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掃除  作者: ぬん
4/10

沈黙の証人

6月の終わり。梅雨はまだ明けない。 重たい雲が空を覆い、教室の窓から差し込む光も、どこかくすんで見えた。


澤野優太は、その日も静かに座っていた。 教室の最後列。窓際の席。 黒板の文字も、先生の声も、彼の頭の中には届かない。


代わりに響いていたのは、教室のノイズだった。

鉛筆が走る音、誰かが笑う声、机の脚が軋む音。 そして――意識しなくても、身体が記憶してしまった“気配”。


大翔「なあ、佐伯。澤野のリュック、ちょっと見てみね?」


三輪大翔の小さな声が、隣の席の佐伯凛音に届く。

凛音は笑う。 教科書を片付けながら、目線だけで頷く。


凛音「中に何が入ってるか、見てみたいよね〜。もしかして、ラブレターとか?」


大翔「は? あるわけねーだろ。きもっ」


凛音「だから見たいんじゃん」


くすくすと笑いながら、凛音は立ち上がり、優太の机の下にあるリュックに手を伸ばす。


凛音「うわ、なにこれ……うわ、ノートが……なんか、きもちわる」


開かれたリュックの中から、優太の記録ノートが取り出される。


ページをめくるたびに、手書きで綴られた“出来事の記録”が露わになる。


・5月24日 大翔:背中を小突く。痛み3/10


・6月2日 凛音:笑いながら「変な人」と発言。周囲笑う


・6月11日 海斗:「あいつってさ、喋れないんじゃなくて喋らないだけでしょ?」


無感情に書かれたそれらの言葉が、逆に教室の空気を張り詰めさせる。


大翔「おい、これ……お前、全部記録してんの?」


大翔が顔をしかめる。 凛音も少しだけ、気味悪そうな顔をした。


凛音「うわ……え、怖……なにこれ。ストーカーみたい」


大翔「まじかよ……おい、これさ、燃やす?」


凛音「え〜、さすがにやばくない?」


そう言いながらも、凛音はノートの角を折り始める。 その一枚一枚が、優太にとっては自分の唯一の言葉だった。


彼は声を上げなかった。 ただ机の下のリュックを、しっかりと握りしめた。


でも、立ち上がらなかった。 反抗しなかった。 何もできなかった。


その光景を――東城遥は見ていた。

窓側の席から、誰よりもはっきりと。 凛音がノートをめくる仕草も、言葉を発する表情も。


でも、足が動かなかった。


(やめて、って言えば……)


そう思って、唇が震える。 喉の奥に熱い何かがせり上がってくる。 でも声にならない。


(私も、怖いんだ)


もし声を上げたら、今度は自分が“記録される側”になる。 今の立ち位置を崩したくない。 誰にも見られたくない。


そして何より、自分が「何もしなかった」ということを、自分自身が知っているのがつらかった。


放課後。 教室はすっかり人が減っていた。

優太はひとり、机に残っていたノートを拾い上げる。 ページは破れ、角が折られ、一部は濡れていた。


ノートを開くと――中に、知らない文字があった。


《だれも、ほんとうの意味では味方になってくれない。》


震える手で、その一行を何度もなぞる。 それは、彼の言葉ではなかった。


誰かが、勝手に書き加えたのだ。 でもそれが誰なのかは、分かっていた。


彼の視線が、そっと教室の隅へ向く。


東城遥がいた。 椅子に座ったまま、何も言わずに、優太を見ていた。


優太は彼女を見返す。 何も言わない。でも、初めて、視線を合わせた。


その瞳の中に、遥は確かに**怒りと、悲しみと、諦めが混じった“人間の感情”**を見た気がした。


遥は、机の下で手を強く握った。


(こんなに近くにいるのに、私は、何もできない)


けれどその時、初めて気づいた。


――優太もまた、自分と同じように、何もできないまま、ずっとここにいたのだと。


だから彼女は、立ち上がった。


何をするか、まだ決まっていない。 でも、ここに“いる”ということを示すために。


それは、まだ何も始まっていない、しかし何かが始まりかけているという、静かな合図だった。


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