行方
目を開くと、そこは吸い込まれるような純白の世界だった。壁も天井も床も、すべてがどこまでも続く白で、音もなく静寂に包まれている。この清潔すぎる空間は、まるで病院の手術室のようで、少し息苦しささえ感じる。
「また、夢図書館にきたのか……」
無意識のうちに呟いた。昨日、アイスの犯人を見つけるために訪れた場所。まさかこんなに早く戻ってくるとは思わなかった。夢図書館へ来るための条件は「真夜中から夜明けの時間に、夢図書館に関する持ち物を頭の近くに置いて寝る」だったはずだ。何が反応しているのだろう。
枕元には昨日読んだ本があったかもしれない。とにかく、何かしらの条件を満たしていたのだろう。二度目の訪問だからか、この白い空間にも少し慣れてきた。
昨日、美咲の本を読んだことで、夢図書館が現実とリンクしていることがわかった。美咲が俺のアイスを食べた日付、時間、状況すべてが正確に記録されていた。そして、俺の仕返し計画も見事に成功した。あの時の美咲の悲鳴を思い出すと、今でもにやりとしてしまう。
「今日は誰の本を読もうかな……」
そういえば、今日、友人たちの鍵探しを手伝ったはいいが、結局見つけられなかった。夏美があんなに困っていたし、お母さんに怒られ続けるのも忍びない。皆で一時間以上も探したのに、見つからなかった時の夏美の落胆した表情が忘れられない。もしかしたら、ここで調べてもいいかもしれない。
夢図書館なら、夏美の行動が詳細に記録されているはずだ。鍵を落とした正確な場所がわかれば、明日にでも教えてあげることができる。
俺は自然と足を受付へと向けた。数メートル先には受付らしき机が置かれ、一人の女の子が座っている。司書さんだ。彼女は俺のことに気づいていないようで、ただひたすらパソコンの画面とにらめっこしている。カタカタとキーボードを叩く音だけが、この静寂な空間に響いている。
昨日と同じように、俺が近づいても彼女は気づかない。まるで俺が透明人間になったかのような無視っぷりだ。それとも、集中しているだけなのだろうか。
「あの、すみません」
俺が声をかけると、司書さんはビクンと体を揺らし、眼鏡をかけ直しながらゆっくりとこちらに顔を向けた。驚いた表情を浮かべたかと思うと、すぐに表情が変わった。しかし、昨日のような明らかな敵意ではなく、今度は完全に無表情だった。まるで機械のような冷たさだ。
「……またですか。」
司書さんの声は、氷のように冷たかった。明らかに迷惑そうな口調で、俺の存在を疎ましがっているのが伝わってくる。
「あ、はい。また来ちゃいました。」
俺は少し戸惑いながら言った。昨日よりもさらに冷たくなっている気がする。
「……で、今度は何の本ですか。」
司書さんは俺を見ずに、パソコンの画面を見たまま事務的に尋ねる。その態度は、まるで「早く用件を済ませて帰ってください」と言わんばかりだった。
「ええ。実は昨日、小学校時代の友達と会って、その友達が鍵をなくして困ってたんです。昨日、みんなで探したんですけど、結局見つからなくて……。もしかしたら、この夢図書館で鍵の場所がわかるんじゃないかと思って。」
俺は期待を込めて、昨日あった出来事を話した。司書さんは、俺の話を聞いているのかいないのか、相変わらずパソコンの画面を見続けている。まるで俺の話などどうでもいいかのような態度だった。
「……はぁ。」
司書さんは明らかにうんざりしたようなため息をついた。
「それで、誰の本が読みたいんですか。さっさと言ってください。」
その冷たい口調に、俺は少しムッとした。客に対する態度ではない。でも、ここは夢の中だし、文句を言っても仕方がないのかもしれない。
「佐藤夏美という友達です。佐藤夏美の本を貸してください。」
俺はできるだけ丁寧に答えた。
司書さんは「……かしこまりました」と言い、明らかに面倒くさそうにパソコンのキーボードをカタカタと叩き始めた。その手つきは、昨日よりもさらに荒っぽかった。
「佐藤夏美……」
司書さんは俺の名前を呟きながら、検索をしている。その声には、何か含みがあるような気がした。
「……貸し出し可能です。図書館内で読みますか、持ち帰りますか。」
司書さんは相変わらず俺を見ずに、機械的に尋ねる。
「えっと……ここで読ませてもらいます。」
俺はそう答えた。司書さんは返事もせずに立ち上がり、受付の奥の白い壁を両手で押した。壁が扉のように音もなく開くと、司書さんはそのまま奥へと入っていく。その足取りは早く、まるで一刻も早く俺から離れたいかのようだった。
壁の扉が閉まると、そこには何もなかったかのように、ただ白い壁が立ちはだかっていた。俺は一人、受付で待つことになった。
司書さんが本を取りに行っている間、俺は受付周りを観察してみた。机の上には「受付」と書かれたプレート以外、ほとんど何もない。パソコンと、いくつかの書類、そして小さなペン立てがあるだけだ。この殺風景な受付は、司書さんの冷たい性格を表しているようだった。
しばらくすると、再び白い壁が扉のように開いた。そこから、司書さんは一冊の本を両手で抱え出てくる。しかし、その動作は昨日の「大切そうに」とは程遠く、まるで重い荷物を運んでいるかのようだった。
前回の美咲の本と同じ、ハードカバーの単行本くらいの大きさだ。表紙にはでかでかと「佐藤夏美」と書かれている。
「こちらです。」
司書さんは本を受付の上に置くと、そっけなく言った。「佐藤夏美さんの本です」という丁寧な説明もない。まるで物を渡すだけの作業のようだった。
「ありがとうございます。」
俺がお礼を言っても、司書さんは特に反応しない。ただ、早く持って行けと言わんばかりに俺を見ている。
「あの、閲覧室は……」
「右の壁です。自分で開けてください。」
司書さんは俺の質問を遮るように答えた。昨日のように案内してくれることはないらしい。
俺は本を受け取り、右側の壁に向かった。昨日と同じように両手で押すと、壁が扉のように開いた。閲覧室には、白い机と椅子が二列で十個、均等に並べられている。
今日も数人の利用者がいるようで、三か所ほど席が埋まっていた。相変わらず、その人たちの顔ははっきりと見えず、性別すら曖昧だ。この人たちも夢を見て、この図書館に来ているのだろう。
俺は空いている席に着いた。手に持った「佐藤夏美」の本は、ずっしりとした重みがある。表紙を見ているだけで、なんだか申し訳ない気持ちになってくる。人の人生を覗き見するようで、少し罪悪感がある。
でも、これは夏美を助けるためだ。鍵が見つかれば、夏美もお母さんに怒られずに済む。そう自分に言い聞かせて、俺は本を開いた。
一ページ目を開くと、目次があった。夏美の人生の年表がずらりと並べられている。2007年から2090年まで、彼女の人生が年表として記録されている。これだけ長い期間が記録されているということは、夏美は90歳近くまで生きるということなのだろうか。
鍵を落としたのは昨日、つまり2025年3月3日だ。その日付を探してページをめくる。目次を見ると、2025年3月3日は347ページに記載されているようだ。
俺はページをめくり、該当箇所を探した。
---
**2025年3月3日(月)**
居酒屋を出て、陽平たちとコンビニで飲み物を買った。まだ酔いが残っていて、少しふらふらする。アルコールが回っているせいか、足元がおぼつかない。コンビニを出てすぐにスマホを取り出して、友達にメッセージを送った。「今日は楽しかった♪また今度みんなで飲もうね!」と、少し酔った勢いでいつもより感情的な文章を送ってしまった。
そのまま健太と彩香と別れて、陽平と駅の方向へ歩いた。コンビニから少し歩いたところに、やけに大きなマンホールがあって、足元に気を取られてしまった。スマホの画面を見ながら歩いていたせいもあって、バランスを崩して転んでしまった。
その時、ポケットから何か小さなものがカチャンという音を立てて落ちた気がしたけれど、陽平が心配してくれて「大丈夫?」と声をかけてくれたので、特に気にせず立ち上がった。きっと、小銭か何かだろう。膝に少し擦り傷ができたけれど、たいしたことはない。
そのまま陽平と他愛のない話をしながら家に帰って、部屋に戻ってベッドに潜り込んだ。酔いがまだ残っていたので、歯磨きもそこそこに、そのまま眠ってしまった。
---
俺は昨日の状況を思い描いた。陽平たちが鍵を探していた場所。コンビニの前から電柱のあたりまでと言っていたが、あのマンホール……いや、あれは側溝の蓋だったかもしれない。そのあたりは、重点的に探していなかった場所だ。陽平も夏美も酔っていたから、記憶が曖昧だったのだろう。
鍵が落ちている場所はわかったかもしれない。でも、念のため続きも読んでみよう。
---
**2025年3月4日(火)**
朝、目を覚ますと頭がガンガンする。二日酔いだ。水を飲んで少し落ち着いたところで、枕元に置いていたはずの家の鍵が見当たらないことに気づいた。いつものようにサイドテーブルに置いていたはずなのに、どこを探しても見つからない。
ベッドの下、クローゼットの中、洗面所、リビング。家中をくまなく探したけれど、どこにも鍵の姿はない。パニックになった。お母さんに聞かれたら絶対に怒られる。特に最近、物をよく失くすことが多くて、お母さんからも「もっとしっかりしなさい」と言われていたところだった。
恐る恐るリビングへ行くと、お母さんが険しい顔で新聞を読んでいた。「おはよう」と言うと、お母さんは顔を上げて、「あ、夏美。鍵はちゃんと持ってる?昨日遅かったけど、大丈夫だった?」と聞いてきた。
しどろもどろになってしまった。「あ、えーっと……」と言葉を濁していると、お母さんの表情がみるみる険しくなっていく。「まさか、また失くしたんじゃないでしょうね?」
もう隠しきれなかった。「ごめんなさい……どこにもないの……」と正直に打ち明けると、お母さんは予想通り激怒した。「どうして最近こんなに物を失くすの!?しっかりしなさい!今日中に見つけなさい!」
昨日、陽平たちと飲んでいたコンビニあたりで落としたのかもしれないと思い、すぐに陽平に連絡した。陽平は快く手伝ってくれると言ってくれたので、午前中からコンビニの駐車場あたりでみんなで鍵を探し始めた。
陽平、健太、彩香も来てくれて、みんなで手分けして探した。コンビニの駐車場、植え込みの中、道路の端。考えられる場所はすべて探したけれど、結局見つからない。昨日酔っていたせいか、どこで落としたのか正確に思い出せないのがもどかしい。
途中、引きこもりになってる悠馬が偶然通りかかって、手伝ってくれたのは驚いた。まさかあんなところで会うなんて。悠馬も一緒に探してくれたけど、結局鍵は見つからず、お母さんにまた怒られることを考えると、憂鬱な気分になった。
みんなに迷惑をかけてしまって、本当に申し訳なかった。特に悠馬は、普段あまり外に出ないのに、わざわざ手伝ってくれて……。泣きそうな気持ちで家に帰ると、案の定お母さんに「見つかったの?」と聞かれ、見つからなかったと答えると、さらに怒られた。
---
夏美は俺が引きこもっていることを知っているのか。それもそうだよな。近所だし、同じ小学校だったし、噂は広まっているのだろう。そう思うと少し気まずくなった。でも、手伝ってくれたことを感謝してくれているようで、少し安心した。
---
**2025年3月5日(水)**
今日も朝から鍵を探しに外へ出た。お母さんからは「今日中に見つけなさい!見つからなかったら、新しい鍵を作る費用はあなたのお小遣いから引くからね!」と強く言われている。鍵を作り直すのに数千円かかるし、それだけでも痛いのに、お母さんに怒られ続けるストレスも限界だ。
陽平も健太も彩香も、それぞれの用事があるようで、今日は私一人で探すことになった。昨日みんなで探したコンビニの周りを、もう一度くまなく見て回る。植え込みの中、店の裏側、自動販売機の陰。地面に這いつくばるようにして探したけれど、やはりどこにも鍵の姿はない。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。普段はもっとしっかりしているつもりなのに、最近はこんなミスばかりしている。鍵がなければ、お母さんにもずっと怒られ続けるし、家を出るたびに不安になる。もう二日も経つのに、見つかる気配がない。このまま見つからなかったら、どうすればいいのだろう。考えるだけで胃がキリキリする。
---
夢図書館の司書さんが、静かに俺の肩を叩いた。振り返ると、彼女は相変わらず無表情で立っていた。
「退室の時間です。」
司書さんの声は冷たく、まるで俺を早く追い出したいかのようだった。
「あ、はい。ありがとうございました。」
俺は本を閉じて立ち上がった。司書さんは俺から本を受け取ると、何も言わずに閲覧室から出て行った。