47.[1年夏/第二戦] 嫌いになれるわけがない
あたしは瑠璃を抱きしめながら、
「村松くん」
もう一人の護り手へと顔を向ける。
そう、彼も……。
「瑠璃と同じくらい、あんたもあたしにとって大切な人」
瑠璃みたいに抱きしめてあげられない代わりに、
「あんたにゃ助けてもらってばっかりだね。今までホントにありがとね」
涙でくしゃくしゃなんだろう顔を出来る限り笑顔にして、あたしは村松くんに感謝した。
これであたしのすべきことは、出来ることは全部やった。
あとはどうなっても、きっと後悔しない。
(唯一心残りがあるとしたら、それは多分……)
そんな風に少しずつ気持ちを整理していたあたしを、村松くんが現実へと引き戻す。
「高坂、一つだけ聞きたい」
その言葉はさっきまでとは違う、力強さを感じさせた。
だからあたしは思わず村松くんを見つめる。
(え……)
そして驚かされる。
だって彼のその目は今日見た中で一番力強かったから。
村松くんは不屈という言葉が相応しいほどに強かったから。
「高坂はどうしたいんだ?」
それは目だけじゃない。
責めるように、逃げ道を塞ぐように、村松くんの言葉があたしを突き刺してくる。
「対抗戦を続けたいのか止めたいのか、お前がどうしたいのか、俺は知りたい」
その言葉にも力強さを感じさせる。
ついさっきまでの心ここにあらずな彼とは思えないほど、声に感情が篭ってる。
「瑠璃……次第」
唖然としながらあたしは何とか村松くんに言葉を返すのが精一杯で。
そう口にして、瞬時に彼の新たな変化を感じ取る。
わずかに潤みだした眼差しであたしを見つめる彼のその目に、
「違う! 俺は高坂弥生が対抗戦を続けたいのか続けたくないのか、そう聞いたんだぞ!」
震える声を絞り出す彼の心からの叫びに、嬉しくも懐かしい『クラス委員長』村松一太の姿を。
その姿がこんなに懐かしいなんて。
その叫びがこんなに嬉しいなんて。
(だけど村松くん、喜べないよ)
「何で……何であんたが泣いてんのよ……」
彼の涙がこんなに嬉しいから。
だからあたしは喜べなかった。
「泣かないでよ、村松くん」
隠そうともしない、あたしをじっと凝視する彼の目から、こぼれ落ちる涙。
「俺は……俺たちはお前の護り手だぞ!」
嬉しくて胸を締め付けるその涙はあたしの心の中を、そして彼の心からの叫びはきっとあたしの腕の中の彼女を突き動かしたんだ。
「……護り手」
腕の中からかすれるような声がした。
白いタオルを頭から引き剥がし瑠璃があたしの顔を見つめていた。
痛々しく赤に染まった左の頬。
今朝と同じように真っ赤な目は、だけどその中に少しだけ意志を感じ取れるような気がして。
何よりも真一文字に結ばれた口が体現してる。
瑠璃の内に渦巻いた色んな感情を、彼女自身が彼女の意思で消化し始めてるって。
だからあたしを見つめる二人が、さっきの二人じゃないような気がして。
「……村松くん」
真っ赤な瑠璃の目を見つめながら、だけどあたしは村松くんに、自分でようやく一つ胸にすんなり入ってきたそれを、そっと二人に告白する。
「あたしさ……みんなから不屈不屈って言われてるけど、案外気に入ってるかもしんない」
「俺は沢木がくれた『戦姫の護り手』ってあだ名、気に入ってるぞ」
そう間髪入れずに返す村松くんの言葉に、瑠璃の目は大きく見開かれて、
「だってさ……瑠璃」
あたしがそう言うと、瑠璃はあたしの体に手を回して抱きついてきた。
真っ赤な目は見えなくなったけど、あたしには分かる。
瑠璃の目はきっともう、虚ろじゃなくなってる。
そして瑠璃は生き返りはじめてる。
「期待に応えたいとかじゃないよ? でも……想いは裏切りたくない」
だからあたしもあたしらしく、胸の想いを二人に告げた。
「あたし……止めたくない。馬鹿で……不屈の戦姫だから」
「弥生さん、馬鹿ね……」
あたしの胸から再び声が聞こえてくる。
懐かしさがこみ上げる。
弱々しい声の中に感じ取る確かな意志と懐かしさ。
だから思わずあたしと村松くんは互いに涙まみれの顔を見合わせる。
「弥生さんはどうして……」
声が聞こえる度に、涙が筋となって頬を伝っていくのが、自分でもわかる。
腕を目に当ててゴシゴシこする村松くんもきっと同じなんだろう。
「どうしていつも……そうなのよ……」
人って泣くのは悲しい時だけじゃないから。
嬉しくても涙が溢れてくるから、
「……そうだぞ」
あたしを見つめる村松くんは真っ赤な目を細くしながら、続いて聞こえてくる瑠璃の声を聞きながら、とびっきり優しい顔でそう答えた。
「これじゃ弥生さんの事」
そして瑠璃が顔を上げる。
あたしが待ち焦がれて、諦めて、でも諦め切れなくて。
「嫌いになれるわけなんて……ないじゃない」
心から捜し求めた沢木瑠璃。
それがあたしの胸の中に、いた。
「……どこ行ってたのよ。おかえり、瑠璃」
あたしはそう言って、力一杯瑠璃を抱きしめた。
今までずっと、あたしから離れていった人が戻ってくることなんてなかった。
「ただいま……弥生さん」
だけど瑠璃は帰ってきてくれた。
ただそれだけで十分だからもう言葉にならなくて、あたしはただただ泣きじゃくった。
そんなあたしを樹里先輩がそっと、瑠璃ごと包み込むように優しく抱きしめてくれる。
「高坂さんありがとう。これからも馬鹿な妹のこと、よろしくお願いね」
「おかえり沢木」
そして遅れて村松くんが瑠璃に声をかけた。
彼にもう涙はなかった。
だけどさっきまで泣いていた事を隠しきれない真っ赤な目が瑠璃をじっと見つめる。
「村松くん……私」
瑠璃が何かを言おうとするのを遮るように、村松くんが笑いながら語りかける。
「お前がさっき呟いた疑問。俺が答えを教えてやるぞ」
「疑問?」
その言葉に瑠璃が、そしてあたしも瑠璃に続いて村松くんを見つめる。
「高坂はどうしていつもこうなんだ、って疑問。戦姫の護り手なんだからそれくらい知っとけ」
村松くんが瑠璃の頭にそっと手を当てて、小さく左右に揺する。
そして溢れんばかりの笑顔で言った。
「想いをその背に負ったら、こいつはとことん不屈になるんだぞ」
言いながら村松くんは、今度はあたしの頭をがしがしと揺さぶってくる。
その振動がこの上なく心地よくて、涙と笑みがこぼれて止まらなかった。
樹里先輩の抱擁から解かれ、そして村松くんに引き上げられるようにあたしと瑠璃は立ち上がる。
村松くんと瑠璃はじっと見つめあったまま。
状況を察したあたしは、瑠璃の背中にそっと手を当てて前へと押し出す。
と同時に樹里先輩に、背中から再び抱擁される。
優しいぬくもりに包まれながら、あたしは樹里先輩と二人を見守った。
「沢木は居なかったから知らないかもしれないけど、春の第二戦でも高坂は同じような事やったんだぞ」
「料理対決のとき、かしら」
「そうだよ。あの時に高坂は不可能を可能にしようと、一人諦めずに動こうとしたんだよ」
「それって割れた卵の」
「ああ……そうだぞ」
懐かしいことを村松くんが口にする。
あれが切欠であたしと瑠璃の距離はぐっと縮まって、あたしと村松くんの間には信頼が生まれて。
思い返せば、高校に入ってからたった四ヶ月だけど色んな事があったんだね。
「それで周りが触発されて、あとはお前も知ってのとおりだ」
そんな懐かしさを感じていたあたしを、村松くんがじっと見つめていた。
悩むような苦しむような、それでいて今朝の彼とは全く違う。
「……ここから先は俺の仕事だったんだな」
ね、この男、律儀なんだもん。
あの頃のクラス委員長村松一太の顔がそこにあるから、あたしは何も心配しない。
そして村松くんは瑠璃の両肩に手を当てて、気合を注入するように言う。
「沢木、そろそろ本格的に戻ってきてもらうぞ!」
何が起きたのか分からず大きく見開かれた瑠璃の目をじっと見つめながら、村松くんは言い聞かせるように言った。
「良いか沢木! 俺とお前はなんだ? 学食で何を決めた? 武本先生やクラスのみんなから何て言われた? そもそもお前が言い出したんだ、忘れたとは言わせないぞ!」
まくし立てるその言葉一つ一つに思い当たる節があって、思い出される幾多の場面があるから、あたしは瑠璃を見つめる。
それは瑠璃にしても同じ事に違いない。
村松くんの目を見つめ返しながら、瑠璃はゆっくりと力強く言った。
「ええ、戦姫の護り手よ」
「そうだ、俺たちはここに『戦姫の護り手』として来たんだぞ」
彼は怒ってる。
それもこの上なく。
「その護り手が何だよ……お嬢様や弓削にコケにされて、護るべき相手に気を使わせて、あんな写真取る破目になって」
「……ええ」
「挙句に今高坂に何て言われた?」
「ありがとうなんて……私、最低ね……」
「お前だけじゃない、俺もだぞ」
だけど叱りつける村松くんの顔はどこまでも優しさに溢れてる。
何も心配なんて要らないのよ。
元々息のあった二人だもの。
あたしを引っ張ってくれる二人だもの。
立ち直ったなら、あとは二人で支えあってくれるのは間違いない。
『一太もあの女子も、自分は戦姫の護り手なんだって自分で言ったんだ』
(そうだね灰色)
『なら、護り手としてのあいつらの顛末を、あんたはただ見守っりゃいいんだよ。どっちに転ぼうとも、な』
(だからあんたの言うとおり、あたしはずっと見守るよ)
「だけどな沢木、嬉しい事に我らが戦姫は不屈だから」
「私たちに汚名返上のチャンスをくれたのね」
(でもさ灰色)
「高坂……続けるんだな?」
「弥生さん……続けたいのね?」
(二人はそれを許してくれないんだけど、ね)
心の中で苦笑して、あたしは二人を見つめる。
そして、大きく一度だけ頷いてみせる。
「よし! そうと判れば」
「作戦を練り直すわよ!」
もう何も心配ない。
ここからあたし達の夏開催第二戦が始まるんだ。
頭の中には灰色や亜麻色のそよ風といった規格外の科学部部員、更にはお嬢様やメイドさんの顔が浮かび上がる。
(あれ……? 何か忘れてる)
灰色、亜麻色のそよ風、お嬢様、メイドさん。
「あ……お嬢様」
何もはっきりしてない。
まだ始めちゃダメ、このままじゃダメ。
「待って! まだ終わってない!」
瑠璃と村松くんがあたしを見つめ、樹里先輩があたしの言葉に続く。
「そうよ瑠璃。余計なお世話かもしれないけれど、貴女には村松くんに言うべき言葉があるはずよ」
あたし達が口を揃えていう事に瑠璃は何かを思い出したかのように、村松くんへと向きなおした。
沢木瑠璃、一世一代の大仕事が残ってる。
見守っててあげるよ。
あたしと、あんたの素敵なお姉さんと、二人でね。
「村松くん」
再び見詰め合う村松くんと瑠璃。
「一言だけ言わせて」
顔を赤らめる瑠璃を見る村松くん。
その様子にやっぱり変わりはない。
動揺のドの字も見せないあんたはよっぽどの鈍感か。
「村松くん、私、貴方のことが好き」
或いは……もう気付いてんでしょ。
「そう……か」
「返事なんていらないわ」
なんとも曖昧な反応しか見せない村松くんに、瑠璃が苛立つ様子はない。
それは憑き物が落ちたような瑠璃の表情が全てを物語ってる。
「ただ私の今の気持ちを知ってほしいだけ」
そうだね。
あんたの恋は今ようやく始まったんだもの。
終わってなんかないんだもの。
「それと、この感情のせいで弥生さんに、そして村松くんにも色々と迷惑を掛けたわ。だから……」
再び俯き加減になった瑠璃を心配するあたしをよそに、村松くんはとことん優しかった。
「高坂、何か迷惑こうむったか? 俺は沢木が何を言ってるのかさっぱり分かんないぞ」
やっぱりこの男は全てを理解してる。
それでいてこの反応。
(あんた優しすぎよ。そりゃ惚れるってなもんよ。瑠璃もお嬢様も)
なんて内心思いつつも、今はどこまでも優しい村松くんに合わせる。
だから、あたしも笑いながら言った。
「そーだよね、あたしも瑠璃が何言ってんのか分かんない。めーわくってなんだろね」
瑠璃はあたし達の反応に、目を大きくして驚いていた。
だけど溜息をつきながら優しく微笑む。
「貴方たち……馬鹿ね、もう」
それが今までの瑠璃だったから、あたしは思わず口にする。
そして村松くんも。
「おかえり、瑠璃」
「おかえり、沢木」
「ええ。ただいま、弥生さん、村松くん」
ようやくあたし達はスタートラインに戻った。
そんな感動的なシーンは無気力男によって打ち破られる。
「ところで村松、俺は腹が減った。この辺りで食事にしようではないか」
あっけに取られたのはあたしだけじゃなかったみたい。
瑠璃も樹里先輩も口を大きくあけて呆れ返っていた。
ご指名を受けた村松くんだけが何とか反応できたようで……。
「え? ああ……そうですね……はは」
動揺丸出しだったけど。
もっとも、南川先生にはそんなこと関係ないみたい。
カメラ片手にネクタイを緩めつつ先生は続ける。
「村松と俺はその辺りで食事の出来るところを探してくる。沢木姉、お前は高坂と沢木妹を見ていろ」
この炎天下、なにゆえ村松くんが労働に回って、あたし達は休憩タイムなのか。
「せんせ、あたしも探します」
「村松くんだけだなんて、そんなの不公平だわ」
瑠璃も同じように考えてたみたいで、あたし達は口々に反論した。
だけどそれが認められることはなく……、
「高坂、沢木妹。しばらくお前達は休んでいろ。特に高坂、お前は少し休んだ方が良い」
むしろあたしはご指名まで受け、休憩タイムを強要されてしまった。
でもさ……こう言われると何も言い返せないよね。
「教師としての助言だ、いいな?」
そして背を向けた南川先生。
あたしは背中を見ながら考える。
考えてもみれば先生だって、ずっとあたし達を見守ってくれてた一人だった。
動くに動けないし口を出そうにも出せない。
あたし達のそんな微妙な問題を、教師っていう微妙な立ち位置にいながらも、先生は見守ってくれてた。
「せんせ!」
だからあたしは大声で呼び止める。
村松くんを引き連れて、厳しい日差しの中を歩き出した南川先生を。
「ありがとうございました!」
そしてもう心配させないように、心からの感謝を込めて笑顔一杯で言う。
立ち直った瑠璃と一緒に。
「ん……俺は感謝されるような事など何もしていない」
相変わらず取り付く島もない先生だったけど……。
「沢木姉、二人を頼む。では行こうか村松」
感情を見せない南川先生の顔に、嬉しそうな笑みが見えたような気がした。