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「はい」と叶は返事をした。

 でも、ドアの向こう側から返事はない。

 叶はじっと、暗闇の中で、ノックされたドアのあるほうを見つめる。

 少し目が慣れてきたのか、暗闇の中でも、ぼんやりとだけどドアの輪郭を闇の中で見ることができた。

 今も、ドアの向こう側から、返事はない。

 叶はそこにいるはずの祈を迎えるために、部屋の明かりをつけて、ベットから出てドアのところまで移動をしようとした。

 でも、そのとき、ふと、叶の頭の中に変な考えが一瞬だけ浮かんだ。

 なぜかこのとき、叶は、そのドアの向こう側にいるのが、もしかして『祈ではない違う誰か』なのではないか、とふとそんなことを思った。

 そこに立っている人物が、祈ではなく、あるいは、人間ではない違うなにかであるような気がした。

 叶はあの、家の周囲に広がっている真っ暗な闇を思い出した。

 そこからやってくる不気味で恐ろしいなにか、が、今、そこに立っているのではないか、とそんなことを叶は思った。

 ……自分を、暗い夜の中に引きずり込むために。


 ざーっという強い雨の降る音が真っ暗闇の中に聞こえる。


 叶は闇の中で、じっと、そのぼんやりと見える部屋のドアに目を向けていた。

 ドアの向こう側から返事はない。

 ノックの音もしない。 

 でも、ここから遠ざかっていくような足音も聞こえなかった。

 部屋のドアをノックした人物は(あるいは、なにか、は)まだ、そこにいる。

 叶はベットから抜け出して、暗闇の中で電灯の紐を引っ張って、部屋の中に真っ白な明かりをともした。

 急に明るくなった世界の中で、叶は眩しそうにその目を細める。

 それから叶は部屋の中をゆっくりと歩いてドアの前まで移動をした。

 叶は、そのドアを開けようと思った。

 なぜなら、このドアの向こう側にいるのは、祈であるかもしれないからだった。

 暗い闇の中に潜んでいる、不気味で恐ろしいなにか、はあくまで叶の想像であり、そこにいるのは、普通に考えれば祈であるはずだった。

 すると、祈は今、部屋のドアをノックしてからずっと、一人で暗い通路の中に立っている、ということになる。(明かりをつける前に、ドアの隙間から外の明かりは差し込んでこなかった。電気をつけない理由はわからないけれど、階段のところの電気は消えたままになっているようだった)

 そんな暗くて怖くて、危ない場所に、いつまでも祈をひとりにさせておけるわけがなかった。

 叶は、部屋のドアをゆっくりと開けた。

(闇の中に不気味で恐ろしいものなんて、そんなものはどこにもいない。すべて自分の生み出した勝手な想像にすぎない。それはわかっているのだけど、それでも、叶の心臓はどきどきしていた)


 叶が部屋のドアを開けると、やっぱり通路は真っ暗なままだった。その真っ暗な空間の中に叶の部屋の明かりが溢れて、廊下の一部分を照らし出した。

 ドアを開けた先。

 ……そこには、誰の姿もなかった。

 不気味で恐ろしいなにか、はおろか、部屋のドアをノックした人物であるはずの祈の姿も見えなかった。

 叶は、そんな光景を見て、……変だな、と思った。

 ドアの前から誰かが歩いて移動をした足音は確かに聞こえなかった。その人物はまるでふわっと、それこそ幽霊のように、この場から一人でに消えてしまったかのようだった。

 でも、その叶の疑問はすぐに解決した。

 なぜなら、暗い通路のドアのあるほうの壁には、そこに体育座りの格好で、ぎゅっと両足を抱え込むようにして、頭を下に向けて隠して、小さく、丸く縮こまって座っている、祈の姿があったからだった。(ドアをノックしたのは、やっぱり祈本人だったようだ)

 叶がドアを開けてからも、祈はずっと、その姿勢のままだった。


「そんなところで、なにしているの?」と優しい声で叶は言った。

 すると、「……私にもよくわからないんだ」と小さな声で祈は言った。

 それから祈はゆっくりとその顔をあげて、そっと、叶のほうに向けた。

 その祈の顔を見て、叶はとてもびっくりしてしまった。なぜなら、祈は、その暗い夜の中で一人で静かに、涙を流していたからだった。

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