プロローグ
夕暮れの王都は、黄金の光に包まれていた。石畳の広場に人々が集まり、露店の香辛料の匂いや、子どもたちの笑い声が混ざり合う。そんなざわめきの中心に、澄んだ旋律が流れ始めた。
――魔導楽師の演奏だ。
「お嬢様、少し寄り道していきませんか?」
隣を歩く侍女のミサが、控えめに声をかけてきた。栗色の髪を低い位置でまとめ、落ち着いた茶の瞳が柔らかく揺れる。仕立てのよい侍女服に身を包み、歩調を合わせて私を見上げている。
「放浪の楽師ミナトがこの先の大広場で演奏するそうですよ。王都でも人気の方で……きっと、退屈しのぎにはなるかと」
「大道芸人でしょ? 私には関係ないわ」
そう口にしたものの、なぜか足は止まらなかった。
私の銀の髪は夕陽を受けて淡く輝き、薄紫の瞳は無意識に舞台の方を追ってしまう。
大広場に近づくにつれ周囲の人々の期待に満ちたざわめきが、胸の奥をくすぐる。
舞台の中心に立つ青年は、紫紺の外套を翻し、光の糸で編まれたような楽器を奏でていた。
髪は銀とも亜麻色ともつかない色。風に揺れるたび、光をはらんできらめいた。
そして――蒼い瞳。冷たいはずなのに、覗き込めば息が詰まるほど深い。
形のよい唇が笑えば、挑発的で、観客を惹きつけてやまない。
ただの街角の楽師にしては、あまりにも整いすぎていた。
音は風を呼び、街灯の炎さえも共鳴している。
そして、歌が始まった。
――空気が、震えた。
ただの旋律ではない。彼の声が響いた瞬間、ざわめいていた広場はすっと静まり返り、風の音さえ息を潜める。
透き通った声が夜空へ溶けていき、星々を先取りするように広場のランプが淡く揺らめいた。
「……っ」
胸が締め付けられる。声にならない吐息が漏れる。
心臓の鼓動が、歌に合わせて早まっていく気がした。
無意識に胸元を握りしめていた。
その仕草に気づいたミサが、心配そうに私を見上げる。
「お嬢様……大丈夫ですか?」
「なんでもないわ!」
慌てて否定したけれど、言葉は少し上ずってしまう。
きっと顔が赤くなっているのだろう。
でも、もう取り繕えなかった。
だって――美しかった。
光と風を従える歌声。
それは理屈ではなく、ただただ、心をさらっていくものだった。
「……ずるい」
思わず、呟いてしまった。
誰のものでもないはずの声なのに、まるで私ひとりだけに向けられているようで。
歌が終わると同時に、観衆は大きな拍手と歓声に包まれる。
けれど私の耳には、彼の声の余韻しか残っていなかった。
「お嬢様……彼、素敵ですね」
隣のミサが、うっとりとした声でつぶやく。
「そ、そんなことないわ!」
思わず強く言い返す。けれど、視線は舞台から外せなかった。
「ほ、ほら……声がよく通るだけよ。それに少し見映えがするから皆が騒いでるだけで……!」
必死に言い訳を並べる自分が情けなくて、余計に頬が熱くなる。
……本当は、素敵なんて言葉では足りないくらいなのに。
その声は、観衆のざわめきに紛れたはずだった。
けれど舞台の上の青年の瞳が、こちらを射抜く。
ふと彼の顔が私に向く。
目が――あった?
慌てて視線を逸らした。そんなはずはない、ただの気のせい。けれど胸の奥が熱く跳ねる。
舞台の上のミナトは、にやりと口元を吊り上げた。
……いや、やっぱり見られてる!
「お嬢様……ミナトさん、こちらを見ているようですよ」
ミサが驚いたように目を丸くする。
――しまった。さっきの言葉聞こえていた……?
その時。
「おい、そこのお高くとまり嬢!」
ミナトのよく通る声が響き、ざわめく観衆が一瞬で静まり返る。
まっすぐに指を差された私の心臓は、どくん、と大きな音を立てた。
「お嬢様……!」
隣のミサが慌てて私の腕を掴む。周囲の視線が一斉に突き刺さってきて、足元の石畳まで熱を帯びるように感じた。
舞台の上のミナトは、余裕の笑みを浮かべてこちらを見下ろす。
「俺の音に文句があるなら――」
わざと間を取り、口角を上げた。
「もう一曲、聴いてけ」
歓声がどっと広がる。
「きゃー!」「ミナトーー!!」と群衆が押し寄せる熱気の中、私の胸の奥はざわざわと乱れていた。
なに、この人……。
どうして、私を巻き込むのよ……!
「信じられない! 行くわよ、ミサ!」
私はドレスの裾を翻し、人波をかき分けて歩き出した。
背中に刺さるのは、好奇と嘲りの入り混じった視線。
そして――追い打ちをかけるように、あの声が会場いっぱいに響いた。
光の弦が震え、風が旋律を運んでくる。
「……っ」
足を止めたい衝動を必死に抑えて、私は前を向いた。
耳にまとわりつく歌声は、振り返ることを許してくれないほど甘美で、残酷だった。
まるで公爵家の娘として生まれた自分を、ひとりの少女として暴き立てるようで――。
「お嬢様……本当に、よろしいのですか?」
小声で尋ねるミサに、私はうつむきながら早足で答えた。
「ええ。……あんなの、ただの大道芸人よ」
でも胸の奥では、鼓動がまだ彼の歌に縛られたままだった。