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「バック。ごめん。少し床、汚しちゃったかもしれない」叶は言った。
「いいよ。そんなの。叶くんは森の中で倒れていたんだよ。しかも、記憶喪失の状態でさ。(そこまで言ったところで、祈はすごく面白そうな顔で笑った)そんな『緊急事態』だったんだから、それくらいのこと、気にしなくていいんだよ。全然さ。そんなのあとで掃除しておけばいいんだからさ」と祈は言った。
「ありがとう」叶は言う。
それから叶は、「あとで、自分の青色のスポーツバックを拭くための布のようなものを借りれないかな?」と祈に聞くと、祈は少し考えてから、「じゃあ、余っているタオルを貸してあげるよ」と叶に言った。
「汚れちゃうよ?」と叶が言うと、「そんなの洗濯すればいいだけだし、それに、結局、真っ白なタオルも、最後には雑巾にしちゃうんだから、別にいいよ」とにっこりと笑って、叶に言った。
祈はそんな風にして叶と話をしながら、ときおり、背もたれのある椅子から立ち上がって、叶の料理の様子をすぐ近くまで行って、背中越しに覗いて見たりもしていた。
「なにか、手伝おうか?」後ろから顔を覗かせて、祈が言う。
「大丈夫。晩御飯のカレーの料理は僕がやるからさ。祈はそこに座って待っていてよ」と手を止めずに叶は言った。
「本当にいいの?」祈は言う。
「もちろん。こっちは祈の家に一晩、泊めてもらっているんだからね。これくらいのことはしないとね」と祈を見て、叶は言った。
「うん。ありがとう」と祈は言った。
それから元の場所に戻った祈は、背もたれの上に顔を乗せて、黙ったまま、ぼんやりとした。(なんだか、冬眠する前の熊みたいだった)
「すごいな。叶くん。料理上手なんだね。びっくりしちゃった」
少しして、祈は言った。
(今は、こうして落ち着いているけど、最初に料理をしている叶を見たときの祈の反応は、本当にすごく大げさなものだった。まあ、祈を驚かせたいと思っていたので、叶もまんざらではなかった)
「そんなことないよ。自分で料理をしていたから、慣れているだけで、少しできるくらいだよ」叶は言う。(それから叶は、そうだ。僕は自分で料理を作っていたんだっけ。とそんなことを思い出した)
そう言いながらも、叶は料理には自信があった。
「本当に、私は手伝わないでいいの?」足をばたばたとさせて、また、祈は言った。
「もちろん。さっきも言ったけどさ、僕は祈の家に泊めてもらっているんだからさ、できることは手伝わせてよ。料理だけじゃなくて、掃除とか、あと、力仕事とかあるならさ。それは僕がやるから、遠慮しないで、どんどん、言ってくれて構わないよ」と叶は言った。
「そんなの、大丈夫だよ。叶くんはさ、この家で、ずっと楽にしてくれてて良かったのに」と口を尖らせて、祈は言った。
「……まあ、嬉しいことは、嬉しいかな? 一人だけ楽しちゃって、悪いなって、気持ちになるけど」とちょっとだけ間を置いて、嬉しそうな顔をして、祈は言う。
「でも、ちょっと、出しゃばっちゃったかな? 勝手に食材やキッチンの道具も使っちゃったし。……少し迷惑だった?」祈を見て、うーんと、悩んだ顔をして叶は言う。(やっぱり、ちゃんと聞いてから料理をしたほうがよかったかな? と今更だけど、ちょっとだけ、心配な気持ちになった)
「ううん。そんなことないよ。ありがとう。叶くん。本当に嬉しい」とにっこりと笑って、祈は言った。
それから二人は少しの間、黙ったままになった。
(それは、とても静かな時間だった)
二人はしばらくの間、じっとレコードセットの大きなステレオから聞こえてくる、素敵な古い音楽に、その耳をかたむけていた。
ぐつぐつと美味しそうな音が、カレーを煮込んでいる鍋から聞こえていた。
レコードの曲が終わって、祈は、レコードを交換した。(今度は叶くんが選ぶ? と祈は言ったけど、選曲は祈りに任せた。祈は真剣にレコードを選び、曲をかけた。今度の曲もまた、素晴らしいものだった。静かな雨の降る音をじっと聞いているような気持ちになる曲だった。男性の声の曲だった)
窓の外はいつの間にか、だんだんと暗くなってきていた。(時間は、相変わらず不明のままだった)
……祈は、そっと背もたれのある椅子から立ち上がると、リビングの四角い窓にある、白いカーテンをそっと閉めて、それから壁にあるスイッチを押して、順番にリビングとキッチンの電灯の白い明かりをつけた。
それから祈は、また背もたれのある椅子に腰掛けて、黙り込んだ。そんな祈は少し、どこか疲れているように見えた。




