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雲ひとつない快晴の空の下、春の薄く桜色に色づいた風と、心地よい微睡みに誘う日の光を遮られ、雪園芒はゆっくりと瞼を開く。
「これはこれは、白神先生。お久しぶりですね」
校舎の屋上に寝転がる芒は上体を起こすと、白くくしゃくしゃの髪をした白衣の男にそう笑みを浮かべた。
「先生が来たということは、そろそろ時間ですか?」
「あぁ。相手の子はもう第二闘技場でスタンバイしている。観戦を希望した生徒たちの入場も完了した。あとは君だけだ、雪園くん」
芒は大きく伸びをすると、立ち上がる。軽く屈伸をして、そしてやれやれと苦笑を浮かべた。
「とうとう僕にも『羅生門』の指名が入るとは、こんな日は家でのんびりするに限るんですけどね。……それで、対戦相手はどんな生徒なんです?」
◆ ◆ ◆
国立中央魔導学園には現在、千を越える生徒が在籍しており、寮や飲食店が完備された広大な学園の敷地内で、共同生活を送っている。
この学園にて学生生活を送る生徒の大半は、ある大きな目標を持っている。それは、Aクラスへの昇級である。
一学年につき400人ほどの生徒は、学校側が選択した10人の生徒を除き、BクラスからGクラスまでランダムに振り分けられる。そして件の10人はAクラスとして桁外れな待遇を受けることができる。
一例として、学費の完全免除はもちろん、卒業後の就職、進学の支援、登校義務の撤廃、彼らが生活する寮は他クラス生徒が暮らすマンション型のものから離れた場所に、一人につき一軒づつ、庭付きの豪邸が割り当てられる。
しかしそれでは、Aクラスにあぶれた生徒が向上の意欲を失うかもしれない、また、学校側が見出だせなかった才能の持ち主が有象無象に埋もれてしまうかもしれない。
そういった危惧を回避するために作られた制度こそ、クラス昇級戦、通称『羅生門』である。
鬼退治とも称されるこの制度は、必ずしも全ての生徒が利用できるわけではない。『羅生門』利用の意思を書類にて提出後、学校側がその生徒の成績や生活態度から果たしてAクラスに相応しい人物か、登校義務のないAクラスの生徒を召集するに相応しい存在かを決議する。
だがこれだけの厚待遇を受けるAクラス、そのステージに上り詰めるための『羅生門』も、利用する生徒はそういなかった。
なぜなら、彼ら彼女らは観戦という形で、自らの目で目の当たりにするからだ。何故自分と同い年の少年少女が、自分とは違い選ばれたのか、を。
◆ ◆ ◆
白衣に白くパーマのかかった髪、2年Aクラスの副担任を勤める白神の後ろを、芒はついていく。もう一年も生活した学舎だが、こうして案内をしてもらわないとすぐに道に迷うほど、芒は敷地の構造に精通していなかった。それはつまり、これまでどれだけ登校していなかったか、ということを表している。それは芒に限ったことではない。2年Aクラスの生徒の内、芒含め8人の生徒は、去年の登校日数が10を切り、こうして『羅生門』の召集といった用がない限りは、各々で心技を磨き、研究施設に通い、経営する会社に指示を出し、そして惰眠を貪る。
逆にほぼ毎日出席する生徒、毎週月水金曜日のみ登校する生徒もいるが、芒からしてみれば理解しがたい行動である。
そう言えば、と前置きを入れると、白神は歩きながら芒にこう続けた。
「君を指名した生徒、……冬木柊さんには妙な噂が流れているらしい」
「妙な噂?」
芒は眉を潜めた。……といっても、それはあくまでポーズに過ぎない。彼にとって、噂や風説といった類いの信憑性に欠ける話題は非常に興味が薄いもので、白神の言葉に食いついた態度をとりその実、冬木柊をどうあしらうか、ということしか考えていなかったも
「なんでも彼女、人造人間らしい。……あれ、ロボットだったかな。まぁ、あまりにも表情を変えないもんだから、クラスメイトが不気味がってそう言い広めているだけだろうが」
「それは安心しました。相手がロボットでないと分かった以上、躊躇う理由もありませんからね」
芒は白神を手で制した。眼前には巨大な円形状の建物、外からでも分かる、大量の生徒が発する熱気。ここから先の案内はもう十分だ、と言わんばかりに、芒は白神の前に出ると、そのまま歩き続ける。
「一応言っておくと、突き当たりを左に曲がれば君の控え室、中には入ればまた案内してくれる職員がいるはずだ」
「ありがとうございます」
芒は手を上げて答えた。その背中が見えなくなるまで見守ると、白神は溜め息混じりに頭を掻いた。
「人間なら躊躇しないって、普通逆だろ……」
◆ ◆ ◆
冬木柊について知っていることといえば、今年度からこの学校に来た転校生、誰ともコミュニケーションをとらず、表情の変化はほぼ無に等しく、特段目立った行動もない地味な女子生徒、ということだけだった。
しかしこうして『羅生門』の申請を認められたということは、何かしら学校側が認める要素があったということだ。
芒は闘技場内へと案内を始める名前も知らない職員の後を追いながら、考えていた。
なぜ彼女は自分を指名したのか、と。
『羅生門』への申請は2度目以降、より厳しい審査を要することになる。つまり実質、一回限りの下克上なのだ。それなのに冬木という女子高生は転校してきて早々、恐らくは直に見たこともない芒を指名してきた。
これが昨年『羅生門』で指名された生徒ならある程度の情報は掴めるわけで、まだ思考の余地はあるのだが、芒といえばこの学園においてまだ一度たりともその力の片鱗さえ見せた覚えはなく、唯一の心当たりを除いて正体不明といっても過言ではなかった。
「雪園村が関係している、……それは考えすぎか」
「着いたぞ。準備が出来次第、扉を開けて入ってくれ」
職員はそう言い残すと、そそくさと来た道を引き返す。
芒はやれやれと苦笑すると、躊躇わずに厳格な雰囲気を醸す扉に手をかけた。
「冬木柊……。君がどれだけ壊し耐えられるか楽しみだよ」
◆ ◆ ◆
主に生徒間の決闘場として用いられる第二闘技場には、ある高度な術式が組み込まれている。それは場内すべての生徒や職員の命を守るために働くもので、芒はこの道すがら、職員から簡略化した説明を受けていた。
曰く、場内で発生した損傷は、人体や物体に限らず、担当職員が必要と判断した時点で完全に修復される。また、即死級の損傷に関しては、闘技場が意思を持っているが如く損傷者を守るよう、被損傷者を止めるよう働く。
加えて、闘技場を丸く囲うように設けられた観戦席には防壁が張られており、闘技者たちの戦火に巻き込まれることはない。
つまり、この場内において死ぬということはほぼなく、生徒は絶対の安全を保証された上で相手や観戦者へ配慮せず、思う存分自分の実力を発揮できる、ということだ。
「損傷から生じる痛みは紛れもないものだけどね」
芒は柔和な笑みと共に、少女にそう告げた。青みがかったショートヘアーに小柄な体躯。聞いていた通りの無表情で芒を見据える少女は、小さな手をゆっくりと前に伸ばす。そして言った。
「よろしく」
へぇ、芒は口許を緩める。数歩足を進めると、まるで好青年のような立ち振舞いでそれに応じた。
「こちらこそ、よろしくね、冬木さん」
しかしその飄々とした表情が僅かに鋭くなった。
―――なるほど、この子はもしかすると……。
それは芒にしか分からない、圧倒的な違和感。まるで氷のように冷たい彼女の手を名残惜しそうに放すと、芒はぼそりと呟いた。
「君は随分と楽しそうだ」
◆ ◆ ◆
戦況は圧倒的なものだった。
柊の放った火球は、芒の僅かな指の動きで発生する突風のようなもので掻き消され、素早い動きで翻弄しようものならたった一度の足踏みで、足の骨を砕かれた。
その理解不能な芒の蹂躙に、観戦する生徒は呆気にとられていた。そのうち、誰かが呟いた。「もう十分だろ……」
歩む術を失った柊はその場に倒れ込むが、しかしそれでも無数の火球を芒に放ち、応戦を続ける。
芒はやれやれと首を振ると、指をパチンと鳴らした。
するとまるで大勢の人々の叫び声を合わせたようなけたたましい轟音が、振動と衝撃波を伴って闘技場内を駆け回り、防壁を叩き、火球すべてを消し去った。
観戦する生徒たちにも聞こえるほどの音だ。防壁に守られない柊が、攻撃の手を緩めて耳を塞ぐのも無理はない。もっとも、その程度で遮断されるレベルではないのだが、これにより柊は、圧倒的な力を前に、大きすぎる隙を作ってしまった。
芒は地面を蹴り、柊との距離を詰める。それは目で追える速度ではなかった。彼のいた足元は大きく抉れ、その衝撃を物語っていた。
勢いそのままに柊の首を掴むと、闘技場の壁へと激突させる。行き場のなくなった呼気と共に、柊は血を吐いた。
「もうやめろよ! こんなのやりすぎだ!」
誰かが叫ぶと、野次は次々と沸き出す。しかし職員は動かない。芒は不敵な笑みを浮かべた。
『羅生門』は終わらない。終わりを決めるのは、芒か柊、もしくは闘技場自身だけなのだから。
「君はとても興味深い。どうかな、このあと一緒に食事でも」
芒は小さな声で問いかけた。押し付けるその手にはほとんど力は入っておらず、足の使えない柊が倒れないように支えている、と言った方が近い。
それをチャンスと見た柊は、芒の手を振り払おうと両手で彼の腕を掴む。しかし今度は破裂音ののち、背をつける壁に両手は叩きつけられた。
力なくブランと手を下ろす。今度は両腕を粉砕されたらしい。
「やれやれ、どうやら君の口から『降参』は聞けなさそうだし、とりあえずこれで終わりにしようか」
芒は首を掴んでいない、空いている手を広げると、ゆっくりと、柊の額に触れた。
その瞬間、芒は強烈な睡魔に見舞われ、意識を掠め取られた。