鍵
「ゆうま。これあげる。」
知らない女の子が俺を呼び、何かを手渡してくる。その声は懐かしくて、でもどこか不安げだった。
「君は?」
俺の声は相手に聞こえているのだろうか?反応がない。まるで俺が透明人間になったかのように、彼女は俺を見ているのに見ていない。
知っているようで知らない子。顔が良く見えず、ぼやけている。まるで古い写真の中の人物のように、輪郭がはっきりしない。でもその雰囲気には覚えがある。どこかで会ったことがあるような気がするのだ。
小学生ぐらいだろうか、見慣れた通学路、見慣れた空、見慣れたランドセル。桜並木の向こうに見える学校の校舎も、踏切の音も、すべてが記憶の奥底にしまい込まれた風景だった。その女の子以外は見慣れた景色だ。
でも、どこかで会った気もする。まるで大切な何かを忘れているような、胸の奥がざわめく感覚があった。彼女の声が少しずつ遠くなっていく。俺は必死に彼女の名前を思い出そうとしたが、まるで霧に包まれたように、記憶がぼやけていく。意識が少しずつ遠くなっていく。
「うーん。」
俺は目を覚ました。不思議な夢を見た。変な図書館に行って、冷たい司書さんがいて、妹の本を借りようとしたんだっけ。そのあとは変な女の子の夢……。なんだか頭がぼんやりしている。
「変な夢みたなー」
と大きく伸びをする。体が固まっていたのか、関節がポキポキと音を立てた。あくびをしたからか涙が出てくる。今日はというか今日も予定がないので、のんびりと過ごせる。まぁ、いつものことだ。
窓を開けると、日が昇っていた。窓から差し込む日光がまぶしくて、思わず目を細める。外では鳥のさえずりが聞こえ、どこか遠くから車の音も聞こえてくる。普通の朝の音だ。スマートフォンで時間を確認すると、午前7時30分を示していた。今日は2025年3月4日火曜日だ。
たしか、夢の中では昨日、妹にアイスを食べられたから復讐をしようと思ったんだっけ?あれは夢だったのか、それとも現実だったのか。でも、確かに昨日の夜、冷凍庫を開けた時の絶望感は覚えている。あのチョコミントアイスは確実に無くなっていた。
犯人が妹と決まったわけではないが、日ごろからいたずらをされてきているので、今日ぐらい仕返しをしたってかまわないだろう。美咲は小さい頃から、俺の大事なものを勝手に触ったり、隠したりするのが好きだった。ゲームのセーブデータを消されたこともある。あの時は本当に腹が立った。
計画としてはこうだ。
美咲の好きな**いちご味のアイス**を、彼女が大嫌いな**抹茶味のアイス**と中身をすり替える。
食べた瞬間に想像していた味とは違う味がするというドッキリだ。美咲は抹茶が本当に嫌いで、お茶もほとんど飲まない。きっと予想外の苦味に驚くはずだ。
そのためにはまず、抹茶味のアイスを買いに行かねばならない。久しぶりに外に出る理由ができた。
身支度を終えてリビングに行くと、母親と妹の美咲が座ってテレビを見ていた。テレビからは朝の情報番組の声が聞こえ、キャスターが今日の天気を伝えている。
「あ!悠馬どこ行くの?朝ご飯は?」
母親が俺に話しかけてくる。最近、俺が昼間に起きてくることが珍しいからか、少し驚いた表情を浮かべている。
「食べる」
俺はそう言い、席に着いた。今日の朝ご飯は白米に目玉焼きとベーコン、そして味噌汁だった。朝はご飯派なのでこれは嬉しい。温かい味噌汁が体に染み渡る。
美咲はテレビに夢中で、俺のことはほとんど気にしていない。そろそろ登校の時間だというのにそんなにゆっくりしていて大丈夫なのだろうか。妹は見通しを立てて動くということをしない。気づいたら動く、ギリギリになってから動くことを信条にしているのか、朝はいつもドタバタとしている。それに睡眠を邪魔されるのが地味にイライラするのだ。
「昨日食べようと思ったアイスのこと、母さん知らない?」
俺は美咲に聞こえるような声でわざとらしく聞いた。美咲はチラッと俺を見たが、すぐにテレビに視線を戻した。その反応が怪しい。
「うーん、知らないわね。昨日はお父さんとドラマずっと見てたからなぁ。お父さんか美咲じゃない?」
母親は、たぶん本当に知らないのだろう、心底不思議そうに答える。母親は嘘をつくのが下手だから、すぐにわかる。
「そっか。美咲は知らない?」
俺は美咲を睨むように見ながら、もう一度尋ねた。今度は少し声に威圧感を込めた。
「えー。知らないよー。お父さんじゃない?」
美咲は素知らぬ顔でとぼけているが、視線が泳いでいる。しらを切る顔は、どこか得意げに見えた。まるで「バレてないよー」と言わんばかりの表情だ。怪しいなぁ…。絶対に美咲だ。
今に見てろよ、絶対仕返ししてやるからな……。俺は心の中で毒づいた。
朝食を終え、食器を流しに置くと、母親が「珍しいわね、昼間に外に出るなんて」と驚いた表情を浮かべた。引きこもってからの2年間、俺は昼間はほとんど外に出ず、夜に行動する生活をしていたので、朝から外に出ようとしていることに母親が驚くのも無理はない。自分でも、朝から外に出るのは久しぶりで、少し緊張したが、復讐に燃える情熱が自分を突き動かした。
「この後、コンビニにアイス買いに行ってくるわ」
俺はそう言い残し、玄関へ向かった。靴を履きながら、なんだかワクワクしている自分に気づく。たかがいたずらなのに、こんなに楽しい気持ちになるとは。後、今日の夢がすごい不思議だったのも、俺の気持ちを高揚させているのかもしれない。
今日の天気は晴れ。三月だというのに、風はまだ少し肌寒い。でも、陽射しは暖かくて、春の訪れを感じさせる。桜のつぼみも少しずつ膨らんでいるようだった。
朝に散歩をするのも悪くない。こんなすがすがしい気持ちなんだなと、自分の不摂生さに苦笑いしてしまう。
最寄り駅へ向かう道を少し歩くと、見慣れた小さなコンビニが見えてきた。
そのコンビニに近づいた時、遠目に見慣れた顔が視界に飛び込んできた。
「え……?」
店舗前の狭い駐車場で、男女4人組が何かを探している。男が2人、女が2人。皆、しゃがみこんだり、道路の隅を覗き込んだりしている。
朝から若者が何をしているのだろう。若者が集団でいるだけで威圧感があるのに、その上変な挙動をしているので、なおさら怖い。
コンビニ入りづらすぎるだろと心の中で毒づく。チラッともう一度若者の集団を視線が合わないよう細心の注意を払いながら見ると、その中に、見慣れたやたらガタイのいい男がいた。陽平だ。
思わず足を緩める。陽平とは小学校時代の同級生だ。中学校も一緒で、同じ野球部に所属していた。高校は別だったが、半年に一回くらいは遊んでいるし、道端でたまに会うこともある。
俺とタイプが異なるが、あっちは気にしない性格なので、俺も気にしないで接することのできる数少ない友達だった。
陽平だけなら、話しかけるのも全然やぶさかではないが、知らない若者がいるとなると話は別だ。なんとかバレずにコンビニでアイスを買わなければならない。
そう願いながら、そろりそろりと足を進めたその時だった。
「おーい!悠馬じゃん!」
陽平の明るく、しかし少し驚いた声が、静かな朝の住宅街に響き渡った。
「うわっ!」
ばれたか……。俺はびくっと肩を震わせ、思わず立ち止まった。隠れるには遅すぎた。陽平はにやりと笑いながらこちらに駆け寄ってくる。なんだその笑顔は怪しい。
その後ろから、他の3人も顔を上げた。
「ゆうま、お前が朝から外にいるなんて珍しいな!そして、ちょうどいいところに来たな!」
そう言って、陽平は俺の肩をバンバンと叩いた。なんだ、ちょうどいいところにって……。俺は背筋に汗が流れるのを感じた。これはなにか面倒ごとの予感な気がする。
「え!ゆうま?」
陽平の後ろから男が俺のことを呼ぶ。なぜ俺の名前を知っているんだろうと、そいつの顔を見ると、どこかで見たことがあるような顔をしていた。
「ひさしぶり~。小学校の卒業式以来だね。隣のクラスの健太だよ。覚えてる?」
と、その男は話す。健太?確かに小学校の隣のクラスにいた。偶に、鬼ごっこや、缶蹴りを一緒にした気もする。
健太は相変わらず背が高く、少し大人っぽくなった顔には真面目そうな眼鏡が乗っている。健太は昔から勉強ができて、しっかり者だった。今もきっと真面目に大学に通っているのだろう。
ということは、後の子たちも小学校の同級生なのだろうか?よく見ると、同じクラスだった女子の面影を感じる。
一人は背が高く、ボーイッシュな雰囲気の彩香。髪をショートカットにして、活発そうな印象は昔と変わらない。もう一人は、小柄で可愛らしい印象の夏美だ。彼女は昔から大人しくて、優しい子だった。
皆、俺よりずっと「大人」になっているように見えた。服装も髪型も、なんだか洗練されていて、大学生らしい雰囲気がある。それに比べて俺は、相変わらずジャージにTシャツという格好で、なんだか恥ずかしくなった。
「陽平…健太、彩香、夏美……久しぶり。何してるんだ、こんなところで?」
俺は普通のトーンで尋ねた。陽平とは時々会っているが、健太たちとは本当に久しぶりだった。彼らがこんな場所で地面を漁っているのが不思議で仕方なかった。
「いや、ナイス質問だな。それがさー、昨日、駅前の居酒屋で飲んでたんだけどさ、夏美が鍵落としちゃったらしくて。」
陽平が困ったように頭を掻く。夏美は申し訳なさそうに俯いていた。彼女の手には、鍵束に付けるようなチェーンだけがぶら下がっている。きっと大事な鍵だったのだろう。
「それで、朝からみんなで探しに来てんだよ。でも、全然見つからなくてさ……。」
健太が眉間にシワを寄せながら答えた。彩香も腕を組み、真剣な顔でアスファルトを見つめている。どうやら、彼らは大事な鍵を探しているようだった。皆で一生懸命になって探している姿が、なんだか懐かしかった。小学生の頃も、こうやって皆で何かを探したことがあったような気がする。
「もしかして、家の鍵とか?」
夏美が頷く。
「うん……。家には入れるんだけど、お母さんにすごい怒られちゃって……。新しい鍵作るのもお金かかるし……。」
彼女の声は、今にも泣き出しそうだった。夏美は昔から、なぜかよく怒られていた。そういう星のもとに生まれているのかもしれない。陽平がいいところにとか言っていたのは、こういうことだったのか。
予定があるからと断っても良さそうだが、さすがに良心が痛んだ。
「そっか……。俺も手伝うよ。手がかり、何かあるか?」
俺がそう言うと、陽平はにやりと笑い、他の友人たちは少し驚いた顔を見せた。普段はあまり積極的ではない俺が、自ら助けを申し出たからだろう。俺だって人並みには良心があるので、そんなに驚かないでほしい。ちょっと断ろうかと頭をよぎったはよぎったが……。
だが、その顔にはすぐに安堵と感謝の表情が浮かんだ。
「マジか!助かるわー!昨日の夜、このコンビニで水買ったりしたんだよな。それからあっちの電柱のところまで歩いて……」
陽平が昨夜の経路を説明し始めた。どうやら、コンビニから駅に向かう道で落としたらしい。鍵を探すのは根気のいる作業だ。俺たちは道路の両端に分かれて、ゆっくりと歩きながら地面を見つめた。
鍵を探していると、健太が突然思い出したように口を開いた。
「なんか小学生の頃もみんなで落とし物さがしたことあったよな。あの時何探してたんだっけ?」
「あー。たしかにあった!!何探してたんだっけ?」と彩香が賛同する。
「うーん。なんだったかな……?プリントとかなんか紙系だったような……。なんだっけ?あの時も悠馬、真剣に探してたよね。すごい覚えてる。」
夏美の言葉に、俺は首を傾げた。皆の記憶では、俺も一緒に何かを探していたらしい。でも、全く覚えていない。
「え、そんなことあったっけ?全然覚えてないや。」
俺には全く記憶がない。そんなことあっただろうか?最近、昔の記憶が曖昧になっている気がする。
「陽平は覚えてる?」
「いや、俺も覚えてないなー。でも、夏美がそう言うなら、あったんじゃないか?夏美は記憶力だけはすごいからな。」
陽平が笑いながら答える。
「記憶力だけって何よ!!」
と、夏美がプンプンとしている。
「でも、確かに悠馬って、落とし物とか探すの得意だったよね。集中力がすごかった。」
彩香が思い出したように言う。
「そうそう!一度集中すると、周りが見えなくなるくらい真剣だった。」
夏美も同調する。皆が俺のことをそんな風に覚えていてくれることが、なんだか嬉しかった。
そして、とても懐かしい気持ちになった。小学生のころ、このメンバーは下校班が同じで、よく一緒に帰ったり、遊んだりしていた。
思い出話に花を咲かせながら、俺たちは鍵を探し続けた。道路の隅、植え込みの中、側溝の近く、考えられる場所はすべて探した。でも、小さな鍵はどこにも見当たらない。
1時間ほど探し続けたが、結局鍵は見つからなかった。夏美は泣きそうな顔をしながら、「ごめんね、みんな…こんなに時間使わせちゃって…」と肩を落として帰路についた。そんなにお母さんが怖いのか……。でも、皆で探したことに意味があると思う。
「また今度、遊ぼうぜ!」
陽平が別れ際に言ってくれた。
「ああ、そうだな。」
俺も素直に答えた。久しぶりに友達と話して、なんだか心が軽くなった気がする。引きこもり生活で忘れかけていた、人とのつながりの温かさを思い出した。陽平とは時々会っているが、皆でこうして何かをするのは本当に久しぶりだった。
鍵探しのせいで結構遅くなってしまったが、コンビニで抹茶味とイチゴ味のカップアイスをしっかり買った。この中身を入れ替えれば、美咲への復讐ができる。
俺はにやにやしながら、玄関で靴を脱いだ。
「遅かったじゃない?どこ行ってたの?」
母親が心配そうに聞いてくる。
「なんか、小学校の頃の友達とばったり会って、鍵探すの手伝ってたんだ。」
「そう。あら、それは大変だったわね。でも、友達と会えて良かったじゃない。陽平くん以外とも会えたのね。」
母親はどこか安心した様子だった。陽平とは時々会っているが、他の友達とは本当に久しぶりだったから、母親も喜んでいるのだろう。
俺は自室に行き、まずイチゴアイスを食べた。甘酸っぱい味が口の中に広がって、なんだか懐かしい気持ちになった。そのあと、抹茶アイスをイチゴアイスのカップに移した。抹茶の苦味のある匂いが鼻につく。これを美咲が食べたら、きっとびっくりするだろう。
あとは昨日と同じ、俺の隠し場所にしまった。これで、美咲が夜中にアイスを食べようとしたら、抹茶味に出くわすはずだ。完璧な復讐計画だ。
夜、妹の部屋から小さな悲鳴が聞こえた。
**「うわぁ!まずっ!」**
聞こえてきたその声に、俺は布団の中でニヤリと笑った。美咲が抹茶アイスの餌食になった証拠だ。ざまーみろ。胸がスカッとした。
今日はいい夢が見れそうだ。友達にも会えたし、復讐も成功した。なんだか久しぶりに充実した一日だった。そう思うと、すぐに意識が深い闇へと閉じた。