言えない声
翌日。雨は止んだが、空はまだ薄く曇っていた。
優太はいつも通り、教室の一番後ろの席に着いていた。 開いたノートのページには、びっしりと細かい文字と記号が並んでいる。
誰にも読まれたくない内容――それは“記録”だった。 教室の音、誰が笑ったか、どこで何を言ったか。 すべてを、忘れないように、いや、記憶しないように文字にして閉じ込める。
大翔「おーい、澤野〜〜!」
まただった。 今日は三輪大翔が最初だった。
大翔「お前ってさ、前世は置物だったんじゃね? ほんっと動かねぇよなぁ〜」
笑いながら近づいてきた大翔は、優太の机をトントンと指で叩く。 爪の音。骨の音。響く。震える。
大翔「てかさー、話しかけてもスルーとか、普通に無礼じゃね? 先生だったらビンタ案件だよな?」
そう言って、横に立っていた佐伯凛音に笑いかけた。
凛音「うんうん、わかる〜。てか、しゃべらないのに学校来てる意味あるのかな?」
凛音は、完璧な笑顔でそう言った。
その笑顔は、クラスの誰にも疑問を持たせない。 むしろ「正しい冗談」として受け入れられていく。
凛音「でもまあ、ちょっと気の毒ではあるよね〜。家とか大丈夫なのかなぁ?」
何かを気遣うような口調。けれど、その言葉のトーンには、確実に嘲りが混ざっていた。
岩田海斗は、教室の後方で腕を組み、面倒そうに頬杖をついていた。
海斗「まぁ、障害とかあるらしいし。なんかそういうの、昔に話題になってたよね」
その言葉は、火を使わずに燃える毒だった。
事実として語るように見せかけて、情報を与えることで他人を誘導する。 それが海斗の得意技だった。
誰かの秘密を「事実」として喋れば、それはもうクラスの共通認識になる。 誰も真偽を確かめようとしないし、止めようともしない。
優太のノートのペンが、止まった。
遥はそのやりとりを、また見ていた。 見ているだけ。何も言えない。喉が詰まる。
(違うって思うなら、言えばいいのに) (でも、言ったら私も……)
彼女の心臓が速く鼓動する。 視線を逸らす。自分を守るように、机の端を握りしめる。
“正しい側”にいないということは、この教室では「敵」になるということだ。
クラスのルールは、誰が作ったわけでもないのに絶対だった。 明るく、うまく笑えて、空気を読めて、無害であること。
優太は、そのどれにも当てはまらなかった。
遥も、当てはまらないのだと気づいていた。 だから、同じ側に立つのが怖かった。
放課後。 静まり返った教室に、机を片付ける音が響く。
優太は自分の机を丁寧に拭いていた。 毎日同じ動作で、無言で、まるで儀式のように。
その背中に、誰かの視線を感じていた。
遥「……ねえ」
遥の声だった。
遥「ノート、いつもすごいね。文字、きれい」
優太は返事をしなかった。 でも、手の動きが一瞬だけ止まった。
遥「……なんか、変なこと言ってた人、今日もいたけど、私、ああいうの好きじゃないから……」
それは、謝罪にも、共感にもなっていない。 けれど、遥にとっては精一杯の“言葉”だった。
優太はやっぱり何も言わない。 けれど、今度はノートの端を閉じず、そっと机に置いたままにしていた。
遥はその中身をちらりと見た。
《6月14日 13:04:佐伯が笑う “優太くんって、見てると不安になるよね”》
《6月14日 13:16:三輪が背中を押す 肘が痛い》
《6月14日 13:20:岩田が“家やばいらしいよ”と発言 周囲3人笑う》
記録だ。 出来事を、冷たく、正確に、感情抜きで記している。 でも――それが、唯一の叫びなんだと、遥には分かった。
遥「……ねえ、私さ、正直、あんまりあのクラス好きじゃない」
優太は、また黙ったままだった。
でもその日、彼は教室を出る前に、一度だけ遥の方を振り向いた。
視線が交差した。 何かが、微かに動いた。
それは声にはならない。 だけど、確かに――言葉にならない声が、そこにはあった。