脳内温泉(習作)
降りしきる雪の中を慎重に車をすすめた先に、その宿はあった。
綺麗に除雪された駐車スペースに車を停め、暖かそうな灯りが見える方へと急ぐ。自動ドアが開くといらっしゃいませの声に迎えられ、タオルが渡される。
フロントにて受付を済ませ宿の従業員に伴われ部屋へ向かった。受け取った鍵を閉め、まずは浴衣に着替える。 少し寒いので半纏を羽織った。備え付けのポットの湯で茶を淹れ、菓子鉢の中の銘菓を貪った。皮に練り込んだ黒糖と中に包まれた餡、噛み締めると滲み出る油。甘い。疲れの取れる味である。
濃いめの緑茶を啜り、テレビを点ける。知らない地方のニュース番組をやっていた。天気予報によると、この雪は夜にはやむのだそうだ。知らない地方の大雪や事故の話、遠い都会で政治家が何かしている話などに飽きて、夕飯の時間まで風呂に入ることにした。
脱衣場はがらんとしていたが、そこここに置かれた脱衣籠が人の気配を示していた。癒しを求めてあの悪路をやって来る人間がこんなにもいるのだと驚いた。
着ていたものを全て脱ぎ浴室に入る。
湿度を孕んだ温かな空気に包まれる。洗い桶や椅子を床に置く硬い音、ちょっとした非日常に子供がはしゃぐ声などが聞こえた。そして時折それらをかき消す湯の流れる音。
一通り体を洗い、湯船に浸かる。大きな窓の向こうに小さな中庭が見えた。常緑樹が、石灯籠が、芝生が、そして目隠しするように立てられた無骨な囲いの上が、降り積もった雪によって白く丸みを帯びたシルエットと化していた。
美しい、と思った。道中散々悩まされてきたはずの雪である。
先程まであんなに降っていた雪はすっかり小降りになり、小さく切り取られた空はオーロラソースにも似た輝きに満ちていた。
午前中からこんな天気だったら運転でここまでくたくたに疲れることもなかったのに、とため息をついた。しかし朝から降らなければこの絶景は確実になかったのだ。
何故か自分のあまり上手く生きることができなかった10代後半からの人生を思い出していた。
集団の中にとけこめず、学生時代も社会に出てからも浮いた存在で今に至るまで非正規の職を転々としてきた。 ホワイトアウトの中を迷いながら進んできた今日の道のりのようだ。
それでもいつかこんな風景を見るような気持ちで思い出すこともあるのだろうか?そんなことを考えつつ、お湯の中で目を閉じゆっくりと手足を伸ばした。