向こうをのぞけ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
のぞく、というのはなんともスリルある行動と思わないかい、つぶらやくん。
別にえっちい意味ばかりとは限らん。じかに身体を突っ込むことができない小さなすき間、その様子を探ってみたいと思ったらのぞきこんでみる、というのは自然な動作だと思う。
しかし、それは自分の身の一部を、のぞこうとする空間へさらすということになる。つまり、目の部分だな。
視覚情報を処理するのに重要な部分。人体における臓器はどれも大切なものだが、私たちが特に大事だと自覚が湧きやすいものじゃないかな。
それを強引に使ってまで得られる情報は、果たして損か得か。
私の昔の話なのだけど、聞いてみないかい?
鍵穴、というものに私は無性に魅せられる時期があった。
ドアそのものに不思議を感じていたこともあるかもしれない。開いた瞬間、そこは部屋と廊下なり、外と家の中なり、全く異なる空間が先に広がる。これがものすごく不思議なことに思えたんだ。
たいていのドアは、手でつかめてしまうほどの厚さしかない。そのような薄っぺらいもので別次元を隔てられていることが、おおげさにいえば魔法だったんだ。
その別世界を垣間見られる、「のぞく」という行為は当時の私にとってはその魔法のほころびをつくがごとく、ドキドキするものだったんだよ。
私の実家は障子戸が比較的多めだった。私の使っていた部屋も、廊下に面する側は障子戸を採用していたよ。
障子は定期的に張り替えられるものの、私はそのたびに小さい針を使って穴を空けていたよ。「のぞき」をするためだ。
私の部屋は階段をのぼってから、すぐ右手にある。のぞいてみると廊下を歩く人以外にも、階段を上がってくる人の姿もとらえることができるんだ。それらを目当てにしなかったとしても、ただ家の中を眺めているだけでも私は胸を高鳴らせていた。
もしかしたら、ひょいとイレギュラーなものが現れるんじゃないかとね。開いてしまえば、一続きの世界になってしまうが、閉じている限り、そこは戸を隔てた別空間のまま。
違う世界のままならば、違う世界のものもそこに現れる。
無知、無経験ゆえの自信なり確信なりが、私の中にはあったんだよ。
そして、それはある夕飯前のことだった。
1階の台所から臭ってくるルーの匂いに、「今日はカレーかな」と思いながら、ふらふらと閉めきった障子戸へ寄っていく。
部屋を出たいわけじゃない。また外をのぞいてみたくなったんだ。
待ち受ける景色を10等分すると、下から廊下が2、階段が4、向かいの壁から天井近くにかけてが4といったところか。
戸一枚分という近さゆえ、廊下を通り過ぎる姿はほぼ一瞬しかとらえられない。そのぶん、階段から登ってくる姿はゆっくり見られる。段を踏んでくるぶん、ダッシュはしづらいし、なにより音で察せられる。
しかし、それではいつもと大差ない。何か面白いことが起こらないかなあ、と若き私はぼんやりのぞいていたのだ。
ところでこーちゃんは、閃輝暗点という症状を知っているだろうか?
脳の血管の拡大、縮小が視神経に影響を与えるもので、不意に目の中へ光を帯びた残像が現れ、その像がある点が見えづらくなってしまうのだ。
これ以上の医学的に詳しいことは、ここでは割愛する。そのような状態に陥った、ということが分かってもらえればオッケーだ。
私自身、すでにこれまでに何度か同じような症状にあっている。これが出ると読み物もスポーツもやるのが一気にしんどくなってね。休ませてもらうようにしていたが、こののぞきのときに起こるのは初めてだった。
――かんべんしろよ~。
と、目をごしごしこする私。
仕組み的に目が原因ではないから、このようなことをしても改善はされないのだが、いつもと違うのは、この輝かしい暗点が移動しているという点なんだ。
普段ならば、亀裂や模様を思わせるくらいの幅を取るのだが、その暗点ははっきりとピンポン玉くらいの形と大きさで、階段の上をのぼってくるんだ。いや、浮かんでいるといっていいか?
待ち望んだ不思議ではあるが、私の中からは高揚感がすっかり失せている。
怖い、と思った。しかし、目を離すのはもっと恐ろしい。
どのようなアクションを起こすのか、一部始終を見届けなくては。そういう強迫観念におされて、逃げ出せなかったよ。
階段をあがりきり、一瞬だけ視界から消えた暗点だが……すぐに廊下に現れて立ちふさがった。目の前いっぱいに。
つまり向こうも、私をピンポイントでのぞいてきたんだ。障子にわずかに空いたすき間に、ね。
その直後の、目が焼けるかと思う強い光が、意識が飛ぶ前に私が見た最後の光景だったんだ。
夕飯ができ、母親に起こされた私だが、のぞいていた左目はほぼ視界ゼロ。例のフラッシュのせいかと思ったが、日をまたいでも回復する様子は見えなかった。
今でも、左目の視力はほぼないままだ。あのときの暗点、正体は分からないが本当に別の世界からのものだったのかもしれない。
あのはっきりしない姿はあいつ自身のものか、それとも私の脳がとっさに作った防護策だったのかは、わからないけどね。