病院
夕暮れに染まる通学路を、俺たちは静かに歩いていた。桜並木が続く川沿いの道で、春になると桜がとても綺麗に咲く場所だった。今はもう緑色の葉っぱになっている。西日が川面に反射して、オレンジ色の光がゆらゆらと踊っている。
俺の隣には一人の女の子が、下を向いて歩いている。彼女の表情は穏やかだが、どこか寂しげにも見えた。風が吹くたびに、ボブカットの黒髪がさらりと揺れる。
「結局、本見つからなかったな。ごめん。俺のせいだ」
俺は申し訳ない気持ちで女の子に謝った。彼女が探していた大切な本を、結局見つけてあげることができなかった。もっと時間があれば、見つけられたかもしれない。
「うん。いいよ。私は悠馬を助けられたことで満足。多分、こういう運命なんだよ」
彼女はそう言って、どこか諦めたような、でも吹っ切れたような笑顔を浮かべた。その笑顔は少し大人びていて、まるで何かを悟ったような表情だった。
「ゆうま。これあげる」
女の子が俺を呼び、スカートのポケットから何かを取り出して手渡してくる。受け取って手のひらに載せてみると、それは四葉のクローバーの刺繍が施された小さな栞だった。淡い緑色の生地に、丁寧に縫われた四つ葉が美しく映えている。
「なに、これ?」
「かわいいでしょ。それ、私のお守りなの」
彼女は嬉しそうに説明した。その栞はどこか現実離れしたような綺麗なデザインだった。
「ふーん」
「ゆうまには良さがわからないかー。でも、その栞を枕元に置いて寝ると良い夢が見られるんだよ?」
彼女は少しいたずらっぽい笑顔を見せながら言った。
「へー。それは興味あるな」
俺は栞をじっと見つめながら答えた。こんな小さな物に、本当にそんな力があるのだろうか。
「私に何かがあったら、今度は悠馬が助けてね」
突然、彼女の表情が真剣になった。その言葉には、どこか切実な響きがあった。
「あたりまえだろ。俺に任せろ、『さくら』」
俺は力強く答えた。そして、俺たちは小指を絡めて指切りをした。
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強烈な頭痛と、全身を襲う鈍い痛みによって、俺はゆっくりと意識を取り戻した。頭の中では鈍器で殴られたような激痛が響き続け、体の節々がまるで錆びついた機械の部品のように軋んでいる。まぶたが鉛のように重く、開けるだけでも相当な努力が必要だった。
ようやく目を開けると、最初に目に入ったのは見慣れない白い天井だった。真っ白な塗装の表面には、規則正しく並んだ蛍光灯の冷たい光が反射している。その光が目に刺さり、思わず顔をしかめた。鼻をくすぐるのは、強い消毒液の匂いだ。
「……病院?」
かろうじて声に出してみると、喉がカラカラに乾いていることに気づいた。まるで砂漠を何日も歩いた後のように、舌が口の中に張り付いている。唾液を飲み込もうとしても、口の中に水分がほとんど残っていない。
視界の端で何かが動いた。ゆっくりと首を回すと—
「悠馬!気が付いたの!?」
母親の顔が、潤んだ瞳で俺を覗き込んでいる。その顔には深い安堵の表情が浮かんでいたが、同時に疲労の色も濃く刻まれていた。普段の母さんらしからぬ疲れ切った様子を見て、俺がどれだけ長い間意識を失っていたかが察せられた。きっと、俺が意識を失っている間、ずっと付き添っていてくれたのだろう。
その隣には、心配そうな父親の顔もあった。普段は仕事で忙しく、なかなか家にいない父さんが、こんな昼間の時間に病院にいることに、事の重大さを実感した。父さんの額には深いしわが刻まれ、普段の威厳ある表情とは違って、ただの心配する親の顔になっていた。
「母さん……父さん……」
掠れた声で呼ぶと、母さんが俺の手を強く握った。その手は温かく、生きていることの実感を俺に与えてくれた。母さんの手は小さくて柔らかいが、今はしっかりと俺の手を包み込んでいる。
「よかった……本当に、よかった……!病院から連絡があった時は……あんたが車に轢かれたって聞いて……もう、もう、どうしようかと思って……」
母さんの声が震えている。普段は強い母さんが、今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。その様子を見て、俺は自分がどれだけ危険な状況だったのかを理解し始めた。
俺はぼんやりとした意識の中で、事故の瞬間の光景を思い出そうとした。断片的な記憶が、パズルのピースのように頭の中で組み合わさっていく。
白い車体。太陽光を反射して眩しく光る金属の表面。体への強烈な衝撃。まるで巨大なハンマーで殴られたような、圧倒的な力。宙に舞う感覚。重力から解放されたような、ふわりとした浮遊感。そして、地面に叩きつけられる瞬間の鈍い音。
だが、何よりも奇妙だったのは、あの言いようのない既視感だった。まるで昔見た悪夢が現実になったような、不気味なほどの親近感。この事故は、どこかで体験したことがあるような気がしてならない。夢の中で、あるいは—
「夢図書館……」
小さく呟いた言葉は、両親には聞こえなかったようだった。
体の状態を確認してみる。左腕には真っ白なギプスが巻かれ、手首から肘の少し上まで固定されている。指先は動かせるが、腕全体に鈍い痛みが残っている。右足も厚い包帯でぐるぐる巻きになっており、足首を動かそうとすると激痛が走る。頭にも包帯が巻かれているのが、恐る恐る手で触れてみてわかった。側頭部のあたりがガーゼで覆われ、そこを軽く押すと鈍い痛みが響く。
全身に痛みはあるが、命に別状はなさそうだ。指は動くし、意識もはっきりしている。視界もぼやけていない。奇跡的に、重篤な後遺症は避けられたようだった。
しかし、俺が最も気になっていたのは、自分の怪我のことではなかった。
「美咲は……?美咲は無事なのか!?」
真っ先に頭に浮かんだのは、妹のことだった。美咲の本に書かれていた未来。あの交差点での事故を、俺は本当に止めることができたのか。陽平が間一髪で美咲を救ってくれたはずだが、その後美咲に何か起きていないだろうか。もしかして、運命は別の形で美咲を狙っているのではないか。不安が胸の奥で激しく渦巻いた。
父さんが、安堵したような表情で力強く頷いた。
「ああ、美咲は無事だ。なんともない。悠馬も、命に別状はない。検査のために2、3日入院しないといけないみたいだが、すぐ退院できるそうだ。お前が事故にあった後、陽平くんがすぐに救急車を呼んでくれたらい。無事でよかった」
普段は感情を表に出さない父さんが、こんな風に動揺しているのを見るのは初めてだった。
父さんの言葉に、俺は心の底から胸を撫で下ろした。美咲は助かった。それが何よりも重要だった。夢図書館で読んだあの恐ろしい未来は、確実に回避されたのだ。俺の犠牲は無駄ではなかった。
「悠馬、体は本当に大丈夫なの?お医者さんには、しばらく安静にって言われてるけど……頭も強く打ったみたいだけど、どう?」
母さんが俺の体を心配そうに見つめる。その視線には、母親特有の深い愛情と心配が込められていた。俺は自分の体の状態を改めて確認してみる。全身に痛みは残っているが、意識ははっきりしているし、手足も言うことを聞く。ひどく痺れるような感覚もない。記憶もしっかりしている。
「大丈夫……だと思う。頭もちゃんと働いてるし、記憶もはっきりしてる。」
俺は、交差点に向かっていた理由を話すべきか迷った。夢図書館のこと、美咲の本のこと、そこで読んだ未来の出来事。とても信じてもらえる話ではない。むしろ、頭を打った後遺症で幻覚を見ていると診断され、精神科に回されるのがオチだろう。
その時、病室のドアが軽くノックされた。ゆっくりとドアが開き、聞き慣れた声が響く。
「悠馬!大丈夫か?」
そこに立っていたのは、陽平だった。彼の隣には、美咲もいる。美咲は少し青ざめているが、足取りはしっかりしている。制服姿の彼女を見て、俺はやっと現実に戻ってきたような気持ちになった。
「陽平……美咲……」
彼らの顔を見て、俺は改めて美咲が無事だったことに心底安堵した。あの交差点で起きそうになった悲劇が、本当に回避されたのだ。美咲は元気に立っている。それだけで十分だった。
陽平は俺の顔を見ると、安堵したように大きく息を吐いた。彼の表情には、心配と安堵が入り混じっていた。普段の表情とは違い、本気で心配してくれているのがわかった。
「悠馬……お前、まじで大丈夫か?意識がなかった時は、どうしようかと思ったぞ。まさかお前が車に轢かれるなんて……俺、救急車呼ぶ時、手が震えてたんだ」
陽平の声には、普段の軽さがなかった。本当に俺のことを心配してくれているのが伝わってくる。
美咲も、いつもの小生意気な表情とは違う、真剣な顔で俺を見つめている。普段の「うざいお兄ちゃん」みたいな態度は影を潜め、本当に心配してくれているのがわかった。その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「兄ちゃん……。何してるのよ、バカ。私には車に気をつけろって言ったくせに……自分が事故に遭うなんて……」
美咲の声が震えている。涙を必死に堪えているのがわかった。普段は強がりな美咲が、こんな風に感情を表に出すのは珍しい。
「ごめん……心配かけて。二人とも、ありがとう。」
俺は素直に感謝の言葉を口にした。美咲は助かり、俺は入院。未来を変えた代償なのか、それとも、これは必然だった出来事なのか。運命というものの複雑さを、身をもって体験している気分だった。
「でも、兄ちゃん……あの時、変なこと言ってくれてたから……」
美咲が口を開いた。
「猫に気をつけろとか、交差点で注意しろとか。すごく具体的だったじゃない。もしかして、何か知ってたの?予知能力でもあるの?」
美咲の質問に、俺は言葉に詰まった。まさか夢図書館の話をするわけにもいかない。あの不思議な図書館で、美咲の未来が書かれた本を読んだなんて話をしたら、間違いなく頭がおかしくなったと思われるだろう。
「なんとなく……嫌な予感がしたんだ。勘っていうか……」
俺は曖昧に答えるしかなかった。陽平が俺の顔をじっと見つめ、何かを言いたげな表情を浮かべていたが、それ以上は追求しなかった。きっと彼も、俺の説明に納得していないのだろうが、今は追及する時ではないと判断してくれたのだろう。
両親と美咲、陽平が談笑している間、俺は再び白い天井を見上げる。
俺は夢図書館の存在を強く意識していた。あの不思議な図書館は、本当に存在するのか。それとも、俺の頭が作り出した幻想に過ぎないのか。しかし、美咲の事故を予知し、それを回避できたことを考えると、あの図書館は確実に現実と繋がっている。
そして、月原さくら。なぜ、彼女の記憶が俺にはないのだろう。とても、俺にとって重要な存在であるんではないかという疑念が大きくなっている。
白い天井を見つめながら、俺は次第に眠りに落ちていった。