7.美女、尊死
カフェ『山崎堂』でのティータイムを終えた五人は、ここで一旦お開きにすることとなった。
「じゃ、あたしこっちだから」
「おー、お疲れー」
磨瑚は藍岳と同じ方角だからということで、途中まで一緒に肩を並べる格好となった訳だが、その道中、不意に磨瑚がスマートフォンを取り出して藍岳の目の前に差し出してきた。
「ね、雪灘君。LINE、やってる?」
「まぁ、一応は」
こうしてわざわざ差し出してきたということは、ID交換に応じろということなのだろうか。
藍岳は表面上は無感動を装っていたが、内心は心臓がバクバクだった。これ程の緊張、薙楽法忍道の奥義修練以来ではないだろうか。
あの時は本当に生きるか死ぬかの瀬戸際だったが、磨瑚からのID交換の申し入れも、それに近しい緊張感を強いられている。
「あー、IDですか……はい、まぁ、別に良いですけど」
嬉しくて堪らないという本音を悟られてはならぬと必死に表情を硬くして塩対応に徹した藍岳だったが、自身のスマートフォンを取り出す際には微妙に手が震えしまい、どうしたものかと内心で頭を抱えた。
兎に角、冷静に、冷静に――そんなことばかりに神経を集中させていたものだから、藍岳はマルチユーザーでのID切り替えをすっかり忘れたまま、何の気無しに交換に応じてしまった。
「わぁ~い、やったね。これであたしも雪灘君の……」
と、そこまでいいかけて、磨瑚はぴたっと動きが止まってしまった。
その表情は嬉しさと驚きが微妙に入り混じった、極めて複雑な感情に彩られていた。
そして彼女は、何ともいえない微妙な表情で藍岳に視線を返してきた。
「え……い、良いの? これ、マジで良いの?」
「いや別に……どうせただのIDですし」
何をそんなに驚く必要があるのかと逆に訝しんだ藍岳だが、何とかこの場は乗り切った。手の震えも磨瑚に悟られずに済んだ様だ。
ともあれ、これ以上下手に言葉を交わすと、どんなボロを出してしまうのか分かったものではない。
藍岳はスマートフォンをポケットに突っ込みながら、それ以降は極力会話を控えつつ再び歩を進め始めた。
一方の磨瑚は、ID交換を終えてからはすっかりひとが変わった様に全身がかちこちに固まっており、歩く仕草が妙にぎこちない。
何故そこまで不自然な態度になるのだろうか。
矢張り、こんな根暗男とID交換などをしてしまったことに後悔しているのだろうか。しかしそれならそれで後で削除するなり、ブロックするなりしてしまえば良い。
(まぁ……どうせその場の勢いで交換しよとかいうてしもただけやろ……いざ交換してみたら、やっぱりやめときゃ良かったってな感じで後悔したんやろうな)
それが普通の反応だ。
磨瑚ぐらいの美人でクラス中の人気者にもなれば、藍岳の如き陰気者と連絡を取り合うなど、そもそもがおかしい話なのだ。
彼女との縁は、最初から無かったのだ。
藍岳は内心で己を自嘲しつつ、駅前で磨瑚と分かれた。
これでもう、明日からは今までと同じぼっち生活の復活だろう。
折角片思いの相手と少しだけ距離が縮まったと喜んでみたものの、結局それは彼女の一時的な気の迷いに過ぎなかったのだ。
自分には、暗いぼっち生活がお似合いだ。
(俺が日の目を見れるのは、絵の世界でひっそりと活動しとる時だけや。こんな現実世界にまで、夢なんて見たらあかんてこっちゃな)
そんなことを考えながら、藍岳はひとり暮らしのマンションへと歩を急がせた。
◆ ◇ ◆
その夜、磨瑚はベッドの上でひとりにやにやしていた。
最初は何かの間違いではないのかと、己の目を疑った。しかし、このIDは間違い無く、山崎堂からの帰り道に藍岳から交換して貰ったアカウントだった。
そのID名には、Ryuの三文字がしっかりと刻まれていた。
(こ、これって絶対そうだよね……神絵師Ryu様として、あたしとID交換してくれたってことだよね!)
もう興奮が止まらなかった。
スマートフォンを手にしたまま、ベッドの上を端から端まで何往復もしながらゴロゴロと盛大に転がりまくってしまった。
心の中で、きゃあきゃあと歓声が沸いてしまうのが止まらない。
まさかこんなところで、こんな奇跡が待っていたなんて、本当に信じられなかった。
たまたま隣の席になった同級生が、敬愛してやまない超人気イラストレーターだっただなんて、一体誰が信じてくれるだろうか。
(Ryu様……Ryu様……あぁ~! もう無理無理無理無理! マジ泣きそ~!)
プロフィール画面に設定されているイラストを見るだけで、もう胸がときめいてしまって心の声がダダ漏れになってしまいそうだった。
遂には嬉しさの余り、スマートフォンの画面に何度も何度もちゅっちゅちゅっちゅとキスをしまくる有様だった。
(えー! だってだって、あのRyu様だよ? こんなの、信じられる~?)
と、そんな興奮の最中にふと冷静になった。
IDを交換した以上、メッセージのやり取りだって可能なのだ。
今からでも、何か送ってみようか。しかし相手は、あの神絵師Ryuだ。変なメッセージを送ってドン引きされたら、どうしよう。
そんなことを考えていると、不意にあっちの方から新着メッセージが飛んできた。
「今日はありがとうございました。とても良い雰囲気のカフェですね。気に入ったので、今度はひとりで行ってみようかなって思います」
その一文を見た瞬間、磨瑚は意識が飛びそうになった。それも、嬉しさの余り。
(あぁ……尊死……)
そのまま興奮気味に、ばったりとベッドの上に突っ伏してしまった。