何も無かった。最初から
空は曇っていた。 何も降っていないのに、地面は濡れていた。
朝なのに、朝ではないような、そんな光。
その日、警察は静かに校舎へと入ってきた。 制服を着た大人たちが、何人も。 やがて、ストレッチャーが運ばれ、カメラを持った報道が門の外に群がった。
澤野優太は、驚くほど静かだった。
連行されるとき、手には手錠がかけられていたが、足取りは重くなかった。 顔には何の表情もなかった。
取り調べでも、ほとんど口を開かなかった。
名前、住所、そして「覚えていない」の繰り返し。
やがて精神鑑定が行われ、彼の診断結果が一枚の紙に記される。
それは彼の未来を決める鍵となり、同時に「処分」を軽く見せるための魔法の文句にもなった。
保護処分。 特別病棟。 閉ざされた施設の中で、優太はその後の季節を迎えることになる。
一方、その後を追われなかった人間がいた。
東城遥。
事件からわずか数週間後、彼女はふたたび登校を再開した。縮小された教室の中、遥は以前よりも落ち着いた様子で席に座っていた。
成績は上昇し、委員も任され、教師の信頼も厚い。
昼休みには友人と他愛ない話をし、廊下では軽く笑って挨拶する。
まるで、何もなかったかのように。
いや、最初から、何もなかったように。
だから、誰も気づかない。
遥が、手帳の端に一人ひとりの名前を書いては、静かに線を引いていったこと。 そのリストが、最後まで埋まった瞬間、満足そうに閉じられたこと。
彼女が、あの日「終わらせたい人間たち」を順に整理し、優太という媒介を使って一掃していったこと。
そして今、朝の教室で静かに笑っているその顔が―― あの日、彼の背中を見送ったときと、まったく同じだったこと。
優太のことを訊ねる者は、もういない。 彼の存在は、騒ぎと共に過去に押し流され、ただの「ひとつの事件」として記録に残った。
でも、遥は覚えている。
あの夜、手を繋いで歩いた道。 「やっていいよ」と微笑んだ瞬間。 抱きしめた体温と、耳元で震えた小さな息。
――それらすべてが、彼女にとっての“完璧な計画”の一部だった。
放課後の教室。
誰もいない窓辺に、遥がひとり座っている。 鞄の中から、小さな紙片を取り出す。
それは、古いスケジュール帳の切れ端。 その裏には、潰れた字で「ゆうたへ」とだけ書かれていた。
彼女はそれを、指先でくしゃ、と丸めてごみ箱に投げた。
遥「うん。もう、いらないね」
そう呟いて、窓の外を見上げる。
どこまでも晴れた空。 だけど、遥の心は曇っていなかった。
彼女の人生から、「嫌いなもの」はすべて消えたのだから。
そして今また、“いつもの日常”が始まろうとしていた。
――まるで、最初から、何も起きなかったかのように。
【完】




