深夜の誓い
夜の空気は、湿っていた。 昼間に降った雨の名残がアスファルトに残り、空には雲の膜がかかっていた。
その日の帰り道、ふたりは言葉を交わさなかった。
けれど、重ねた指先の温度だけはずっと変わらず、つながっていた。
遥「……今夜、やる?」
小さな声だった。 けれどその声に、優太は明確に頷いた。
優太の家に灯りがともる。
玄関を開けると、母の声が飛んできた。
母「どこ行ってたのよ。また先生から連絡あったわよ? 最近の成績どうなってるの、あんた」
続いて父の低い声。
父「顔見りゃわかる。アイツ、またなんかやらかしたんだろ。もう知らん」
それらは、いつもの“生活音”だった。 テレビの音、茶碗を置く音、文句の連なり。
けれど今夜、それらはどこか遠く、まるで他人の家庭のように聞こえた。
優太は無言のまま階段を上がる。 部屋の奥、机の引き出し。 そこに隠してあったもの――白いハンドタオル、黒い袋、そして冷たい金属の重み。
ひとつずつ取り出して、膝の上に並べる。
部屋の窓を開けると、遠くから夜風が入ってくる。 それと一緒に、スマートフォンが震えた。
遥《私は味方》
遥からだった。
画面の光に照らされながら、優太は何も返さず、ただ立ち上がる。
部屋を出て、廊下を歩く。 一歩ごとに、背中の空気が重くなる。
リビングに近づく。 ドアの前で、深呼吸を一度。 その手には、銀色の道具が握られていた。
――
優太の見た光景の中で、皿が落ちる音。 短い悲鳴。椅子が倒れる音。
そのすべてが、まるでテレビの向こう側のように、現実味を持たなかった。
しばらくして、優太は玄関を出た。
手には何も持っていない。 服には微かな汚れがあるが、雨に紛れて見えない。
人気のない夜道を歩く。
歩く先には、待っている人がいた。
東城遥は、町のはずれの小さな公園で、ブランコのチェーンを揺らしながら座っていた。
彼の姿を見つけると、ゆっくりと立ち上がる。
遥「……済んだの?」
目が笑っていないが、優太は少し笑いながら「うん」といった。
遥は歩み寄り、彼の手をそっと取る。
遥「……これで、あなたはもう、あの場所に縛られなくていい」
遥はにこりと微笑んで答えた。
遥「あなたがどこに行こうと、もう止める人は誰もいない。それに、私が全部、知ってるから」
彼女の指が、優太の手の甲を優しくなぞる。 その所作はまるで、誰かの祈りのように、丁寧で、繰り返される。
遥「……私は、あなたがこの世界で、生きていていいって、私が認めてあげれる」
遥は、そっと優太の頭を胸に抱き寄せた。 彼の硬くなった肩に、自分の腕を回す。
遥「大丈夫。もう誰も、あなたを見下したりしないよ。だって、これからは私がずっと隣にいるから」
ふたりは、夜の闇の中を歩き出す。
その背後に何が残ったのか、誰にも分からない。 でも、もう戻る気もなかった。
夜風がふたりの髪をなでていた。
罪も、後悔も、咎も――この夜には存在しない。 あるのはただ、「次へ進む意志」だけだった、