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記憶

「カーカー」と低く掠れた鳴き声が、神社の境内に響いていた。桜の古木の根元で一羽の烏が翼を広げている。どうやら怪我をしているらしく、飛び立とうとしては地面に落ちてしまうのを繰り返していた。


その烏のすぐ隣に、一人の女の子がしゃがみ込んでいた。肩のラインで切り揃えられたボブカットの黒髪が、夕日に照らされて艶やかに光っている。丸い眼鏡の奥から覗く瞳は、どこか見覚えのある藍色をしていた。


彼女は烏を見つめながら、眉を八の字に寄せて困ったような表情を浮かべていた。その表情からは、何とかしてあげたいという優しさと、どうしていいかわからないという戸惑いが伝わってきた。時折、烏に向かって小さく声をかけているようだったが、当然ながら烏は理解できずにいた。


「ゆうま、どうしよう?」


振り返った彼女の視線が、俺を捉えた。その瞳には、まるで俺なら何か良い解決策を知っているとでも言うような期待の光が宿っていた。


そんなの俺に聞かれても困る。俺だって怪我をした烏の世話なんてしたことがないし、正直どうしていいかわからない。でも、彼女の困り顔を見ていると、なぜか放っておけない気持ちになる。


俺は立ち上がって、烏との距離を縮めた。近くで見ると、左の翼が不自然に垂れ下がっている。骨折しているかもしれない。このまま放っておけば、野良猫に襲われたり、カラスの群れからいじめられたりして、命を落とすかもしれない。


「ほっとくわけにもいかないよな……」


俺は溜息をつきながら言った。


「とりあえず、俺の家に持って行ってみるか。応急処置くらいはできるかもしれない」


「うん!!」


女の子が満面の笑みを浮かべた。さっきまでの困った表情が嘘のように消え去り、代わりに希望に満ちた笑顔が広がった。


俺は上着を脱いで、そっと烏を包み込んだ。烏は最初少し暴れたが、すぐに大人しくなった。きっと疲れているのだろう。


「ありがとう、ゆうま」


彼女が小さくつぶやいた。





目が覚めると、自室のベッドの上だった。窓の外はまだ暗く、時計を見ると早朝の7時だった。夢図書館での出来事が鮮明に思い出せる。あの司書さんとの会話、夏美の鍵の在り処。その後にも何か夢を見た気がするが、内容ははっきりしない。ただ、あの女の子の笑顔だけが、妙に印象に残っている。


とりあえず、夏美の鍵の場所を忘れないうちに行かなければいけない。おそらく、あの側溝の蓋の近くだ。


俺は布団を跳ね除け、コンビニへ向かう準備を始めた。Tシャツにジーンズという簡単な格好で、財布と家の鍵だけをポケットに突っ込む。身支度はすぐに終わったが、ここで思わぬ問題が発生した。


玄関で俺の靴が見当たらない。いつもの場所にあるはずのスニーカーがない。


「母さん、俺の靴知らない?」


リビングに向かって声をかけると、母親が驚いたような声で返事をした。


「えー、悠馬、こんな朝早くからどこ行くの?珍しいじゃない」


「それは別にいいだろ。俺の靴がないんだけど」


「知らないわよ。私は動かしてないわ」


その時、ダイニングテーブルで朝ご飯を食べていた妹の美咲が、わざとらしくトーストをかじりながら口を開いた。


「兄貴、外出ないから、靴がさびしくなって一人で散歩に行っちゃったんじゃないの?」


美咲のとぼけた顔を見て、俺は確信した。絶対にお前の仕業だろう。さては昨日のアイスの仕返しか?ちっちゃい女だな……。


俺は腹いせに、美咲のスニーカーを手に取った。


「じゃあ、俺はこれを履いて出かけることにするよ」


「兄貴!!私が悪かったから、それだけはやめて!!」


美咲は慌てて立ち上がり、観念したように俺の靴の隠し場所を教えてくれた。どうやら靴箱の奥に押し込んでいたらしい。


美咲よ、俺に勝つのはまだ百年早いぞ。


外はまだひんやりとした朝の空気が漂っている。早朝の風は涼しく、頬を撫でていく。人影もまばらなコンビニへの道を進み、昨日友人たちと探した場所へと向かった。


道端には、ちらほらとサラリーマンや学生、小学生たちが歩いている。こんなみんなが外に出るタイミングで外に出るとはな……。夢図書館を利用してからというもの、どうもいつもの俺とは違う行動をとっている気がする。


コンビニから駅に向かう道を少し歩くと、問題の場所が見えてきた。古びた大きな側溝の蓋が、昨日夢の中で見た時よりもはっきりと目に入ってくる。コンクリート製の重そうな蓋で、表面には苔が薄っすらと付着している。誰もいない静かな朝の道で、俺は側溝の蓋に近づき、隙間を覗き込んだ。


最初は暗くて何も見えなかった。しかし、目を凝らして見ていると、蓋の縁に、かすかに光るものが見えた。金属製の何かが、街灯の光を反射している。


「あった!」


小さく声を上げた。興奮で心臓が早鐘を打つ。慎重に手を差し込み、指先で探ってみる。冷たい金属の感触が指に触れる。苦戦しながらも、やがて俺の手には、一つの鍵束が握られていた。三本の鍵がリングに通されている。家の鍵だろうか、それとも自転車の鍵だろうか。おそらく、夏美の鍵束だろう。


本当にあった。夢図書館は本物であると確信した。あの本に書いてあった通りの場所に、本当に鍵があったのだ。これで、夢図書館での体験が単なる夢ではないことがわかった。あの図書館はいったいなんなんんだろう。


それはさておき、夏美も、きっと喜んでくれるだろう。あんなに困っていたのだから、この鍵が見つかれば、お母さんに怒られることもなくなる。


俺はそのままの足で夏美の家へ向かった。夏美の家は小学校の頃よく遊びに行っていた。小学校の近くなので、すぐに着く。


夏美の家は、二階建ての白い家だ。玄関の前には小さな花壇がある。朝顔の花が綺麗に咲いていて、朝露でキラキラと光っていた。


インターホンを押して、果たして夏美本人が出てくるだろうか、それともお母さんが出てきたらどうしよう、と少しだけ緊張した。こんな朝早くに突然訪問するなんて、非常識だ。でも、一刻も早く鍵を渡してあげたい気持ちの方が強かった。


久しぶりの外出で少し疲労を感じていたが、人の役に立てた喜びと、鍵を見つけた達成感がそれをはるかに上回っていた。引きこもりがちな自分が、こんな風に誰かのために行動できたことが、なんだか誇らしかった。


夏美の家のインターホンを鳴らすと、すぐに夏美が出てきた。パジャマ姿で、髪はボサボサになっている。


「悠馬!どうしたの、こんな朝早くに?」


夏美は驚いた顔で俺を見た。寝癖のついた髪が、なんだか幼く見えた。小学生の頃の夏美を思い出す。


「あのさ、これ、もしかして夏美の鍵じゃないか?」


俺は手に持った鍵束を夏美に見せた。夏美は目を大きく見開き、信じられないものを見るように鍵を見つめた。その表情は、まるで奇跡を目の当たりにしたかのようだった。


「えっ……!私の鍵!?うそ、どこで!?」


夏美はそう言って、鍵を受け取ると、大事そうに握りしめた。その手は、小刻みに震えている。安堵と驚きが入り混じった表情だった。


「コンビニから駅に向かう道で、大きい側溝の蓋があっただろ?もしかしたら、あそこかもしれないって思ってさ。」


俺がそう言うと、夏美は「あそこかぁ!」と、まるで今思い出したかのように納得した声を上げた。


「そういえば、昨日あの辺り通った時、何か落としたような音がしたんだ。まさかあの時に……」夏美は手のひらで額を叩いた。


「本当にありがとう、悠馬!もうお母さんにめちゃくちゃ怒られてたから、本当に助かったよ!昨日の夜なんて、夕飯抜きだったんだから!」


夏美はそう言って、深々と頭を下げた。その素直さに、俺は少し照れてしまう。こんな風に感謝されるなんて、久しぶりだった。


「いや、どういたしまして。見つかってよかったな。」


「うん!本当にありがとう!悠馬って、昔からそうだったよね。」


夏美がふと、遠い目をして呟いた。その表情は、何かを懐かしんでいるようだった。


「昔から?何が?」


俺は首を傾げた。


「なんか、小学校の頃もさ、みんなで落とし物探したことあったじゃん?あの時も悠馬、一生懸命探してくれたよね。すごく覚えてる。結局見つからなかったんだけど……。でも、悠馬だけは最後まで諦めずに探してた。」


「俺が、一生懸命……?」


俺は驚いて聞き返した。自分のことなのに、全く記憶がない。まるで他人の話を聞いているようだった。


「うん、そうだよ。なんで覚えてないの?あんなに必死だったのに……。あの子のものだったからかもだけど」


夏美は不思議そうに眉をひそめた。俺の記憶の欠落。「あの子」って、一体誰のことだろう?


「ま、とにかく鍵が見つかって本当に良かった。悠馬、ありがとう。今度、お礼するね。陽平たちにも話しておくから。」


夏美は鍵を大切そうに握りしめ、明るい笑顔を見せた。その笑顔を見て、俺もじんわりと嬉しい気持ちになった。こんな風に誰かを笑顔にできるなんて、久しぶりのことだった。


夏美に鍵を返した後、俺は達成感に浸りながら、コンビニで自分へのご褒美にアイスを買った。バニラアイスクリームを一口食べると、冷たさが口の中に広がり、朝の疲れが少し和らいだ。早朝からの行動だったが、人の役に立てた喜びが、その疲れを忘れさせた。引きこもりがちな自分でも、こんな風に誰かの役に立てることがあるのだと実感した。


コンビニからの帰り道、ふと、小学生の頃の光景が脳裏に蘇った。この道で、毎日、陽平と健太、彩香、夏美、そして……もう一人、誰かと遊んでいた気がする。なぜか、その「誰か」の存在だけが、靄がかかったようにぼやけている。


でも、その「誰か」の存在だけが、靄がかかったようにぼやけている。まるで、その人だけ写真からぼかしを入れられているような感覚だった。


その「誰か」の顔を思い出そうとすると、頭の奥がズキリと痛んだ。ぼやけた輪郭。曖昧な記憶。女の子だったような気がするが、詳細は全く思い出せない。なぜ思い出せないんだ?俺は確かに、遊んでいたはずなのに。記憶の中にぽっかりと穴が空いているような、不気味な感覚だった。


自宅に帰り着くと、玄関に飾ってある小学校の集合写真が目に飛び込んできた。入学式の時に、クラス全員で撮った、大きな写真だ。額縁に入れられて、いつも玄関を通る度に目にしているはずなのに、今日初めて気づいたような新鮮な驚きがあった。俺はそれに近寄った。


写真の中の俺は、少し緊張した面持ちで、陽平の隣に立っている。新しいランドセルを背負い、制服もピシッと決まっている。その陽平の隣には健太と彩香、そして夏美の姿があった。小学5年生の彼らは、今より幼く、あどけない笑顔でカメラを見つめている。みんな、入学への期待と不安が入り混じったような表情をしていた。


しかし、俺の視線は、ある一点に釘付けになった。


陽平と夏美の間に、見たことのない女の子が写っている。彼女は、少しはにかんだような笑顔で、こちらを見ている。ボブカットの黒髪。丸みを帯びた眼鏡。そして、その瞳は、どこか見覚えのある、藍色だった。深い海のような、それでいて透明感のある美しい色。


俺は息を呑んだ。この顔は……。


「あの司書……?」


無意識のうちに、声が漏れた。どことなく、夢図書館で出会った司書に似ている人が、なぜ俺の小学校の集合写真に写っているんだ?


しかも、俺の記憶には、そんな女の子がいた覚えが全くない。陽平、健太、彩香、夏美との思い出は鮮明にあるのに、この女の子に関する記憶だけが、まるで最初から存在しなかったかのように空白になっている。必死に記憶を掘り起こそうとするが、まるで透明な壁に阻まれているかのようだ。まるで、その存在が最初からなかったかのように。


写真をじっと見つめていると、違和感がさらに強くなった。この女の子だけ、なぜか写真の中で浮いているような印象を受ける。他の子供たちは自然に笑っているのに、この女の子だけは、どこかぎこちない笑顔を浮かべている。まるで、後から合成されたかのような不自然さがあった。


その時、リビングから母親の声が聞こえた。


「悠馬、朝から行動なんてどうしちゃったの?引きこもりがちだったのに、珍しいじゃない。」

俺は集合写真を手に、リビングへと向かった。母親は朝食の片付けをしているところで、エプロン姿でフライパンを洗っている。


「母さん、この写真見てくれよ。」


俺は母親に集合写真を見せた。


「なに?急に。懐かしいねぇ。ああ、この子は確か、あの頃よく遊んでた女の子ね。」


母親は写真を見て、目を細めた。そして、指差した先にいた見慣れない女の子の顔を見て、迷いなくその存在を口にした。まるで、当然のことのように。


「あの頃よく遊んでた女の子?」

俺は驚いて聞き返した。母さんは知っているのか?なぜ俺だけが覚えていないんだ?


「ええ。小学校の時に、悠馬たちとよく遊んでいた子じゃない。ほら、転校してきたって言ってたでしょう?おとなしいけど、いつも悠馬たちのグループにいたわよ。確か5年生の時だったかしら。」


母親は当たり前のように話す。転校生の話まで詳しく覚えている。俺の頭は混乱でいっぱいになった。転校生?小学校の頃、そんな子いたのか?陽平たちとの遊びの記憶は鮮明なのに、この「あの頃よく遊んでた女の子」の存在は、全く記憶にない。


「でも、俺、全然覚えてないんだ。この子のこと……」


俺は必死に訴えた。母親は困ったように首を傾げた。


「あら、そうだったかしら?でも、確かにいたわよ。確か、月原さくらちゃんって子よ。悠馬がよく気にしていた気がするんだけど……。いつも一緒に宿題やったり、図書室で本読んだりしてたじゃない。あと、烏を拾ってきたこともあったわよ。懐かしい。」


母親は、まるで俺の記憶が間違っているかのように言う。図書室?本?烏?なぜか、その単語に心がざわめいた。


月原さくら。その名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが引っかかった。懐かしいような、切ないような、複雑な感情が湧き上がる。でも、それが何なのか、どうしても掴めない。


俺の記憶の欠落。写真に写る見慣れない女の子。そして、母親が当たり前のように覚えているのに、俺は全く覚えていない違和感。これはいったいどういうことなのだろう?


俺は自室に戻り、コンビニで買ってきたアイスを食べながら、今の出来事を整理した。バニラの甘さが口の中に広がるが、頭の中はまだ混乱したままだった。


小学五年生の頃の記憶、月原さくらという人物……。そして、夢図書館の司書との類似点。


今日、また夢図書館に行って、あの司書に直接話を聞いてみよう。自分の記憶のこと、そして、この月原さくらという子が何者なのか。もしかすると、司書が月原さくらなのかもしれない。それとも、単なる偶然の一致なのだろうか。


夢図書館に行く条件は「真夜中から夜明けの時間に、夢図書館に関する持ち物を頭の近くに置いて寝る」だったはずだ。


はじめて夢図書館へ行った時、俺は本を読んでいた。あの時読んでいたのは、夢図書館から借りてきた本じゃない。ごく普通の小説だった。あの本には、夢図書館に関する持ち物なんてついていなかったはずだ。


2回目に夢図書館に行ったときは本すら読んでいなかった。それなのに夢の中へ行くことができたのは、なぜだろう?何か、俺の知らない要因があるのかもしれない。


俺は不思議に思って枕元を調べてみる。ベッドサイドテーブルの引き出しを開けたり、枕をめくってみたり。すると枕の下から四葉のクローバーが刺繍されている栞が出てきた。


「ん……?この栞……?」


なんだろうこの見覚えのない栞は?淡い緑色の生地に、丁寧に縫われた四つ葉が美しく映えている。

頭の隅に何か記憶の断片が引っかかる。思い出せそうで、思い出せない、得体の知れない気持ち悪さが、心臓を締め付けるように広がっていく。


でも同時に、この栞を見ていると、なぜか心が温かくなる。誰かの優しさを感じるような、大切にされていたような、そんな気持ちになる。


しかし、同時に閃いた。多分この栞が、俺を夢図書館へ連れて行くきっかけになっているのかもしれない。夢図書館に関する持ち物。これがまさにそれなのではないだろうか。


今日もこの栞を枕の下に入れて寝ることにしよう。そして、あの司書さんに、この栞のこと、月原さくらのこと、そして俺の記憶の欠落について、全て聞いてみよう。きっと答えが見つかるはずだ。

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