8.忘れてたけど、私は任務中
ようやく、入学準備がすべて整った。
制服も仕上がり、靴もぴったり、通学用バッグの色も私好みに調整済み。校章付きのリボンなんて、皇女である私のために特注で作られたらしい。
これが、皇女の力というやつか……。
とにもかくにも、すべてが完了した今、私の気分はらんらんである。
「これで明日からの学園生活もバッチリね!やったわ!」
鏡に向かってくるりとターンして、ふわっとスカートを揺らしてみる。
いい。完璧。今日の私は間違いなく勝者。
……だったのだが。
ふと、何かが引っかかった。
――あれ? 私、なんで東亜に来たんだっけ?
「…………」
鏡の中の自分が、急に虚無の表情になった。
――そうだ。人探しだ。
この東亜のどこかにいる、謎のブロンド美女を探すという、国家的極秘任務を仰せつかっていたのだった。
「完全に、忘れてた……!」
頭を抱える。いや、忘れるな私。皇女としてどうなのよ。
慌てて、私は帝都中心部にある在東亜アカンサス帝国大使館へ向かった。
大使館地下の情報分析室。防音結界の張られた空間に、魔導式スクリーンが淡く光を灯している。
「改めまして、エウスタティオス・マナリディス。帝国諜報部の部長兼東亜分室長にございます」
目の前に立つその男は、背筋の伸びた中年の軍人。灰色の瞳と白髪交じりの髪、無駄のない所作からして、明らかに只者ではない。
「カテリーナ・ノタラスです。遅ればせながら、任務状況のブリーフィングをお願いします」
「かしこまりました、殿下」
マナリディスは魔導板に手をかざすと、帝都全域の地図がスクリーンに浮かび上がった。
「まず、目的の対象人物についてですが……現在のところ、我々の側でも有効な手がかりは得られておりません」
「やっぱり……」
「ただし、いくつか気になる事象が確認されております」
マナリディスは操作を続け、地図を一点にズームする。そこは、神田区。
「三ヶ月前、この神田区で、極めて強大な魔力収束反応が観測されました。帝国の分類で言う第5位階レベルのものです」
「第5 位階って……都市消滅規模、ですわよね?」
「はい、ただし実際には爆発などの痕跡はなく、魔力の性質は現在も不明です……通常の魔法発動とは一線を画す何かが起きたのでしょうが……」
「何かが起きたけど、それが何だったかは誰にもわからない」
「また、近頃、東亜国内で魔女教団と呼ばれる非合法集団の活動が急激に増加しております」
「魔女教団……?」
「古代魔術と信仰儀式を融合させた、いわば魔導カルトです。中には魂の定着術のような禁術に触れるような儀式を行っている者も存在します。東亜魔法省からは現在、監視対象に指定されております」
魂の定着術。あまりに意味深な単語たち。偶然じゃない。たぶん、私が東亜に来た理由とも、どこかで繋がっている。
「彼らの拠点は?」
「いくつかの拠点跡は割り出しましたが、現在は潜伏中。特に、神田区での魔力反応の直後から、教団の幹部と思しき人物が東京近郊で活動していたという証言もあります」
「……了解です。今後は神田区周辺と、教団の追跡に注力を」
私がそう言ってスクリーンから目を離すと、ふと横でネストルが妙に静かなのに気づいた。
いつもならすぐに茶々を入れてくるのに、なぜか黙りこくっている。
彼の視線の先を追うと、机の上に置かれていたあの――ブロンドの美女の写真をじっと見つめていた。
真剣な眼差し。冗談抜きの表情。これは珍しい。
「……なに? 何か気づいたの?」
私が問いかけると、ネストルは少し間を置いてから、まるで深遠な真理にたどり着いたかのような顔で答えた。
「……殿下、ドレス越しでもここまで主張してくる胸とか……そりゃあ、エロいわけですよ。殿下もなかなかだけど、これは別格……柔らかそうだ」
その場にいた全員の時間が止まった。
ステファノス諜報部長は、しばらく無言のままモノクルの位置を直した。目元の笑みは消えていた。
ドリスは、心底うんざりした顔をしている。
かくいう私は、優雅に椅子から立ち上がった。
微笑をたたえたまま、背筋を伸ばし、声のトーンを一段だけ落とす。
「ネストル・パパス、すこーし確認しておきたいのだけれど――」
「はっ、はいっ……!」
彼は反射的に背筋を伸ばした。まるで死刑宣告を待つ罪人のように。
「この場は、帝国皇女である私と、帝国諜報部の高官、そして秘書官らが、国家的任務のために情報を交わす正式な席でしたわよね?」
「は、はい……」
「そのような席で、あなたは女性の胸の柔らかさについて語ったのよね?」
「……ええと、それは……形状から見える分析と申しますか……っ!」
私は微笑みを浮かべたまま、机の上に置かれていた報告書の角で、彼の指先を軽く――しかし絶妙な角度で小突いた。ネストルが軽く息を呑む。
「ふふっ、ご安心なさい、ネストル……帝国の憲法は言論の自由を保証しているけど、その上には皇族憲章があるの……ほら、皇族専用の秘密警察のアドレスはここにありますのよ……」
「う……ううっ、横暴だ……」
彼が項垂れるのをよそに、私は優雅に椅子へ戻った。
ステファノス部長が、無言のまま報告資料を再び開き、場を仕切り直そうとする気配。
その横で、ドリスがごく小さく、もう死刑でいいのではと呟いたのが、はっきり聞こえた。
私は書類を整えながら、小さくため息をついた。
ネストル・パパス。
最初に出会ったときの彼は、本当に完璧だった。
毅然として礼儀正しく、迅速かつ的確で、まさに皇女の右腕と呼ぶに相応しい人物だったはずなのに。
それが今では、胸の感想をドヤ顔で語る男になってしまった。
チャラ男としての面白え男感もなくなってしまった。
「……私が最初から最後まで皇女らしくしていれば、彼もちゃんと真面目だったのかしらね」
ふと漏れた自問に、誰も答える者はいなかった。
私はそっと視線を伏せ、ひとつ深く、品よくため息をついた。
「ほんと、皇女の威厳って……なんなのかしら」