助けたくても
雨が降っていた。 朝からずっと、止む気配もなく、空は鈍い灰色で染められていた。
下駄箱の前、登校した生徒たちの足元が濡れたタイルに音を立てていた。 それでも、誰も傘を気に留めない。そこに一本だけ、無くなった傘があることにも。
優太の傘だった。
彼は黙って濡れた髪を絞り、体操服の入った袋から水が滴るのを見つめていた。 中身まで濡れている。制服も、ノートも。 誰かが、故意に放り投げたのだと分かっていた。
(今さら驚かない)
それでも、胸の奥のほうで何かが軋んでいた。 濡れたシャツが背中に張り付き、冷たさが皮膚の奥へと染みていく。
目の前を通り過ぎる生徒たちは、彼を見ない。 視界の端に映っても、そこに「存在する」と認識していないようだった。
誰も笑わない。誰も怒らない。 誰も、見ていないふりをして通り過ぎる。
……いや、一人だけ、立ち止まった影があった。
遥「……濡れてる」
東城遥だった。
優太のすぐ横にしゃがみこみ、濡れた袋にそっと触れる。
遥「あの、ハンカチじゃ足りないと思って……」
そう言って、遥は制服のポケットからタオルを取り出した。 少しだけほつれた端。柔軟剤の香りがほのかに漂ってくる。
「……これ、貸すね。拭いて」
優太は反応しなかった。 タオルを受け取らず、ただ濡れたままの手を膝に置いている。
遥「……ごめんね。私、昨日も見てただけで、何もできなかった」
遥の声が、わずかに震える。 自分でも気づかないうちに、心が溢れそうになっている。
(“助ける”って、何だろう)
(“傘を貸す”だけじゃ、足りないって知ってる) (でも――)
遥「それでも、濡れてるの見てるの、耐えられなかったから」
遥はそう言い終えると、ゆっくりとタオルを優太の膝の上に置いた。
優太はそれを見つめたまま、動かなかった。 けれど、その指先が――ほんのわずかに、タオルの端を握った。
指が震えていた。
昼休み。 誰もいない廊下。 遥は窓際に立ち、校庭を眺めていた。
外ではまだ雨が降っていた。 遠くに、傘を差した小学生が走っているのが見えた。
(あの子が、優太くんだったら)
そう思ってしまう。 助けられたかもしれない子供。 手を伸ばせば、濡れた手をつかめたかもしれないのに、今の私はもう遅すぎた。
でも、彼は今日、初めて自分からタオルを握った。
(それだけでも、すごいことだよね)
そんな自分勝手な言い訳を、心の中で何度も繰り返す。
けれど、本当は分かっていた。 彼はもう、壊れかけている。
助けようとするよりも、“壊れてしまったときに、寄り添えるか”――それが、遥にできる唯一のことだと。
放課後。 教室に残った生徒はもう数人しかいなかった。
優太はまた、いつものように机を拭いていた。 けれど今日だけは、机の端に畳まれたタオルが置かれたままだった。
優太「……ありがとう。貸してくれて」
遥は声を出す前に、一度深呼吸をした。 それでも、声はかすれていた。
優太は顔を上げなかったが、机の上で静かにタオルを手で押しつぶした。
遥は、それだけで満足だった。
雨がようやく止んだ。
夕方、傘も持たずに校門を出た優太と遥は、偶然同じ方向へと歩き出した。
お互いに何も言わない。
でも――水たまりを避ける足音が、確かに同じリズムだった。