広がるのは信仰の熱ではない。

 頬を染め、喉を震わせるこの鼓動は、神への敬虔さではなく……ただ、あの青年への想いだった。


 ポロン、と再び弦が震え、光の糸が宙に解ける。

 そこに彼の声が静かに重なった瞬間、空気が震え、世界からあらゆる音が消え去った。


 それはただの歌ではなかった。

 澄み渡る旋律は星空のように深く、紡がれる言葉は祈りそのもののように胸へと降りそそぐ。


 「……っ」

 息が詰まる。

 鼓動が追い立てられるように速くなり、視線を逸らそうとしても舞台から離れられない。


 ――光よ、ただひとつの導き。

  この身すべて、あなたに捧げましょう。――


 その一節が響いたとき、広間全体が息を呑んだ。

 誰もが祈りを忘れ、ただその声に酔いしれている。


 ――神の声が、この場に降りてきたかのように。


 彼の瞳は固く閉ざされたまま、まるで祈りを捧げるように静かで、ただ声だけが光となって降り注いでいた。


 その姿は、誰よりも神聖で、誰よりも遠い。

 だからこそ私は目を逸らせなかった。


 やがて最後の一音が、幻奏琴の弦から零れ落ち、空気に溶けて消える。

 広間に静寂が戻る。


 ――その瞬間。


 ミナトはゆるやかに瞼を開いた。

 紫紺の瞳がまっすぐにこちらを射抜く。


 「……っ」

 心臓が跳ねる。

 ただそれだけで、胸の奥が熱に溶けてしまいそうだった。


 彼は竪琴を抱いたまま、片手を胸に当て、静かに一礼する。

 本来なら、会場のすべての人々に向けた敬意のはず――。

 けれどどうしても、その視線と仕草は、私ひとりに捧げられたようにしか思えなかった。


 彼が深く頭を垂れた刹那――。


 堰を切ったように、広間が揺れた。

 割れるような拍手が波のごとく押し寄せ、人々は歓声を上げる。

 「ブラーヴォ!」

 「もう一度!」

 老若男女の声が重なり、神殿の高い天井に反響した。


 椅子から立ち上がる者、涙を拭いながら両手を打ち鳴らす者、互いに抱き合って喜ぶ者――その熱狂はもはや祈りの場ではなく、祝祭の嵐だった。


 「……すごい……」

 ライラ様が恍惚とした吐息を漏らす。

 ミサも胸の前で手を組んだまま、目を輝かせて舞台を見上げていた。


 けれど、そんな喝采の嵐の中で――。

 私はひとり、声を失っていた。

 胸の鼓動が早すぎて、手を叩く余裕すらなかったのだ。

 「……やっぱり、ズルい」

 思わず漏れたその言葉は、喝采にかき消されて誰にも届かなかった。

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