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21.理解不能な言動

 帰宅後、藍岳は書店で手に入れた描画ソフトの解説本をPC横の補助スタンドで開きながら、幾つかの使い慣れていない機能の練習に取り掛かっていた。


(ほうほう……ガウスぼかしって、こんな使い方もあんのか)


 神絵師などと持て囃されてから一年になるが、しかしまだまだ知らないテクニックは山ほどある。

 ペン先素材、所謂カスタムブラシの自主作成もまだ余り慣れていないことだし、この際だから、左掌負傷に依る休止期間中に色々と勉強する時間を設けても良いかも知れない。


(折角やし、どうせなら知らんかったところとか色々攻めてみるか)


 或いはインターネットでイラストレーター養成講座を改めて受け直してみるか、などと思ったりもする。

 兎に角、仕事を休んでいるこの期間に少しでもレベルアップを図り、再開後には更に多くの依頼を受注出来る様になっていれば、この負傷にも一定の意義を見出すことが出来るだろう。

 そんなことを考えながら液晶タブレット上にペンデバイスを走らせていると、インターホンが鳴った。

 時計を見ると、まだ夕方を少し過ぎた頃。出前の予約はもうちょっと先の時間の筈なのだがと首を傾げながら応対に出たところで、思わずぎょっとしてしまった。

 モニター越しに映し出されていたのは、やけに御機嫌斜めの磨瑚の美貌だった。


「あれ、どうしたんですか? 今日はもう帰って頂いて結構ですと……」

「良いから、開けて」


 やけに食い気味な勢いの磨瑚。


「え、何か他に用事ありまし……」

「んなこと良いから、早く開けて」


 何となく気圧されてしまった藍岳は、いわれるがままにオートロックを解除し、磨瑚をエントランス内へと招き入れた。

 それから程無くして、今度は玄関扉の呼び鈴が鳴った。

 本当に一体何の用なのかと訝しみながらも、取り敢えず玄関扉を開ける。するとそこに、レジ袋を提げた磨瑚の、物凄く不機嫌そうな顔があった。

 それにどういう訳か、微妙に大きな鞄を背負っている。何を持ってきたのだろうか。

 藍岳は尚も、一体どうしたんですかと問いかけようとしたが、磨瑚は無言のまま靴を脱ぎ、すたすたと廊下を歩いてキッチンに直行した。

 一瞬唖然となってしまった藍岳だが、しかしすぐに我に返って幾分慌てながら自らもリビングへと足早に引き返した。

 既に磨瑚はエプロンに腕を通し、調理器具を引っ張り出して夕食の準備に取り掛かろうとしている。


(えー……マジか。今日はもうエエっていうたのに)


 しかし、もう今更帰れともいえない。

 結局藍岳は磨瑚のやるがままに任せ、自身はリビング隅の書斎で引き続き描画ソフトの操作に戻った。


(あー、出前キャンセルしとかな……)


 インターネットで適当に注文した最寄りのピザチェーン店に、オーダーキャンセルの連絡を入れた。デリバリー予定時間までまだかなりの時間があったから、キャンセル料が取られることも無かった。

 そうして小一時間程が経過すると、洋食系の美味そうな匂いが漂って来た。

 今夜はハンバーグとサラダ、スープという組み合わせらしい。

 鼻腔をくすぐる良い香りに刺激されてか、腹の虫が盛大に鳴り始めた。


「ユキちゃん、出来たよ」


 キッチンの方から、抑揚の無い声が飛んできた。

 まだ機嫌は悪そうなのだが、しかし折角作ってくれたのだから、頂かないのも悪い気がした。

 多少気まずい部分はあるものの、それでもダイニングテーブルに並んだプレートやボウルに誘われて、微妙な面持ちで椅子に腰かけた。


「えぇと……頂きます」


 視線を合わせようとしない磨瑚に物凄く遠慮しながら、それでも空腹には勝てぬとばかりに、藍岳は昨日と同じ様な勢いでがつがつと平らげ始めた。

 昨晩の生姜焼きも悪くなかったが、このハンバーグも絶品だ。本当に高校生が作ったのかと驚く程の出来具合で、何の謝礼も無しにこのまま食べてしまうのが勿体無い様にも思えてしまった。


「……お味は如何ですか?」

「はい、結構なお手前で」


 ぎこちない調子で言葉を交わしつつ、それでも一気に食い尽くしてしまった。

 ふたりの間に流れる空気は凄まじく微妙だが、それでも矢張り、美味い物は美味い。磨瑚はただ美しいだけではなく、料理の腕も抜群だ。これならば色んなオトコから引く手あまただろう。

 彼女のことが好きなのは今でも変わらないが、自分なんぞが独占して良い存在ではない。

 第一、慶太に申し訳が立たない。彼の様な爽やかで裏表の無い人物こそ、磨瑚に相応しい男だ。

 対して自分は、どうか。今日、磨瑚の手引きで多少見た目はマシになったかも知れないが、所詮はその程度に過ぎない。

 藍岳という男は薙楽法忍道の闇に染まり切った陰の人間であり、イラストの世界でしか己を表現出来ないはみ出し者なのだ。

 決して、良い気になってはいけない。

 磨瑚がこうして食事を用意してくれるのも、自分が命の恩人だからということ以外の理由は無い。

 そんなことに、いつまでも彼女を縛り付ける訳にはいかないだろう。


「御馳走様でした。今日も、とても美味しかったです」

「お粗末様でした。じゃ、片付けるからゆっくりしてて」


 磨瑚は相変わらず気分のトーンが低いまま、後片付けに入った。藍岳は何とも気まずい顔のままで、再びリビング隅の書斎へと引き返した。

 それから磨瑚は洗濯機を廻したり、バスルームの浴槽に湯を張ったりと色々やってくれたが、その間も特に言葉は無く、淡々と作業をこなし続けていた。

 そうしてひと通りの家事が終わったところで、彼女は謎の行動に出た。

 持参していた鞄を開き、中から女性ものの衣類らしきものや、スキンケア用品などを取り出している。

 彼女が一体何をしているのか、藍岳にはさっぱり分からなかった。


「あのぅ、参考までにお訊きしますけど、何してはるんですか?」

「何って、お泊りの準備」


 その瞬間、藍岳の脳内には疑問符が一気に百個程、浮かび上がった。

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