記憶よりも静かに
夜の風は、生ぬるかった。 土のにおい、汗のにおい、そして――血のにおい。
それらすべてを抱えたまま、ふたりは歩いていた。 舗装された道の上を、まるで何事もなかったように、普通の中学生のように。
遥「……手、洗わなきゃね」
遥が、ぽつりと言う。 どこか明るく、けれどどこか虚ろな声だった。
遥「爪の中まで、結構、入っちゃってるから」
優太は返事をしない。 ただ、横を歩き続けていた。
遥はふと、優太の手を見た。 指先にこびりついた黒ずんだ土。微かに震えている指。
(この子の中で、何かが壊れたのか、それとも――)
彼女は思う。 私が壊したのかもしれないと、
だが、その思考はすぐに消える。 代わりに、言葉が口から漏れた。
遥「私ね、小さい頃、世界ってもっと優しいと思ってた」
その独白に、優太は少しだけ目を伏せる。
遥「でもさ、誰かが苦しんでても、誰も気づかないし、誰も助けない。 見て見ぬふりばっか。教師も、生徒も。……私も、だった」
彼女の声が、夜に溶ける。 通り過ぎる車のヘッドライトが、一瞬だけふたりの顔を白く照らした。
遥「でも今は、優太くんがいるから――私、ちゃんと生きてる気がする」
遥の言葉に、優太はゆっくりと立ち止まる。
暗い道の真ん中で、ふたりだけの時間が流れる。
優太「……ぼくも……」
その声は、風のように小さかった。
優太「……はじめて……」
遥が顔を上げる。 優太は、俯いたまま拳を握りしめていた。
遥の胸が、ぎゅっと締めつけられた。 同時に、何かが確かにほどけていく音が、心の中でした。
(この子は、壊れてる。でも――)
(今の私は、その破片を全部集めて、抱きしめたいって思ってる)
遥はそっと手を伸ばし、優太の手を握った。 土でざらざらしたその手は、冷たくも温かくもなかった。
ただ、「そこにあった」。
遥「……じゃあさ、次は誰からにする?」
その問いかけは、あまりにも自然で、あまりにも優しかった。
優太は黙って、少しだけ笑った。 口元だけの、かすかな歪み。それでも、確かに笑みだった。
優太「……海斗」
遥「うん。わかった」
ふたりは再び歩き出した。 手を繋いだまま、街灯に照らされた歩道を。
遠く、猫の鳴き声がした。 その音さえ、どこか美しく思えるほどに、ふたりの心は澄んでいた。
それは狂気かもしれない。 でも――ふたりだけの正義だった。
誰も見ていなかった。 誰も知らなかった。
ただ、夜だけがすべてを見ていた。