夜風の証言者
夜の空気は、乾いていた。 風が街の隙間をすり抜けていくたびに、電線が微かに揺れ、どこかで犬が遠く吠えた。
その夜、岩田海斗はひとりで歩いていた。
家にはいたくなかった。
食器が割れる音。怒鳴り声。乾いた打音。 母の泣き声、テレビの音――何もかもが、耳に焼きついている。
玄関を閉めて家を出たのは、もう癖になっていた。
制服のまま、スマホも財布も持たず、ただスニーカーだけで歩く夜道。 今日もまた、どこかで時間が過ぎるのを待っていた。
そのときだった。
???「……海斗」
静かな声がした。
街灯の下。 そこに、澤野優太と東城遥が立っていた。
息を呑んだ。 海斗は反射的に身構えた。
そして、瞬間的に動いた。
――殴った。
優太の頬に拳が入る。乾いた音。
海斗「……お前、何してんだよ。」
だが、優太は何も言わない。 殴られたことすら、無視するように、そのまま立ち尽くしていた。
次の瞬間。
優太の手が、ポケットから何かを引き抜く。
刃だった。
海斗「っ……やめ……っ、まって、まってくれ……!」
海斗は背を向けようとするが、優太の動きは早かった。 刃が、腕に走る。 海斗が倒れる。
海斗「やだ……やだやだやだ! 聞いてくれよ!! 聞いてくれって……!!」
夜に響いたのは、取り乱した声だった。 息を切らし、涙を垂らし、泥にまみれて叫ぶ姿。 海斗は、泣いていた。
海斗「俺だって、好きでやったわけじゃないんだ……っ。 親が……ずっと、毎日殴ってきてさ、物壊して、鍵かけて……っ」
海斗「学校でだけは、“誰かより上”にいたかったんだよ……俺だって……!!」
遥は、その言葉を、黙って聞いていた。
風が吹いた。 その風の中で、遥はふと優太の腕に触れた。
遥「……やめて」
優太の動きが止まる。
海斗が、息をのむ。
海斗「……あ、ありが……」
言いかけたその言葉の上に、遥がかぶせた。
遥「話は、ちゃんと聞いたよ」
それは、ただの確認だった。
そして、次の一言。
遥「じゃあ――やっていいよ」
遥の手が、優太の前に伸びる。 それは制止ではなく、“許可”の合図だった。
優太は、静かに頷いた。
海斗が目を見開いたまま、口を開くよりも早く。
空気が、切られる。
声が途切れる。 夜がまた、ひとつ静かになる。
しばらくして。 遥がしゃがみこみ、海斗の制服の袖を整える。
遥「なんかさ、やっぱり謝られちゃうと、一瞬だけ迷うんだよね」
遥「でも、苦しかったからって、何しても許されるわけじゃないもんね」
優太は、無言で地面を掘る。 いつものように、淡々と、ただ作業として。
遥が小さく笑う。
遥「なんだかさ、こうやってひとりずつ消していくと、世界がきれいになってく気がする」
遥「まるで掃除だよね。いらないものを、ちゃんと片付けるっていうか」
優太は何も言わない。 ただ、その“いらないもの”を埋める。
月が、雲の隙間から一瞬だけ顔を出す。 まるで、証人のように。
遥が、ふと優太の肩に額を寄せた。
遥「ありがとう。ちゃんと、言うね。……私、あなたがいてくれて、本当によかった」
その声には、温度があった。 だからこそ、恐ろしいほど冷たく聞こえた。
ふたりは手を繋ぎ、帰路につく。 またひとつ、“重り”を落として。
そして、明日がくる。