5.黒歴史の京都
古式殺闘術『薙楽法忍道』は、日本国政府内閣官房が国策のひとつとして極秘裏に技術継承を推し進めている暗殺術であり、殺人術である。
同じ系統に我天月心流と呼ばれる古式殺闘術が存在するが、これらの二大流派は政府要職や経済界要人を守る為に、遥か古来より連綿と受け継がれてきたという歴史がある。
薙楽法忍道或いは我天月心流を極めた戦士はこれまでに数多く輩出されているが、中でも特に優れた者は内閣官房直属護衛士としての任を与えられ、政府中枢の奥深くにまでその存在を留め置くことが出来る。
藍岳はこれら二大流派のうちの一方、薙楽法忍道を継承する雪灘家の傍流の子として生を受けた。
彼の技量は本家の継承者をも凌駕するといわれ、その才能は本家の血筋から恐れられた。
もしも仮に、本家の嫡出子に有望な後継者候補が現れなければ、傍流の末端の子に過ぎない藍岳が薙楽法忍道の正統継承者として選ばれることになる。
この事態を危惧した雪灘宗家は、藍岳に薙楽法忍道を習得させる一方で、彼を徹底的に差別した。
彼はあくまでも本家に一大事が生じた時のスペアに過ぎず、余程のことが無い限りは決して日の目を見ることは無いと教え込まれた。
幼少の頃から藍岳は苛め抜かれ、いびり倒され、ひととしての扱いをほとんど受けたことが無かった。
いつしか藍岳は、人間そのものを疎ましく感じる様になり、いつかこの手で本家の連中を皆殺しにしてやろうなどと考えるに至っていた。
(薙楽法も、本家も、分家も、そんなんもうどうでもエエわ……)
しかし藍岳が中学生の時に、大きな転機が訪れた。
内閣官房付特殊人事調整担当の小堺直樹という人物が、雪灘家の宗家と分家の垣根を一切廃するという決定を下したのである。
これによって藍岳は予備候補ではなく、本格的な継承候補としての道が開かれたのだが、しかし藍岳は敢えてその資格を放棄した。
それまでに彼が受けてきた数多くの非人道的な扱いが藍岳の心に蓋をしてしまい、薙楽法忍道そのものに相当な嫌悪感を抱くに至っていたからだ。
しかし同時に彼は、ひとつの光明を見出していた。
絵画への道である。
薙楽法忍道は暗殺術である為、抹殺対象の身辺に近づく方法として様々な職人技術を習得する。その中でも藍岳は特に、絵の才能を大いに伸ばしてきた。
彼は兎に角、描くという行為に魅了され、ひたむきにその技術を磨き続けた。
そして中学三年生の頃に、その才能が花開いた。
彼はイラストレーターRyuとしてアマチュアからそのキャリアをスタートさせ、そして見る見るうちにその頭角を現していったのである。
(俺の手には、暗殺拳の血生臭い歴史が染みついてしもうとるけど……もうあんな世界には戻りとうない)
中学卒業まで、雪灘家の本家と分家が置かれている京都で死の訓練に耐え続けてきた毎日。
そんな不遇な生活とも、もうおさらばだ。
東京に生活の拠点を移し、今後は日の当たる世界で生きてゆく。
それが藍岳が新たに据えた人生の目標であった。
◆ ◇ ◆
過去の忌まわしい記憶を脳裏に浮かべながら、藍岳は一心不乱にアークプリティナイトの登場キャラクター、ミャーナイトのイラストをアンケート用紙の裏に描き込んでいた。
プロとしての納品物ではなく、飽くまでも個人の落書きとして筆を進めているこの時間は、ほんの息抜きのつもりだった。
ところがつい、いつもの癖でRyuとしてのサインを書き加えてしまった。
ここでふっと我に返った。
(おっと、あかんあかん……こんなん残したら後でエラいことになる)
藍岳は既に書き記してしまったサインに対し、慌ててシャーペンの先を何度も左右に走らせて塗りつぶした。これだけ黒く塗ってしまえば、もう分からないだろう。
そうして安堵の吐息を漏らしながら面を上げた時、思わず内心でぎょっとなってしまった。
磨瑚が、藍岳の手元にじぃっと視線を落としていたのである。
(まさか……見られたか?)
血の気が引く思いで、藍岳は磨瑚の反応を静かに伺った。
磨瑚は驚いた様子で藍岳の手元を凝視し、次いで、その完璧な程の美貌を僅かに上向けて藍岳と視線を交差させた。
その瞳に、愕然とした色が滲んでいる。この感情は間違い無く、Ryuが何者であるのかを知っている反応だった。
そういえば先程まで彼女は、アークプリティナイトをプレイしているだの、課金までして遊んでいるだのと語っていた様な気がする。
そして藍岳はRyuとして、そのアークプリティナイトに幾つかのイラストを納品していた。それらのイラストには全て、Ryuのサインを書き記してある。
もしも彼女がアークプリティナイトをそこそこでもやり込んでいたならば、Ryuのイラストの特徴やサインの筆致などを知っている可能性があるだろう。
実際、磨瑚のこの反応はRyuについて相当知っている様子を伺わせていた。
(拙い……!)
気付かれた可能性がある。というよりも、十中八九、気付かれたと見るべきだ。
ならば、ここはどうするか。
藍岳は一瞬で思考を纏めた。ここは彼女に、協力して貰うしかない。力で脅すのは、却って悪手だ。
(ここは、黙っといてくれ)
目線で訴えかけながら、藍岳は他の面々には気付かれぬ様に、ほんの微かにかぶりを振った。
これは一種の賭けだった。もしも彼女が応じてくれなかった場合、藍岳は更に強硬な手段を取らざるを得なくなる。
しかし、出来ればそんなことはしたくない。もう裏の世界からは足を洗いたいと思っているのだ。今更、暗殺術を行使するなど以ての外だ。
そんな藍岳の必死の思いが伝わったのか、磨瑚は目線で頷き返してきた。
既に落書きで遊んでいたアンケートはぐしゃぐしゃに丸めて、テーブルの隅に押しやっている。
後は磨瑚が藍岳の要求に応じるかどうかだが、彼女はその期待に応えて、何も見なかった風を装ってくれるらしい。
事実、磨瑚はその後ゲームから別の方向へと話題をシフトさせていった。
(助かった……けど、晴澤さんとはまた場を改めて、ちゃんと話しとく必要あるな……)
藍岳は肝が冷える思いではあったが、何とか平静さを取り戻し、アイスカフェオレに口をつけた。
そしてもう二度と、人前でアークプリティナイト関連の落書きはするまいと心に誓った。