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ベッドから右手が覗いていた。包帯が巻かれた男の腕だ。
私は読んでいた新聞を机に置き、ベッドの傍らに立った。腕を掛け布団の中に戻し……あることに気付いた。この人、動いたのだろうかと。全身に重度の火傷を負い、意識を失ったこの男がこの一週間で動いたのを見たことがない。ずっと機械に体をつながれたまま、ベッドの上に横たわっている。広い部屋の隅に大人用のベッドが一つ。二人用の部屋のレイアウトを変えたものだ。そして、ベッドには体中に包帯の巻かれた男が一人。呼吸は行えるが、意識は全くない。私はこの人の介護をするために、この病室にいる……ということになっている。勤務経験はないが、看護師の資格を持つ私が付き添うことは病院側も了承済みだ。
だが、それは私の本来の目的ではない。
掛け布団を整え、包帯に覆われた男の顔を見つめた。意識を取り戻したのかと思ったが、いつもと変化は見られない。計測している心拍数にも変化なしだ。包帯の隙間から覗く、焼け爛れた皮膚を見つめながら考えた。
この人は一体、誰なんだろう、と。
それを突き止めるのが、私の本当の仕事だ。
私の名前は末吉十華という。年齢は21歳。看護短大を卒業しているが、看護師の職には就いていない。私は幼い頃からある屋敷で暮らしている。狭間中男という実業家の家であり、古めかしい造りの洋屋敷だ。狭間は貧しい境遇から一代で財を得た人間なので、昔からその家に住んでいたわけではない。だが、私が子供の頃には既にその屋敷を所有していたし、人里離れた森の中にある陰気な建造物は狭間本人の印象と一致していたので、私はどうしても狭間・中男という人物は世界が始まって以来、ずっとあの屋敷に住んでいるように思えてならなかった。
母は屋敷で住み込みの家政婦をしており、私を産んだ。母は子供と屋敷に住むことを許可されたので、私はずっと狭間の屋敷で育ってきた。私は小さい頃、母に尋ねたことがある。私達は二人っきりだから、この屋敷に住まわせてもらってよかったね、と。
母の答えは憶えていない。
娘が言うのもなんだが、母は綺麗な人だった。だが、この時の母が全く知らない……とても年をとった人に見えて怖くなった。私の父親が誰なのか、母は最期まで話してはくれなかった。母は私が生まれる三年前から狭間の屋敷で働き始め、その間に私を妊娠した。不思議だが、それに関しては問題にされていなかったように思う。
屋敷には狭間・中男の息子達も住んでいた。私より二歳年上の一卵性双生児。仕事が多忙なため、彼らの父は屋敷に滅多にいなかった。母は家政婦というよりは彼らの養育係として雇われていた。実際、彼らも私の母を母親のように思っていたようだ。二人とも母の前では仲の良い兄弟のふりをしていたし、母が若くして死んだ時は涙を流して悲しんでくれた。あの二人が寄り添うように座っていたのは、あの時が最後ではないか、と思う。あの時から…いや、その以前から二人の進む道は異なっていたし、その道は決して交差することはなかった。そして、今となっては彼らの生きてきた道は途切れ……そのうちの一人は目の前のベッドに横たわっている。
生き方と髪型以外は全く同じと言って良いほど似た双子の兄弟。
それを見分けるのが私の仕事だ。
「末吉さん、入るわよ。いい?」
ドアがノックされ、女性の看護師が顔を覗かせた。この病室の前には見張りが立っており、医師を除けば病室に入ってくるのは、この黒月という看護師だけだ。私より10歳ほど年上だろうか。すらりとした長身で、美しい黒髪が白衣に映える。心が広いのか、細かいことを気にしない人なのか、私に対しても明るく接してくれる。正直、私は人付き合いの苦手な人間なので、この人が担当なのはありがたく思っている。
「包帯を換えるわ。手伝って」
黒月さんは持ってきた包帯を手に私に言った。
彼女の有難い所は私にも仕事を手伝わせてくれるということだ。普通、実務経験のない人間を実際の医療行為に参加させてはくれない。だが、黒月さんは最初から私に手伝わせてくれた。本人に言わせると少しでも手間を減らしたいだけと言っているが、最初の頃は慣れない私に丁寧に指導してくれた。おかげで一週間たった今ではそれなりに手伝えるようになってきた。
「ごめんなさいね。毎日手伝わせちゃって」
包帯をはずし、薬を塗りながら黒月さんが言った。
「いえ、」
一日中やることのない私にとっては、包帯交換を手伝うことは救いになっている。本来の仕事は全く解決のめどが立たないのだし。
「……この人、あとどれくらい持ちますか?」
焼け爛れた皮膚を見つめながら、知らず知らずのうちに呟いていた。
黒月さんが私を見つめる。探るような視線が頬を撫でた。
「それは看護師の口から言えることじゃないわね。医者に聞くべきよ」
「そうですね」
「でも、貴方くらいの知識があれば、大体のことはわかるはずよ」
「……そうですね」
「答え……早く出るといいわね」
黒月さんの真っ黒な瞳に一瞬、悲しげな光が走ったように見えた。
「答えなんて適当に出せばいいんじゃないの?」
「……そうもいかなくて」
黒月さんが去って、また私は病室に一人、取り残された。いや、一人ではなく二人だ。
私は双子の兄弟のことを考えた。
狭間・中男の息子である、昌東と真西が生まれると同時に彼らの母は死んだ。その後は屋敷に二人っきりで暮らしてきた。正確には私の母と、二歳の頃からは私と一緒に。前にも言ったが、中男は滅多に屋敷にはおらず、森に囲まれた屋敷は二人の……いや、私達だけの空間であった。
双子というのは一方が他方に依存することが多いが、昌東と真西は小さい頃からまるでお互いを憎みあっているようだった。体格や顔は全く同じなのだが、性格や嗜好は正反対。昌東は感情の一部が欠損したように冷静で滅多に外で出歩くことはない。一方の真西は一箇所に座っていることができないほど落ち着きがなく、スポーツ全般に才能を示した。二人は対照的すぎて、同じ屋敷に住んでいても行動に接点がないほどだった。最初は1つの部屋を二人で共有することになっていたが、すぐに別々の部屋で寝るようになった。母もこれに関してはよく怒っていたが、屋敷には部屋が余っており、二人とも怒られると家の中の何処かに「家出」してしまうので、最終的には隣り合った部屋のそれぞれの部屋にすることになった。
全く似ていないということは逆に言えばそっくりということかもしれない。昌東と真西の二人はそれぞれの得意な分野には素晴らしい才能を示したが、執着心というものが全くなかった。恵まれた境遇で育ったために必要とするものを全て与えられていたのもあるだろうし、競争相手に恵まれていないというのもあるだろうが、彼らはそもそも執着というものがない性格だとしか思えなかった。彼らは幼い頃から一人でいることを恐れなかったし、癇癪を起こすと周囲のものを壊しまくった。これは乱暴な真西だけではなく昌東もそうだった。
そんな彼らの唯一執着する存在は……共通して執着する存在は……私の母だけだった。二人にとって母は本当の母親と同じだったし、母の前では二人もおとなしくしていた。
母の葬儀は豪華なものだった。母に蓄えはなく、親戚もいなかったが、葬儀の費用は中男が全て出してくれたそうだ。後で本人に理由を尋ねてみたが、昌東と真西の母親代わりとしてよくしてくれたから、と答えた。そうでもしないと二人が納得してくれなかっただろうから、とも。母の葬儀での昌東と真西の様子は今でもよく憶えている。二人が並んで座っているというだけでなく、二人が並んで泣いているのを見たのはこれが最後だった。二人はその数日間、泣き続けていた。この葬儀は母の弔いというよりは彼らに母の死を納得させるためのものだったように思う。
私は母の死よりも、二人が泣いているという事実に驚いていた。近づくと、二人は私の手を握った。昌東が右手で真西が左手。泣きじゃくる二人の間で私は呆然とあるものを見つめていた。
母が死んだ後、二人の執着の対象は私へと移った。
母の生きているうちから、昌東と真西は私に対しては愛情を示してくれた。元々、母は二人と私を分け隔てなく愛していたし、二人は実の妹のように私に接してくれた。だが、母の死後、行き場を失った子供たちの所有欲は歪み、私へと向かうことになる。その争奪戦は十数年後……今から一週間前に最悪の結果を向かえることになる。
そして、その結果が目の前にいる包帯まみれの男だ。
「貴方は一体、誰なの?」
私は呟いた。もちろん、答えてくれる人はいない。
幼い頃から、私にとって昌東と真西の二人を見分けることは簡単なことだった。
母親よりも長い時間を共にすごしてきた存在だ。見なくともその雰囲気を感じるだけで区別ができる……そう思っていた。
狭間の屋敷は人里離れた森の中にあり、屋敷の前を通る私道は森を抜けて、森の周囲を囲む国道に合流する。業者が食料品を届ける以外は屋敷への人の出入りはなかった。昌東と真西が学校に通うようになれば、その送り迎えは車で行われたが、二人は学校が終わってから友人と遊ぶということはなく、直ぐに帰ってきた。そして、二人が帰ってくるとまた、三人だけの時間が始まるのだ。
昌東は前に述べたとおり、内にこもるところがあった。知識の豊富さには素晴らしいものがあり、彼の部屋(二人が別々の部屋になってからの話だ)に並んだ百貨辞典をいつも読んでいた。彼の知識に関しては特徴があり、それは一つに繋がったものを憶えるのが得意ということだ。規則正しく事柄が並んでいるもの……彼の愛読書である百科事典もそうだし、電車の路線、地名、星の名前などを憶えることに彼は執念を燃やしていた。彼は私に行ったこともない土地を走る電車のことについて話してくれた。おかげで今でもニュースで流れる、見知らぬ地名に懐かしさを憶えることがある。
昌東は物事が秩序だって並んでいないと気がすまなかった。彼の部屋はまるで一度を抜いたことのないように本が棚に並んでおり、チリ一つ床には落ちていなかった。一度、真西が彼の部屋に入って百科事典を…ちょうど昌東が読んでいた巻を持っていった時の、昌東の怒りといったら凄まじいものがあった。部屋中のものをひっくり返し、残りの百科事典を捨ててしまった。彼は私にさえ本を触らせなかったし、特に真西に触れられるのは我慢がならないようだった。真西は昌東の怒りを敏感に感じ取って姿を現さなかったので(ちょうど、学校が夏休みだったのが助かった)、直接、二人がぶつかることはなかったが、それでも昌東の怒りは休み中、続いた。
一方、真西は、これほど秩序という言葉から縁遠い人間もいないだろう。昌東に見られる潔癖さは彼には全く見られず、彼の部屋は荒れ放題だった。いや、彼にとってはそもそも自分の部屋自体が必要なかった。彼は必要なものは常に現地暢達ですませることができた。空腹になれば勝手に台所や食品庫から食品を持っていくし、周囲の森の何所に食用となる果実や動物がいるかを知り尽くしていた。昌東の方はたまに気紛れを起こして姿を消しても、いる場所が限られているので探しやすかったが、真西の方は本当に誰にも見つからない場所に行ってしまう可能性があった。彼が自分の部屋を必要としたのは、野生動物が自分の巣穴を持ちたがるのと同じで、身の危険を感じるならばそこに寄り付かないのも当然だった。それに彼にとっては屋敷の周囲の森全体が自分のテリトリーと言っても良かったのだから。
私は森に真西を探しに行った日のことを思い返した。昌東を怒らせたために真西が姿を消してから2日。真西(昌東も含めて)の奇行には慣れている使用人達も心配になってきたらしい。私は一人で森に入った。誰か大人がついていけば、姿を見せないだろうことは、周囲の大人達もわかっていた。私は方向感覚に優れた人間ではないが、物覚えは良い方だ。昌東が見知らぬ土地の路線を教えてくれたように、真西は森の中の道を教えてくれた。真西にとって森は歩き慣れた迷路のようなもので、私はその中の経路を一つだけ憶えていた。だが、彼がその経路上のどこにいるかは検討がついた。
夏休みの森は緑色の光に包まれて、まるで川の中を思わせた。夏の川は緑色が増し、水中から見上げると水面に光の波が見える。地面から見上げた木々の葉は水面の細波のようだった。森の中には付近の川にそそぐ小さな水源があり、私は水辺の岩の上に腰を下ろして木々が波打つのを見つめた。しばらくすると、真西がやってきた。白いシャツはボロボロになり、裸足だった。そして小わきに手製の釣り竿を抱えていた。
「十華か」
「うん」
「何しにきたんだ?」
「……探しに」
私は隣に腰を下ろした真西の問いに答えた。風呂には入っていなそうだが、不思議と匂いはしなかった。夏だから泳いでいたのだろうし、彼の匂いは森の匂いに溶け込んでいた。
「石鹸の匂いがするな」
彼が私の髪の匂いを嗅ぐ。
「大変だったんだよ。真西が怒らせるから」
指先がふやけちゃった、と私は少し皮膚のめくれた指先を見せた。
「ふうん」
真西は気のない返事で私の匂いを嗅ぎ続けた。そして、思い付いたように言った。
「服脱げよ」
私がいやがる素振りを見せても彼は自分の服を脱ぎ始めた。
「早く」
「……うん」
言われた通りに服を脱ぎ、水源の中に足を浸した。
「昨日、でかい魚を見たんだ。今日こそは捕まえてやる」
私の手を引っ張る。
「うん」
泳ぐのは嫌いじゃない。森の水の中に身を浸すのは屋敷の風呂とは違った楽しさがある。水の色が違うし、匂いも違う。そして、隣にいる存在も。気がつくと真西は私の体を抱き締め、体の匂いを嗅いでいた。
「石鹸の匂い、嫌い?」
真西は無言で頷いた。
「心配しなくても、すぐに消えちゃうよ」
私は答えた。
暫くしたら家に戻る、と真西は言った。
もとより彼が素直に戻ってくるとは思っていない。屋敷の使用人にも無事かどうかを確かめられればそれでいい、と言われている。薄情なようだが、真西の相手はこれくらいのペースでなければ勤まらない。夜になって屋敷に戻ると昌東が待っていた。黙って玄関ホールの椅子に座って本を読んでいたが、私に声をかけて欲しいことは明確だった。不機嫌な時の彼は黙って爪を噛んでいる。
「ただいま」
使用人たちに真西のことを報告した後、私は昌東に話し掛けた。
彼は溜息をついただけだった。そしてこう言った。
「汗臭い」
「ごめん」
体、動かしたから、と私は答えた。真西もそうだが、昌東は自分に反論されるのを嫌う。そして、そのくせにいつも何かを不安がっている。問題が生じた時、真西は力ずくで解決しようとするが、昌東はふさぎ込む。
「お風呂、入るね」
彼は無言だった。
「髪の毛……洗ってくれる?」
仕方ないな、と昌東は呟いた。
比較すべき常識がなければ、自分達のことを異常だとは思わないものだ。私が小学校の高学年になって、あの事件が起きるまでは周囲の大人達も私達3人の歪な関係に見てみぬ振りをしていた。洞窟に住む怪物に生贄を捧げるように、手につけられない……だが、権力だけは持っている二人の少年に対して、誰も真剣には向き合おうとはしなかった。
私はこの時のことを何も憶えてはいない。この頃、中学生に進学した昌東と真西を含めて私達三人は殆ど学校には行っていなかった。後から聞いた話では、私は屋敷の玄関で倒れているのを発見されたらしい。私は全裸で、体には男性の体液が残っていた。
その時、屋敷には中男がいた。
彼はすぐさま息子二人を私から遠ざけることを決断した。息子二人は中学校へは殆ど行っていなかったので、別々の全寮制の学校へと編入するのに、本人達の意思を除けば困難はなかった。昌東と真西は屋敷を離れることを嫌がったが、中男は許さなかった。中男という人物が、これほど動揺した様子を見せたことはなかった。息子達に厳しい言葉を使ったことも。
最終的には荒っぽい手段を使って、父親は息子達を従わせた。新しい学校では専属のカウンセラーが付き、基本的な社会常識から身に付けさせることになったらしい。今から思えば、もっと早い段階から行なってもよい処置ではないかと思う。
私にもカウンセラーがついたが、そもそも私は事件のことを殆ど憶えていなかった。カウンセラーは誰か知らない男に襲われたのだと私に納得させようとした。決して、兄弟のように育ってきた少年のどちらかにレイプされたのではない、と。
だが、私は事件のことを1つだけ憶えていた。
あの兄弟に共通する匂い。それがあの夜、私の傍にあった。
私が屋敷に残ることは、兄弟が出した条件だった。
これが聞き入れられなければ、話はもっとこじれただろう。事件の後、中男は使用人を全て解雇した。私は新しく雇われた最低限の使用人と共に屋敷に住むことになり、彼らから屋敷の主人のように扱われた。それは中男の指示であったらしいが、彼もそれまで以上に屋敷には帰ってこなかった。この頃、彼はビジネスでのトラブルを抱えていて手が離せなかったそうだが、それだけが理由ではなかったはずだ。
兄弟の方も滅多には帰ってはこなかった。二人が帰ってくる時は何故か必ず同時で、二人は顔を合わせると同時に喧嘩になった。私との接触は付き添いの使用人達の手によって制限されていた。それでなくても、兄弟がお互いに牽制しあっているので話などできそうになかった。私は彼らに対して恐怖心は抱いていなかった。ただ、彼らと昔のような関係を持つことはできないのだということが悲しかった。
いつの間にか月日は過ぎ、昌東と真西は大学へと進学した。
豊富に金が使われたとは言え、彼らの学歴は立派なものだ。だが、どれだけ彼らの教育に金がつぎ込まれようと、本質的な部分で彼らに変化はなかった。
昌東はその明晰な頭脳を学業でも発揮した。科目によって好き嫌いが激しく、理系科目は成績が悪い……というより、全く勉強しなかったらしいが、それでも優秀な成績で進学し、大学では歴史学を専攻した。1つの事柄に執着する性格は研究者としては適しているらしく、大学時代から担当教授には将来を期待されたそうだ。連続した事柄を好む彼は、時代の流れの空白を埋めていく作業をこの上もない喜びとして感じていた。ただ、細部にこそ神が宿るというが、歴史を研究するには普遍的で大きな視野も必要ではないかと思う。事実を明らかにするだけではなく、そこから何を学び取るかも重要なのではないかと思うのだ。
その点で昌東の視野はあまりに狭く、その関心は他人から理解されにくいものであった。
彼は大学の研究室のテーマとは離れて、独自に研究を始めた。教授からは再三、注意を受けたらしいが、彼は譲らず、結局、大学を辞めてしまった。彼の興味の対象はある地方の町の歴史であったので、大学に所属しなければ研究できないわけでもないのは確かだった。
彼がまとめたその地方の郷土史を見せてもらったことがある。
その町では絶賛を浴び、町の図書館や役場に冊子が何冊も置いてあるというその内容は、彼の性格そのままに全ての事柄が同一の価値で只ひたすらに列挙されていた。それを読めば、その足を踏み入れたこともない小さな町の歴史について事細かに知ることができた……だが、それ以上でも、それ以下でもなかった。
真西の大学進学に関しては学業ではなく、金とコネを使った面が多かった。だが、彼は高校時代からその運動能力を生かして、様々なクラブに参加し、その活躍を期待されていた。
……期待されただけだった。
小学校レベルの学習でも習得に時間がかかった彼だが、スポーツに関しては物覚えが良かった。だが、協調性が全くないので集団で行なうスポーツは揉め事を起こして辞めさせられた。テニスのような個人競技でも才能を示したが、人から学ぶということを嫌うので結局は良い成績を得られなかった。最初の頃は良いのだが、すぐに攻撃パターンを研究されて負けてしまうのだ。それに一度負けるとすぐにやる気を失ってしまう。そして、地道なトレーニングを嫌うので、陸上競技のように自身の記録を高めていく競技も長続きしなかった。
彼はありとあらゆるスポーツクラブに参加し、その優れた身体能力でチームメイトや指導者に期待を持たせ……そしてやる気を失うか、揉め事を起こして退部した。彼の場合、行動が活発な分、多くの人と接し、トラブルの種を振りまいた。大学中に敵を作り、結局、飽きて退学した。
大学を辞めたのは真西の方が数年早かったが、二人が故郷に戻ってきたのは同時だった。
それは彼らが故郷に帰るのを阻害していた父、中男が死んだからだった。
狭間・中男という男について少し説明しておきたいと思う。
彼は弁護士からビジネスの世界に入り、一代で富を築いた。莫大な金を持っているはずだが、いつも安物のスーツを着た、貧相で痩せた男……それが私の印象であり、彼を見た人の大半が抱く印象だろう。天才的な投資家であるとか、決して損をしない神がかり的な感覚を持っているとか、彼に対する評価は凄まじいものがある。だが、実際に目にした彼の外見からそのような言葉を思い付くことは困難だろう。若い頃には何度か暴力事件を起こし、逮捕されたことがあるという話だが、私が知っている限りの彼はまるで感情が枯れ果てたような印象しか受けなかった。
私が小学生の頃、ビジネスで被害を受けた人物が屋敷まで押しかけたことがある。その時、中男は出勤のため車に乗り込もうとしていたが、足元にすがりついて懇願する自分より年上の男に対して彼は目立った反応を示さなかった。怒鳴りつけるわけでもなく、無視するでもなく、一瞬だけ心底嫌そうな表情を浮かべた後、うつむいて車に乗り込んだ。迷惑だから、二度と来ないように、と言い残して。ここには子供もいるんだから、と。
中男の車が去った後、押しかけてきた男は使用人によって退去させられた。その時に彼が私を睨んだ眼を今でも忘れることができない。
多くの人間を動かし、また恨まれる存在でありながら、中男は上に立つと言うよりは何らかの命令を黙々とこなす末端の人間のような雰囲気を漂わせていた。彼にしか聞こえない命令に、だ。メディアには滅多に姿を現さない彼だが、若い頃に雑誌の取材を受けたことがある。
その記事で、金儲けの秘訣を尋ねられた彼はこう答えている。
「何も欲しがらないことだ」、と。
本当に欲しい物は何も手には入れない……私の場合はそうだ、と。
雑誌に掲載されていた若き日の中男は彼の息子達に本当によく似ていた。
彼の妻は地元の名家の娘で、わがままなだけでなく、精神的にも不安定な女性であったらしい。弁護士時代の中男は彼女の父親が経営する会社の仕事を担当し、彼女と知り合ったそうだ。若くして数度の離婚歴を持つ彼女との結婚は一族の厄介者を引き受けさせられたものであるようだが、これによって彼は彼女の一族とのつながりを手に入れた。ただ、名家と言っても、当時、会社の経営は傾いており、それを立て直すために中男は予想外の経営の才能を発揮していくことになる。
息子達の性格は母親譲りだと使用人達は噂していたが、私はそうではないと思う。昌東と真西の極端な個性は父親から別れて出てきたものだ。彼らの母親が果たした役割は中男の混沌とした個性を二つに分ける触媒としてのものだろう。
中男の妻は子供を産んだ直後に死んだ。中男は義父の会社から独立して、次々と事業を拡大していったが、彼は妻の一族とのつながりは維持し続けた。それは彼のビジネスの助けになったらしいが、今回の一件ではそれが問題を引き起こすことになる。
「恐ろしいのは人間同士のつながりだよ」
そう中男が私に言ったことがある。彼が死ぬ数ヶ月前のことだ。
この頃、中男は屋敷にいることが多かった。彼は肉体的には非常に健康で、虫歯の1つもない人間だったが、精神的な疲れが出たのだろう、と本人は周囲に言っていた。あの性格で今まで精神的に不調にならなかったほうが不思議だよ、と古くから狭間家にかかりつけの医師は言った。
「貴方に怖いものなんかあるんですか?」
先の言葉は私の質問に答えたものだ。私は短大を卒業したが、就職はせずに屋敷で暮らしていた。使用人も通いの者しかいなくなり、屋敷の家事は私が主に行なっていた。
「あるに決まっている」
経済新聞に赤ペンでチェックを入れながら彼は答えた。人間同士のつながりだ、と。
「経済も社会も人間同士のつながりで動いている。特に血縁関係は予想外の働きをする」
彼は傍らの手帳に図を書き入れた。これは彼が考え事をするときの癖だが、何が書いているのかを判別できる人間は殆どいない。彼は独り言のように呟きつづけた。
「家族だというだけで人は予想外の行動をする……結局は他人同士なのにな」
「貴方にだって家族がいるじゃないですか」
「……私は1人だ」
「そんなことはありませんよ。昌東や真西がいるじゃないですか」
私は彼の肩に手を置いた。だが、彼には私の言葉は聞こえていないようだった。
「家族は人を束縛する。私の兄もそうだった。死ぬまで私を束縛しつづけた。死んでからも私を束縛する。……私は自由じゃない」
「そんなことありませんよ」
私は彼の肩に手を回した。中男は言葉を止め、私の手に触れた。
「君もいつかはあの二人のどちらかと、この屋敷から去っていくのだろうな。私を置いて」
「私はずっとここにいます」
寂しいんだな、と私は思った。彼の言葉の意味がわかったのは、もっと後になってからだ。
中男が死んだのは秋の終りのことだ。
屋敷に戻っていた彼は、夜半に1人で外出し、森の外れにある高さ20m程の崖から下の川へと飛び降りた……とされている。川の流れは激しく、曲がりくねっている。今年の夏も大雨で土砂が崩れ、補修工事が行なわれようとしていたばかりだった。大規模な捜索にも関わらず、遺体は発見されなかったが、崖の上には彼の靴が残されていたので、自殺と判断された。
その死は突然ではあったが、彼は遺書と別に後のことを細々と指示した文章を残していた。意外にも中男は部下を育てるのが上手く、経営する複数の会社は既に部下達が実際の経営を任されていた。会社に関してはその部下達に経営を譲り、決して息子達には関わらせないようにしていた。ただ、彼が所有する莫大な株式はそれらの社の行く末を左右できるものであり、それらの相続については遺言状を開封するまでわからなかった。
昌東と真西が帰ってきた日のことは忘れられない。
彼らが帰ってきたのは、中男の遺体の探索が打ち切られた日だった。
二人は全く同じ時間に車に乗って帰ってきた。対照的な二人だったが、1つだけ共通した趣味があった。車だ。昌東はその構造に興味があり、真西はただ乗り回すことが好き、という違いはあったが、彼らはその愛情を自分の車に注いでいた。彼らはお互いが車に関心があることに気付いていなかった。事情を知っている私にしても、彼らが二人とも同じ車を購入しようとしているとは気付いていなかった。
その日、屋敷の前に全く同じ二台の車が並んだ。
マリッティマ=フラスカーティという、そのイタリア製の車の最新モデルは長い名前の他にも美しい流線型のボディと膨大な排気量を持ち、そして購入には莫大な金額が必要だった。この国に数台しか輸入されていない代物だったが、昌東と真西は全く別のルートからそれを手に入れた。
二台の車で異なるのは車体の色だけだった。元々は黒色の車体であったが、昌東は青、真西は赤色に塗り替えていた。それによって元々の優雅さが失われていたが、区別がつくのは良いことだ。
森の入り口で二台の車は合流したらしい。お互いに相手の車のことは知らなかったが、一目でお互いのことに気付いたようだ。そこから競走が始まり、二台の車は全く同時に屋敷に着いた。昌東は車の構造を理解し、真西は全くの勘のみで操縦していた。だが、二人の走り方は全くの互角だった。計算して行なおうが、勘で行なおうが、導き出される結論が同じであれば、区別などつけようがない。そして、二人の運転は同程度に安全性を度外視していた。
昌東は青白い肌で、真西は日に焼けた肌、一方は定規で測ったように切りそろえた髪で、一方は無造作に後ろでくくっていた違いはあったが、体格から髪の長さまで二人はそっくりであった。彼らの父親の若い頃にも。彼ら二人が私を見つめた時、私は思った。
ああ、やはり似ているな、と。