2.下書き
磨瑚は芸術系の選択科目の中から、美術を選んでいた。
音楽は楽器を操る為の手先の器用さに自信が無く、書道は落ち着きのない自分の性格には合わないと判断して敬遠した。
そんな消去法の結果として残ったのが、美術だった。
が、結果的には悪くない選択だと思っている。
仲の良い由佳や麗子、更には祐希までもが同じく美術を取っており、授業中もそれなりに楽しい時間を過ごすことが出来ていたからだ。
ところがこの二学期に入ってから、少し様子が変わってきた。
一学期は風景画の制作が課題だったのだが、この二学期では人物画が課されたのである。しかも描く対象は自分以外の誰かひとりで、同じ美術を選択している生徒の中から模写対象を選ばなければならないとの由。
「え~、どうしよっか~?」
相手選びの際、磨瑚は由佳や麗子と膝を突き合わせての相談を持ち掛けた。
由佳も麗子も結構な美人だ。それだけに、彼女らを模写対象として選ぶのは見る分には楽しいのだが、実際に描くとなると相当なプレッシャーがかかってしまう。
もし万が一、下手な絵に仕上がってしまったら、描いた方は勿論、描かれた方もまぁまぁそれなりにショックを受ける様な気がしたのである。
「下手にイケメンとか可愛い子を選んだりしたら、後で難儀なことになるんじゃね?」
艶やかなワンレンボブが美しい麗子が、したり顔で腕を組む。確かにそれもそうだと、ウルフカットボブが可愛らしい由佳も納得して頷き返した。
「やーっぱここは、フツメンが無難なとこっしょ」
そんなことをいいながら、由佳が美術教室内をぐるりと見渡す。そして程無く彼女は、あっと小さな声を漏らした。
「あそこに、丁度良いのが居るじゃん」
その指差す方向に磨瑚と麗子も目で追いかけると、そこに黒縁眼鏡で全く表情の見えない男子――藍岳がひとりでぼーっと椅子に座っている姿があった。
確かに、描き易そうではある。取り敢えず黒髪と黒縁眼鏡を前面に押し出せば、それっぽく見えそうな気がしてきた。
「なぁ~晴澤ぁ~、俺描いてくれよぉ~」
「磨瑚っち磨瑚っち、俺立候補しまぁ~す」
何人かのイケメンクラスメイトが挙手してきたが、磨瑚は、
「御免、難しそうだからパス」
などと弁解を添えて、ことごとく断った。
フラれてしまった彼らは、ならばとばかりに由佳や麗子にも迫ったのだが、ふたりも同じ理由で速攻で却下していた。そうして三人が歩を寄せていったのは、相変わらずひとりでぼんやりしている藍岳の席だった。
「やっほ、雪灘君……ちょっと良い?」
磨瑚が努めて明るく声をかけたことで、藍岳本人よりも、寧ろ他の生徒達が変に色めきだった。
校内屈指の美少女と、クラスでも上位レベルにある見目麗しい女子が、陰気でぼっちな根暗野郎に揃って声をかけているのだ。
驚くなという方が無理であろう。
「……何ですか?」
「えっとねぇ……もし迷惑じゃなかったらさ、あたしらと組まない? あたしと由佳っち、麗子が雪灘君を描いて、雪灘君は誰か適当に選ぶってのはどう?」
割りと清水の舞台から飛び降りるぐらいの覚悟で声をかけてみた磨瑚。
すぐ後ろでは由佳と麗子が、妙にはらはらした面持ちでこのやり取りを見守っている。
藍岳は怪訝な顔つきで三人の美少女を軽く見渡していたが、特に断る理由も見当たらなかったのか、
「えぇ、良いですよ」
と短い声音で応諾した。
周囲ではまだ模写対象が決まっていない者が多い中、この段階で即決出来たのは大きい。
美術担当教諭は、模写対象が決まった者から早速下書きを開始する様にと号令をかけている。
「んじゃあ、早速始めよっか」
磨瑚がスケッチブックを取り出しながら、手近の椅子を引いて藍岳の前に陣取った。由佳と麗子がそれぞれ磨瑚を挟む格好で左右に席を取り、同じく下書きのシャーペンを走らせ始める。
対する藍岳は、磨瑚の顔に目を向けていた。
「じゃあ俺は晴澤さんで」
校内屈指の美貌を誇る磨瑚を相手に廻しても、藍岳はまるで動じた様子も無く、まるで当たり前の様に手を動かし始めた。
妙に慣れた手つきの様にも思えたが、今は自分の下書きに必死だった磨瑚は、この時はまだ、藍岳が描き始めている驚くべき技量には気付いていなかった。
そうして十数分が経過し、簡単な輪郭程度まで描き終わったところで、磨瑚が一旦ペンを置いた。
「ふぃ~、疲れたぁ~……慣れないことは、急にやるもんじゃないねぇ」
「マジ、それな……ってか雪灘、アンタどんくらいまで描けたん?」
麗子がワンレンボブを揺らしながら、横合いから藍岳のスケッチブックを覗き込んだ。
そしてその直後、彼女の大人びた端正な顔立ちが驚愕に彩られた。
「え……うっそ、マジ! 何コレ! えー! ちょっと、めっちゃ凄いんだけど!」
余りに素っ頓狂な声に、美術教室内の注目が一点に集まってきていた。
流石に驚いた磨瑚も、由佳と一緒になって立ち上がり、藍岳の手元に視線を落とす。
そこに、信じられないものが現出していた。
「あ、え……? これ、あたし?」
藍岳のスケッチブックには、白黒写真をイラストチックに加工したものかと思わせる程の、精巧で鮮やかな磨瑚の美貌が描き出されていた。
それも、素人に毛の生えたという程度のものではない。下手をすれば、どこかの画廊に飾ってあってもおかしくない程の出来栄えだった。
すると、他の席からも次々と生徒らが寄ってきて、藍岳が描き出した磨瑚の秀麗な顔立ちに見入る者が続出した。
「いや、これめちゃウマじゃん……てか、雪灘ってこんなに絵、上手かったんだ」
「わぁ~、チョー綺麗~……マジ女神じゃん」
雨あられと降り注ぐ称賛の嵐に、しかし藍岳は眉ひとつ動かさず、横から覗き込んでいる磨瑚に対してのみ視線を向けた。
「すんません、まだ途中なんで、もっぺん前に座って貰って良いですか」
藍岳は周囲の声など一切無視して、磨瑚に対してのみ意識を集中させるかの如く、彼女がさっきまで座っていた椅子にじっと視線を据えていた。
「あ、ご、御免ゴメン。そ、そうだよね」
何故か胸が高鳴るのを感じながら、磨瑚は慌てて藍岳の正面に据えた椅子に戻って腰を下ろした。
ここで美術担当教諭が、それぞれの席に戻って課題を続ける様にと注意を促していたが、その教諭自身も藍岳のスケッチブックに感嘆の視線を送っていた。
(雪灘君って……一体、何者?)
自身もスケッチブックを手に取り直した磨瑚は、藍岳への興味が溢れ始めていることを自覚した。
もっと、彼のことを知りたいと思った。