秋の春
彼女の姿を初めて見たのは、後期になってから。
全学部共通科目であった、『社会人類学』の講義中だった。僕の所属する経済学部は生徒が全部で二百人近くいて、当時一回生だった僕は、同じ学部の生徒の顔と名前すら碌に把握していなかった。『社会人類学』というのは、【人間が集団になったらこんな事が起きるよー】みたいな学問なのだが、あいにく僕の専門では無いのでそこらへんは割愛しておく。
少なくとも彼女の姿を見かけたのは、その『社会人類学』の時だけだった。
彼女はいつも橙色のネルシャツや深い紅色のパーカーなどを来こなしていて、広い講義室の前から三番目の長机に腰掛け、一人教授の話に耳を傾けていた。
彼女が色白で、美人だったことは間違いない。
ただ、不思議なことに彼女の周りの席にはいつも誰も座ろうとしなかった。『社会人類学』の講義の間、僕はいつも一人教室の後ろの窓際の席に腰掛けた。対して彼女は講義が始まるギリギリ一分前くらいにやって着て、前の方の空いている席に座っていた。そして授業が終わると、スマホを取り出して眺めるとか、友達に電話するとかそう言ったそぶりは一切なく、彼女はさっさとテキストを片付けて一分後には教室を出て行ってしまうのだった。
僕はひそかに彼女のことを心の中で『オータムさん』と呼んでいた。
オータム……つまり秋っぽい服装をしている人ということだ。僕が座る席と、オータムさんが座る席はいつも同じ場所だ。だから僕はいつも彼女の秋っぽいコーデを見ながら講義を受けていた。逆に言えば、彼女に関する情報はそれしかなく、それ以外はほとんど謎に包まれていた。
なんせ彼女が他の生徒と絡んでいるところを見た事がない。
友達や同じゼミの子はいないのだろうか? 『社会人類学』の講義では全学部の生徒が一緒に集まって講義を受けているので、何学部に所属しているかも分からない。教授も生徒にバンバン質問を当てるタイプではなかったので、講義中に彼女の名前が出てくることもなかった。試しに僕は大学のホームページに載っているサークルやゼミの新入生紹介の項目を閲覧してみたが、あいにく彼女の姿はどこにも載っていなかった。おそらくどこにも所属していないのだろう。
「お前にもとうとう、春が来たんだな」
サークルの友達にオータムさんのことを話すと、彼は僕を見てそんな風にからかった。僕は閉口した。確かにこの頃、僕は気がつけばオータムさんのことを目で追うようになっていた。他の講義を受けている間にふと、彼女の姿がないかと探すようになっていた。だけど、からかわれる筋合いは何もない。気になる女の子がいるってのは、健全なことに違いないのだから。僕は開き直って、どうやったら彼女に『お近づき』になれるだろうか? と真剣に考えた。
とは言え、どの学部かも、何ゼミかも分からないのであれば『お近づき』になるのは難しい。いっその事『社会人類学』の講義の時に、彼女の近くの席に座ってみようかと思ったが、教室で何百人もの生徒が見ている前だし、それはなんだか気恥ずかしい。
そもそも彼氏はいるのだろうか。
あれほど顔筋が整っているので、彼氏の一人や二人いてもおかしくはない。この考えは僕を憂鬱にさせた。そして、彼女と仲良くしている他の生徒が周りにいないことも不思議だった。他の生徒も、なんなら教授でさえも、オータムさんのことがまるでそこにいないかのように振る舞っているかのように見えた。
もしかしたらオータムさんは『モグリ』かもしれないな、と僕は思い始めた。
『モグリ』と言うのは、本当はその大学の生徒ではないのだけれど、あたかも自分が大学生であるかのように振る舞って教室に忍び込み、何食わぬ顔で講義だけを受けて帰るという人のことだ。毎回退屈な講義を聞かされる僕からしてみれば、わざわざそんなことをして何が楽しいのかさっぱり分からない。けれど高校生とか、この大学の入学志願の浪人生とか、講義を受けて大学生気分を味わいたいというのであればまぁ分からなくもない。それになんだか『潜入捜査』みたいで、緊張感があってワクワクもするだろう。
オータムさんはその、『モグリ』なのだろうか。
だったら、ウチの大学のホームページのどこにも載ってないのにも合点が行く。他の生徒と仲良くしないのも、『モグリ』だとバレないようになのかもしれない。
次の週の『社会学』の時間、僕はいつものようにいつもの席に座った。そして講義が始まる前、いつものようにオータムさんが一人講義室にやって来て、いつもの前の方の席に座った。教室に入って来たオータムさんは橙色の薄いカーディガンを羽織り、頭には赤朽葉色のベレー帽を被っていた。僕は見惚れていると気づかれないように見惚れた。オータムさんは相変わらず誰に話しかけることもない。僕の中で彼女の『モグリ』疑惑はますます深まっていった。彼女はそんな僕の想いなど露知らず、淡々と机の上に教科書を並べ、やがて一分後には教授が講義を始めた。
このままでは埒があかない。九十分の講義が終わると、僕は思い切って彼女の後をつけることにした。講義中はみんなが見ているし、彼女は一分前にしか教室に来ない。声をかけるタイミングがあるとすれば、講義が終わった後だ。それに、せめて『名前』とか『どのバイト先に勤めているか』くらいは知らないと、会話の糸口さえ掴めないままだ。チャイムとともに、何百人もの生徒がずらずらと教室の入り口から出て行く。オータムさんもテキパキと筆記用具を片付け、紺色のバッグに詰め込み、綺麗な栗色に染め上げられたウェーブの髪を翻し席を立った。
僕は人の波に紛れ、赤朽葉色のベレー帽を頼りに、オータムさんの後ろをこっそりつけて歩いた。何だか心臓がキリキリと痛んだ。自分でも、何をやってるんだろうと冷や汗が出る。仮に彼女が『潜入捜査犯』だとすれば、僕は『尾行犯』だ。だけどこのままだと一生、彼女に声をかける機会さえないままだろう。僕はポケットの中で、スマホを持つ手を握りしめた。
授業を終えた生徒の集団が、教室から離れるほど各々の次の目的地へと散らばり、まばらになって行く。オータムさんは教室棟から出ると、一人大学の敷地内にある外庭に向かった。外庭といっても、教室の集まる棟の向こうには喫煙所があるくらいで、その隣はすぐ金網で仕切られている。タバコでも吸うのだろうかと思い、僕はオータムさんに気づかれないように一定の距離を保って歩いた。
やがてオータムさんが棟の角を曲がった。その角の向こう側が外庭で、普段はほとんど人も集まらない。慎重にならなければ、付けていることがたちまちバレてしまうだろう。僕は一瞬間を置いて、ゆっくりと角の向こう側を覗き込んだ。
「!」
そこで僕は目を丸くした。角の向こう側で、オータムさんがこちらを見ていたのだ! その時の顔を、僕は一生忘れないだろう。オータムさんはフェンスに並ぶように植えられた銀杏の、その中の一つの木の下で、覗き込んだ僕の目と目をバッチリと合わせた。彼女は整った顔に困ったような表情を浮かべ、唇には少しの笑みを携えていた。その瞬間、僕の心臓は氷水を流し込まれたかのように一瞬で固まった。そして、これは断じて僕の見間違いでもなんでもないのだが……オータムさんはそのまま銀杏の木の幹に吸い込まれるように、その場からすうっ……と姿を消してしまったのだ。
まるで狐に抓まれたかのような気分だった。
しばらく僕は、角から顔を半分だけだしたまま立ち尽くしていた。人が、消えた……。
こんな非科学的なこと、誰に話しても信じてもらえないだろう。彼女は銀杏の木の妖精か何かだろうか? それとも僕は、彼女に夢中になりすぎて白昼夢でも見ていたのだろうか。後者の方が正しいような気がした。だけど前者であっても、僕は構わないと思った。
それから次の週のことだった。
僕はさらに驚くべき事態に遭遇した。『社会学』の授業中、やって来たオータムさんの服が、いつもと違っていたのだ。一週間ぶりに姿を見たオータムさんは、薄いピンクのカーディガンを羽織っていた。オータムさんが、秋っぽくない……。似合っていないということではない。むしろすごく似合っている。当然、僕の心臓は早鐘を打った。そして、これもまた僕の見間違いでもなんでもないのだが……オータムさんはいつもの席に座ると、確かに僕の方を振り返り、小さくほほ笑んでみせたのだった。
死ぬかと思った。その日の講義の終わり、僕は再びオータムさんの後をつけた。今度は先週よりもずっと近い距離、ほどんど背中に触れるくらいの距離を歩いた。当然、彼女も気づいているだろう。桜色のカーディガンを羽織ったオータムさんは、教室棟から出ると外庭へと向かって歩き出した。外庭に着くまで、オータムさんは無言だった。僕も話しかけようと思って、何度も言葉を飲み込んだりを繰り返した。なんとなく、話しかけてはいけないような気がした。やがてオータムさんは先週と同じように教室棟の角を曲がった。僕もそれに続いた。そして、今度こそ見間違いでもなんでもなく……スマホで写真も撮ったから確かだ……角の向こうで僕を待っていたのは、桜色に染まった銀杏の木だった。僕は思わずその場に立ち尽くし、ポカンと口を開けてそのあり得ない色に染まった銀杏を見上げた。
オータムさんは僕を振り返り、くすくすと笑った。それから僕がピンクの銀杏に見惚れているうちに、またしても先週と同じく木の幹に近づき、すうー……っとその姿を消してしまった。
それからオータムさんが、『社会人類学』の講義に出てくることはなくなった。
僕は何度か外庭に足を運んだけれど、銀杏の木がピンクに染まっている……なんてこともなく、美しく紅葉を色づかせていた。サークルの友達からは、会うたびにしばしば「お前、この前言ってた子どうなったんだよ?」と尋ねられた。
「それで? 春は来たのか?」
「ああ、来たよ」
僕はそう言って、スマホで撮影した桜色の銀杏の木を見せてあげた。友達は怪訝な顔をしただけだった。立ち並ぶに黄金に染まった木の中で、一本だけ、綺麗に桜のような色をした銀杏。友達は「加工したんだろう」と言って取り合わなかった。僕はそれ以上、反論しなかった。
そう言えば、銀杏の花言葉は確か、「荘厳」「長寿」、それから……「鎮魂」。
チャイムがなり、次の講義が始まった。僕は赤朽葉色のベレー帽を被り直し、次の教室へと向かった。