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「その時計。止まっているんだ。もう、ずっと前から止まったまま。だから、この家の時間はずっと、止まっているの」と、叶の視線に気がついて、祈は言った。
「時間、わからないと不便じゃない?」祈を見て、叶は言う。
「ううん。あんまり、不便じゃないよ」
洗い物を終えて、手を白いタオルで拭きながら、にっこりと笑って祈は言う。
叶も、同じように白いタオルで手を拭いて、洗い物を終える。(夕食の後片付けは、綺麗に終わった)
「ほかに、時間を確認できるものはないの? 時計のほかにも、テレビとか、パソコンとかさ」もしかして、時間の止まっている時計のほかに、時間が確認できるものが、なにかあるかもしれないと思って叶は言った。
「あの時計のほかには、時計はないんだ。この家には、テレビもないし、『インターネットもつながっていない』し、パソコンもない。草原を歩いているときにも言ったけど、私は『携帯電話を持っていない』。だから正確な時間は誰にもわからない」
「なんだか、今時、珍しいね。携帯電話はともかく、インターネットがないと不便じゃない?」叶は言う。
「だって、私には必要のないものなの。もちろん、ずっと、このまま一生いらないってわけじゃないよ。……ただ、『今の、私には』ね。それは、きっと、いらないものなの。きっと、余計なもの。だから、今はいらないの。携帯電話も、インターネットもね」と、にっこりと笑ってから、片手を口の前に当てて、はぁー、と大きなあくびをしながら、祈は言った。
「そうなんだ」と叶は言った。
それから、叶はふと、祈の話を聞いていて、自分の携帯電話を確認したときのことを思い出した。確か、携帯電話を確認したときに、画面の表示の中に、日時と時間を見た覚えがある。……でも、それが、いつだったのか、何時を示していたのか、叶は今、なぜか、それをはっきりと思い出すことができなかった。(制服のズボンから携帯電話を出したとき、携帯電話の電源は切れてしまっていた。だからもう、日付や時間を確認することはできなかった)
「時間を気にすることなんて、なにもないんだ。今の私はさ。朝、いつまでも気の済むまで、眠っていることができるし、夜はいつまででも、気の済むまで、眠くなるまで、ずっと起きていることができる。この家には、誰もこないし、することもない。もちろん、畑の野菜を育てたり、毎日、一人で食事をしたり、家の中の掃除をしたりとかはするけれど、私がやらなければいけないことは、なにもないんだ。少なくとも、時計をもう一度動かそうって、思うようなことはない。今の私にはね、なんにもないんだ。本当になんにもない。
今の私はさ、……からっぽなんだ。なんていうのかな? きっと、空気の抜けちゃった風船みたいに……ね。しゅーって、体のどこかに開いた穴から、空気が全部抜けちゃってさ、ぺったんこになっちゃったんだよ。いつの間にか、私はね」にっこりと笑って、叶を見て、祈は言った。
「こんなに元気なのに? からっぽなの?」叶は言う。
「私が今日、こんなに元気なのは、叶くんに会ったからだよ。いつもの私は、こんなに元気じゃないの。本当はね。ずっと、ずっと泣いているの。一人ぼっちの、ほかに誰もいない家の中で、暗い部屋の中でさ」
そう言って、祈りは両手を目の下に動かして、えーんえーんと泣いている小さな子供の真似を笑顔でした。
それから、二人は、また大きな声を出して笑った。
叶はキッチンの調理道具の後片付けをして、その間に、祈はリビングのものを片付けたり、夕食を食べたテーブルの上をふきんで拭いたりした。
時間はわからないけれど、外が真っ暗な夜になってから、もうずいぶんと長い時間が経過していた。
……そろそろ、二人とも、睡眠をとらなければいけない時間だった。(その証拠に、叶は、祈に隠れて、小さくあくびをしたし、祈はまた、両手をあげて背伸びをしながら、はぁー、と大きなあくびをしていた)
「ねえ、叶くん。なにかお話しようよ。まだ眠くないよ。ゲームとかあればいいんだけどさ、なんにもないんだ。だから、もう少しだけ二人でお話をしよう」と叶の青色のジャージの裾を引っ張って、まるで小さな子供が、誰か近くにいる大人の人に、おねだりするようにして祈は言った。




