7.入学準備
歓迎行事もすべて終え、これでようやく休める――と思った私がバカだった。
次に押し寄せてきたのは、入学準備という名の新たなイベントラッシュである。
制服の採寸、革靴のフィッティング、魔法具の登録、文房具の支給申請、校章付きリボンの試着。
庶民の学生なら買って終わりなものも、皇女となるとひとつひとつに特別対応が加わる。
そのぶん、手間も時間もかかる。
そして今、私は制服の仮縫い採寸のため、脱ぎ着しやすいインナー姿で鏡の前に立っていた。
もちろん、周囲にいるのは女性スタッフのみで、男性立ち入り禁止状態である。
なのに。
「おーい、殿下、次のスケジュールなんですけどぉ――って、あっ」
ネストルが、ノックなしでドアを開けた。
瞬間、室内の空気が凍りつく。
私も凍った。
ネストルは、凍らなかった。
彼は、じっと見た。
完全に、じっと見ていた。
私のインナー姿を。上から下まで。たっぷり時間をかけて。
「なるほど……これが皇女様の体つきか……」
「出てけぇぇぇぇえええええええええッ!!」
私は手近なハンガーを掴み、それを勢いよくネストルに投げつけた。
見事に額にヒット。鈍い音が響く。
「ちょっ、ちょっと見えただけだから!」
「ちょっとじゃない!今のは全部だった!記憶から消せ!今すぐ!魔法で!」
「いや、もう魔法で消したとて網膜に焼きつい――」
「この変態ぃぃぃいい!!」
全力でクッションを投げつけ、続けてドアを叩き閉めた。
頭から湯気が出そうな羞恥。皇女の尊厳は、今日またひとつ失われた。
午後。私は百貨店に向かう車の後部座席で、気が重くなっていた。
窓の外には、東亜の街並み。
休日を楽しむ人々の姿が流れていく。
けれど、私の脳内にはひたすら一つのワードがぐるぐると回っていた。
――下着。
午後は私的な買い物の時間をもらっていた。
必要なものはいくつかあるけれど、中でも最大の課題が私用の下着だ。
いわゆる日常使い用。派手でも豪華でもない、ごく普通の、でも自分の好みに合ったものがほしい。
しかし問題がある。
私は、パンティ姫である。
この不名誉な通り名を、スポーツ紙と週刊誌で報道された身として、下着売場に足を踏み入れた日には――何を言われるか、いや、何を撮られるか分かったものじゃない。
スキャンダルの種を自ら水やりに行くなど、皇族としてあるまじき行為である。
だから私は、できるだけ人目を避けて、百貨店の最上階にある高級フロアの下着売場へと、ひっそり向かおうとしていた。
車を何台も乗り換えて、尾行を幕徹底ぶりである。
「で、殿下。なんで自分で買うんでしたっけ?」
ネストルが、運転席の後ろからひょいっと顔を覗かせてきた。
「自分で選び、自分で触るからこそ……」
「パンティ選ぶ皇女ってだけでニュースになりそうですね」
「それ以上しゃべったら、その口を魔法で封じるから」
ネストルは肩をすくめて引き下がったが、口元が明らかに笑っていた。
絶対に何か企んでいる。
「殿下、ひとつ、よろしいでしょうか」
隣に座っていたドリスが、静かに口を開いた。
今日が勤務初日となる新任女性秘書官――ドリス・パパドプロス。
どうやらインフルエンザで出勤が遅れていたらしい。この世界にも、インフルエンザは存在する。
気品に満ち、態度は誠実。間違いなく優秀な人材である。
「殿下は、下着売場に立ち入ることを懸念されていると拝察します」
「……まあ、ええ。できれば出入りしたくないわね。写真撮られたら、また翌朝の新聞が地獄絵図よ」
「でしたら、外商をご利用になるのが最善かと存じます」
「……外商?」
「百貨店には外商部があります。ご要望の品を伺い、殿下の専属スタッフがサイズと好みに合わせて商品を取り寄せ、ご自室にてご確認いただく形式です。殿下が売場に立ち入る必要は一切ございません」
「完全に失念してた、制服の採寸も屋敷でしていたし、わざわざ下着如きで百貨店に行く必要なかったんじゃ……最初に言ってほしかったわ……」
思わず頭を抱えたくなった。
そんな便利なシステムがあるなら、最初からそれでよかったのに。
だが、すぐ隣から、ニヤニヤした顔でネストルが口を挟む。
「いやぁ、殿下が『自分で買う』って言うから、あえて黙ってたんですよ」
「……何よ?」
「だってほら、また変な記者に激写されて、面白い記事になるかなって。『パンティ姫、ついに自ら補充に動く!』とか、見出しを想像するだけで……」
私は一瞬、絶句した。
次の瞬間、手に持っていたバッグがネストルの側頭部を直撃した。
「この愚か者ッ!皇女の威厳をなんだと思っているのよッ!!」
「ぐっ……で、でも!面白かったら記事スクラップしてアルバムに――あっ、ドリスさん助けて痛いっ」
「この人は女の敵なので……ご自由にどうぞ、殿下」
冷静に言いながら、ドリスは窓の外へ視線を戻す。
この人、絶対に怒らせちゃいけないタイプだ。
私はネストルを睨みながら、大きく深呼吸した。
「ネストル?」
「は、はい、なんでしょう、殿下?」
「次また勝手に何か見たり言ったりしたら、問答無用でシンシア姉様に引き渡すから」
第3皇女、シンシア。帝室内でも群を抜いて恐れられるお姉様だ。
何度かパーティーで顔を合わせたが……冷たい目を向けられるだけで胃が痛くなる。
ネストルが同じことを彼女にやったなら――良くて即日解雇、悪ければその場で手打ち。確実である。
「ひ、ひぃぃぃっ!全力で慎みます!」
今度は、心の底から怯えたように背筋を伸ばした。
窓の外に、百貨店の建物が見えてきた。
さて、何買おう。