9.挑む者、受ける者
それからというもの、磨瑚から藍岳に対する絡み方が、少し毛色の違うものになってきた。
彼女は依然として大勢の友人らと過ごす時間を大切にしている様だが、時折合間を見つけては、不意に近づいてきて藍岳を驚かせることが多くなってきた。
特に多いのが、休み時間などにわざわざ椅子を寄せてきて、藍岳のすぐ傍らに座っているというケース。
何をどうこうする訳でもなく、本当にただ間近で座って、横から覗き込んでくるだけだった。
そういう時は大体、藍岳は自由帳に落書きしているか、イラスト制作に役立ちそうな書籍を読んでいる。
最初のうちは手元に集中しているのだが、横から爽やかなフローラルの香水が漂ってくる為、いつの間にか磨瑚がすぐ隣に座っていることにそこで初めて気づくということが何度もあった。
その都度、藍岳は慌てて上体を仰け反らせて逃げようとするものの、反対側は窓で逃げ道が塞がれてしまっている為、毎度の如く袋の鼠状態だった。
「な、何ですか……びっくりするじゃないですか」
「あっと、御免ね……何してるのかなぁって思って」
こういうやり取りが、もう結構な頻度で繰り返されている。
藍岳は動揺を悟られまいと必死にポーカーフェイスを作りながら、ああそうですかと短く答えるのみ。
(か、勘違いすんなよ……このひとが興味あんのは絵描きのRyuや。雪灘藍岳には、これっぽっちも意識は向いとらんのやからな……)
一体何度、己にそういい聞かせたことか。
磨瑚が嬉しい嬉しいとはしゃいでいたのは、プロイラストレーターRyuとの繋がりが出来たことに対してであって、クラスメイトの藍岳などまるで眼中には無い筈だ。
そこをはき違えると、絶対事故を起こす。
こうして彼女が親しげに身を寄せてきてくれるのは内心、滅茶苦茶嬉しい。だがそれは好意から出ているものではなく、Ryuと個人的に繋がることが出来た高揚感から来ているに過ぎない。
である以上、磨瑚からの接近に対しては全てRyuとして対処しなければならない。
(このひとへの応対は、全部仕事や。俺の個人的な感情は一切捨てなあかん)
そうして、己を律することにした。
慣れるまでには多少の時間を要するだろうが、兎に角それで乗り切るしかない。
だが、正直いって辛い。
好きな相手に己の気持ちを告げることが憚られる上に、その相手に対しては塩対応を取ることも出来ない。
ほとんど生殺しに近い状態といえよう。
(これやったら、京都で虐められとった時の方がまだ気ぃ楽やったかも知れんな……)
あの時は露骨に敵意を剥き出しにすることが出来た。
しかし、今は出来ない。出来る筈も無い。
(あかん……余計なことは考えんな。このひとの前では俺はRyuや。雪灘藍岳は居らんのや)
今、すぐ隣から磨瑚が藍岳の手元を覗き込んでいる。その柔らかなウェーブヘアが、藍岳の肩に僅かに触れていた。もうそれだけで心臓が異様に速く脈打っている。
藍岳は大きく息を吐き出してから、背筋をすっと伸ばした。
薙楽法忍道の自己暗示術を行使した。敵を殺める時、相手の命を奪うという精神的負担を一時的に消し去る為の技法だ。
それをまさか、好きな女性への気持ちを殺す為に使うことになろうとは思っても見なかったが。
あの忌まわしい暗殺拳の修練の日々は地獄であり、黒歴史そのものではあったが、この時ばかりは少しだけ感謝したい気分だった。
◆ ◇ ◆
二学期が始まって、少しばかり日数が経過した頃、再来月に迫った学園祭の出し物を決めるホームルームが開催された。
まずはクラスから1-B運営担当委員を男女一名ずつ選出し、その後で何をやるのかを決める。
学級委員がまず、立候補を募った。運営担当委員の仕事は予想外に多く、最初は誰もやりたがろうとはしなかった。
特に体育系部活に精を出している生徒は端からやる気が無く、担任の四方教諭や学級委員のふたりも、帰宅部或いは文化系クラブで比較的時間に余裕のある者から選ぼうという方針を打ち出してきた。
(う……拙いな。俺まんま条件当てはまるがな)
窓の外を眺めつつも、ホームルームの流れ自体はしっかり耳で聞いていた藍岳。
イラストレーターの仕事は大体休日や夜に着手することが多いから、時間はあるといえば、ある。
が、己のコミュニケーション能力が極端に欠如していることを自覚している藍岳としては、出来ればこういう役回りは避けたい。
それこそ、誰とでも簡単に接する陽キャ連中に任せておけば良い。
更にいえば、クラス内でもそれなりに人気のある人物ならば調整役として大いにその力を発揮することが出来るだろう。
そう、例えば磨瑚の様な――。
「はーい、んじゃ、あたしやろっかな」
藍岳は思わず、隣の席に顔を向けた。
磨瑚が元気な笑顔で右手を大きく挙げていた。
「あれ、磨瑚っち。バイト大丈夫なん?」
由佳が問いかけると、磨瑚は問題無いとかぶりを振った。元々不定期なシフトだから、融通は効くということらしい。
そして女子からの立候補は他からは出なかった為、まずは磨瑚が女子の運営担当委員として決定した。
問題は男子である。
磨瑚が女子側の運営担当委員に就任したことで、それまで全く見向きもしていなかった男子連中が急に色めき立ち始めた。
(いやまぁ、そらそうなるわな)
何人ものイケメン達が次々と手を挙げた。
彼らは本気で運営担当委員としての仕事をこなしたいというよりも、単純に磨瑚とふたりで居られる口実が欲しいだけなのだろう。
しかしそれでも、居ないよりはマシなのかも知れない。
そんなことを考えながら再び藍岳が窓の外に視線を流すと、教壇上に立った磨瑚が、少し落ち着けとばかりに手を挙げていたイケメン連中をなだめにかかった。
「えっとね……じゃあまず、あたしの希望をいわせて貰うね。ぶっちゃけ、ちゃんと仕事出来るひとがイイ」
すると、それまで賑わっていた教室内が妙に静まり返った。
「あたしね、こういうの結構真面目にやりたいひとなんだよね。だから遊び半分でとか、中途半端な気分でやるつもりは全然無いから。めっちゃ気合入れて頑張るから」
だから、本気で取り組めるひとでなければお断りだ、と磨瑚はずばりといい切った。
「もしテキトーにやってるってのが分かったら、途中ででも他のひとに代わって貰おうと思うんだけど、それでもやりたいってひと、居る?」
素晴らしい心意気だった。
アルバイトとはいえども、責任を持って仕事に当たり、報酬を得ている者ならではの発想だろう。
教室内は相変わらず、静まり返っている。磨瑚の気合に誰もが困惑しているといった空気感だった。
しかし藍岳だけは違った。彼女の決意に、ひとりの職人として応えてやりたいと思った。
そして――藍岳は我知らず、手を挙げていた。
その瞬間、磨瑚の表情がぱぁっと明るくなった。
「雪灘君……やってくれる?」
「その挑戦、お受けしましょう。いっときますけど、俺も仕事には厳しい方ですよ」
直後、教室内が一気にざわめき始めた。