麒麟は孤高なればなり。
思えば物心ついて間もない頃から、人を驚かせるのが好きだった。
母がひらがな五十音のポスターを貼って読み聞かせてくれた日のこと、驚かせてやろうと思い、母が夕食の支度をしている間に必死になって覚え、夕食の時に暗唱してみせた。
あの時の味噌汁を吹き出した父の表情と、たくさん撫でてくれた母のぬくもりが嬉しくて、それから闇雲に様々な知識を手当たり次第に学んだ。
幼稚園の頃、公園で遊んでいた小学生から教科書を借りて読み、コラムとして紹介されていた数字の羅列を可能な限り暗記し、その公園や幼稚園など、出掛ける度に至るところで諳じてみせた。
あとから知ったことだが、その数列は"円周率"で、巷では『円周率を暗唱しまくってる子供が居る』と話題になり、どこから聞き付けたのかテレビ局が来て取材を受けた。僕は49126桁という記録を出し、神童やら麒麟児などと持て囃されて一躍時の人となる。
あれよあれよとテレビ出演が増え、様々な番組に出る中、国会図書館をタレントと一緒に取材するロケに行った時だった。タレントの一人が、撮れ高を気にしてか、ネイチャーの最新刊を手にして、僕に見せてきた。その頃には英文も学習済みで、文章は滞りなく読むことは出来たが、正直それが何を説明しているのかまでは理解出来なかった。それでもテレビ的には十分だったらしくタレントやスタッフから最大級の称賛を得た。そこから僕は、『ここにある本を覚えれば皆を驚かせられる。』と国会図書館に入り浸り、閲覧可能な蔵書の9割を暗記し、中でもそのネイチャーに書いてあった"くぁんたむ・めかにくす(量子力学)"に夢中になった。
小学校に上がり、自分が友達と違って"浮いている"と自覚し始めた頃、国内外の大学から飛び級での入学のオファーがあった。僕は友達の苦笑いを振り払うかのようにアメリカのハーバードに飛び、9歳の時に物理学の博士課程を終了した。大学の理事会や各国の著名な有識者達は僕を讃えてくれたが、同年代の友達は完全に居なくなった。
日本に戻ってからは、国内の様々な大学で嘱託教授、名誉教授をしながら、資金面以外ほぼ単独で完全な量子コンピューターを完成させた。理論をまとめ発表しノーベル賞確実と言われる頃には、あれだけ讃えてくれた有識者達も表情が引きつっているのがわかった。
もう人を驚かせようなどという愉快な発想はなかった。
どこで間違えたのかも分からないまま、僕はスイスのジュネーブにあるCERNに居た。フランスの研究所から反物質の安定した長期保存の実現のため"知恵を貸してほしい"と言われ、馳せ参じた。
知恵を貸してほしいというのが建前であるのは分かっていた。彼らはただ、僕の"名前"とそれに付いてくる"お金"が欲しいだけだった。
もちろん仕事はした。磁気瓶の改良、反物質の発生確率の向上、反物質抽出後の加工法についての仮説論文の作成など、可能な限り尽力した。しかし、仕事をこなせばこなすほど、フランスの研究者達は顔をしかめた。
もう、科学者など辞めよう。例え世のためになっても僕の為になど1ミリもならない。あんなに驚かせて笑って欲しかった両親とも何年も会えていない。
CERNでの仕事も佳境に入り、あとは理論を実験で実証するだけとなった時に事件が起きた。粒子同士を衝突させる実験中に、その粒子が光の速さを超えてしまったのだ。通常物質は光の速さを超えることは出来ない。相対性理論が根底から覆るかも知れないと世界中で騒ぎになった。
僕はと言えば、そんな事は起きるはずもないと確信し、測定機器のトラブルシューティングを行っていた。ソフト面で異常がないことが分かり、一人寂しく広大な大型ハドロン衝突型加速器(LHC)を点検を始めると、異常を発見した。いや、LHC自体には問題はなく、むしろ正常その物なのだが、異常が起きていたのはLHCの下、コンクリートで覆われた床にしっかりと草が茂っていたのだった。
あり得ない、地下のこんな機械まみれのトンネルに、今まで誰にも見つからないまま、自分の膝丈まで成長している。よくみればシロバナタンポポも生えている。シロバナタンポポは日本の在来種だジュネーブにはまずない。
その時僕の中にあったのは、怖さよりも好奇心だった。なぜこんな所にシロバナタンポポが生えているのかと言うよりも、この謎を解き明かした時に"皆はどんな顔をするんだろう"だった。
僕は手近な草に手を伸ばした。
そして、僕の体は草と共に消え去り、世界は僕の存在を忘れた。
安倍晴明、15歳の誕生日の事だった。