独りよがり
最低最悪の夏だった。
照りつける太陽はひび割れたアスファルトを焦がしながら、素知らぬ顔で天上に居座っている。
それをオレは睨めつけながら、次第に鈍くなっていく足を動かす。
顎から滴った大粒の汗は首筋を滑り、鎖骨を通り、臍の辺りへと粘りついた軌跡を残す。
何もかもが不快極まりなかった。
あまりの暑さに呻き声を上げることも叶わず、のろのろと亡者のように歩く。
そんなオレの前に横からにゅっと白い細腕が伸びてくる。日光を反射して眩い二の腕にぽつんとある黒子と目が合って、咄嗟に目を逸らす。
逸らした先にはお揃いのTシャツを着た二人組の女性がにこにこと笑みを浮かべている。
この暑いのにご苦労なことで。
つい、唇が歪む。
さっとチラシが差し出される。
光沢紙に蛍光色が踊る。
目の奥がじんと痛む。
「良かったらどうぞ!」
額に薄く汗を滲ませた女性たちはまるでそれが素晴らしい贈り物であるかのように突き出してくる。
その白くて丸くて小ぶりな顔に浮かんだ笑顔はまるで向日葵のようだった。
黄色の花弁の中に黒黒とした種子が蠢いている、あの気色が悪い大輪の花が彼女の顔の奥底から陽炎の力を借りて、ぼわぼわと浮き出してくるようであった。
オレはああともおおともつかない声と共に手を差し出してチラシを受け取る。
その健康的な汗がひどく羨ましくて、妬ましい。
オレは視線を逸らしながら歩みを進める。
受け取ったチラシの内容をろくに確認せず、そのまま庇にする。
だが、指から滴る汗が染み込んですぐにへたってしまう。
使えねぇ。
口の中で小さく悪態をついて歩いていく。
遮るものの無くなったオレの額に太陽の熱視線が注がれる。
見てんじゃねぇよ。
ぎらつく太陽を睨む。
暫く睨んでいると頭の中が沸騰するような錯覚を覚える。
脳みそがどろどろに溶かされて、ぐずぐずになっていくみたいだった。
ろくに物さえかんがえられなくなる。帰らないと。
歩き出した途端、脳みそがどろりと鼻腔から零れてくる。反射的に鼻を抑える。
しかし、思ったよりも緩慢に動いたオレの手は間に合わない。
脳みそだと思ったそれは鉄臭くて、オレの手のひらに赤い線を引いて、アスファルトを穢らわしい赤で汚す。
嗚呼。くらくらする。
粘ついた鼻血は留まることを知らず、鼻腔から手のひらへどろどろ溶けだしてくる。
突然立ち止まったオレの隣を怪訝そうな顔で通り過ぎようと、スーツ姿の男が早歩きで追い抜こうとする。
その拍子に目が合う。
男はオレの顔を驚いた顔で見る。
見るな。憐れむな。止めろ。止めろ。
オレは思わず顔を背ける。
男が通り過ぎるのを待つ。
男がいったことを確認してまた歩き出す。
帰らないと。帰らないと。帰らないと。
うわ言みたいに呟いて、歩き出す。
そんなオレを太陽だけがまだ見つめていた。
お前のせいだぞ。
太陽をもう一度睨む。
しかし、太陽は最早オレのような人間のことなぞ見てはおらず、チラシ配りの女性達の健康的な汗に熱視線を送っている。惨めなオレはそれを妬むことしか出来ない。
オレは泣き出しそうになる。
最低の夏。最悪の夏。
世界なんて滅んでしまえばいい。
オレの呪詛は誰にも届かない。
誰もオレを見ていない。
鉄臭さは拭えない。暑さはオレを逃してはくれない。
それでも、オレは歩く。
オレの歩いた後には黒々とした血だけがぽつぽつ残っているだけだった。