44.[1年夏/第二戦] 喪失
10時50分。
「奈良公園はこれくらいか? あとはここから離れることになるぞ」
あたしからメモを受け取った村松くんが言うとおり、ここから本格的な移動になるだろう。
バスや列車を使うことになるから、目的地選びは慎重にいかなきゃいけない。
「村松、非常に申し訳ないんだが俺から1つ注文をつけて良いか?
罰が悪そうな顔で言う南川先生は、ちょっと躊躇いがちに続ける。
「俺は……法隆寺を、見てみたいんだが」
「南川先生!」
猿沢池でのやり取りが思い出される。
だけど今度のそれは行き先を左右しかねないかなり踏み込んだ要求だった。
とは言えそんな事情を知らない村松くんはあっけらかんと言うのだ。
「んじゃ次は法隆寺にしましょう」
「村松くん、貴方まで!」
そして何故か南川先生の意向を汲んだ村松くんまで怒られる。
「でも、どっちにしてもここにはもう目的地がないですから」
だけど村松くんも譲らない。
「先生に言われて選ぶ手間が省けたくらいですよ」
とは言え強気に出たように見える村松くんの相手をしてくれる人はもういなかった。
「貴方は教師なんですよ! 何を考えてそんな行動をするんですか!」
樹里先輩は聞いちゃいないわよ。
「しかしだな沢木姉」
南川先生も聞いちゃいないし。
「言い訳は結構です!」
「折角ここまで来たんだ」
「先生!」
2人とも聞いている余裕がない、が正解だと思う。
南川先生はこっ酷く樹里先輩に叱られてたから。
しばらく掛かるだろうから2人は放っておこう。
「まぁ法隆寺でいいんじゃない?」
村松くんが持つルーズリーフの、法隆寺が記載された場所を指差しながらあたしは全てを任せる。
でも内心は、もうどうでもいいやって思い始めてた。
もっと大雑把に言えば、第二戦自体、もうどうでもよくなってきてる。
「高坂……今日は何から何まですまん」
どうやら村松くん自身、少しずつ自分の異変を自覚し始めてるらしい。
普段と違う役どころ、役割分担に、一番歯痒い思いをしていたのはもしかすると村松くんだったのか。
大体、村松くんに罪はないんだから。
「本当なら俺が」
急にしょげ返るクラスリーダーが気の毒に思えて、あたしは柄にもない言葉を口にしていた。
「たまにはあたしにもさ、頭脳プレイを任せてくれてもいいじゃん」
「……すまん」
「村松くんも気にしなさんなって」
元はと言えばあたしのせいなんだから……。
「沢木も早く立ち直ってくれればいいんだけどな……」
最早顔色すら伺えないほどがっくりとうな垂れている瑠璃は、村松くんと違い立ち直る気配なんて一切ない。
それでなくても、さっき村松くんがあたしの手を引いて走った事でかなりキテるはず。
今も尚こうやって村松くんと親しげに話をしているあたしの存在が、瑠璃にとって落ち込む理由なんだろうし。
どっちにしても、もうこれ以上対抗戦を続けても瑠璃にとってプラスになることは何一つ無いように、あたしにはそう思えてならない。
そしてこんな瑠璃を見続けるのは、もうあたしには無理だ。
そう思うあたしがいるのと同時に、
「瑠璃もそれで良いわね?」
まだ続けようとするあたしがいるのも事実。
どうでもいいって思うあたし。
第二戦を円滑に遂行しようとするあたし。
やめたいのか、続けたいのか。
(あたしは、何がしたいのよ……)
昨日までの瑠璃を失ったのと同時に、あたしはあたし自身を見失っていたんだって、今気付いた。
「瑠璃も反論しないみたいだから法隆寺でいいわ。だから高坂さん、村松くん、瑠璃のことは気にせず次に行きなさい」
気付いたところで、あたしはどうやって今までのあたしを取り戻せば良いのか、やっぱり分からない。
東大寺を後にするあたしの足は、この日一番重かった。
東大寺から幹線道路へと向かう。
元来た道を戻り、猿沢池から一直線で辿りつけるらしいJR奈良駅を目指すためだ。
と、東大寺の敷地を出た途端、村松くんが叫び出した。
「高坂! JR奈良駅行きのバスだ!」
言われてあたしも車道を見れば、確かにあたし達の横をJR奈良駅へ向かうらしいバスが抜き去っていく。
あたしは返事も忘れてバスが通り過ぎていった方向へと走り出していた。
「沢木! 急げ! 樹里先輩も急いでください!」
「高坂、慌てるな! 沢木姉妹がついてきていない!」
だけどあたしは止まらなかった。
止まる事が出来なかった。
対抗戦以外の事を考えれば、必ず瑠璃と村松くんに行き着いて、挫けてしまいそうになるから。
そんな奇麗事じゃなく、ただただ瑠璃から逃げ延びたかっただけなのかもしれない。
追いかけていたバスは停留所らしきところでウインカーを出しながら停車している。
東美空なら絶対に待ってくれるだろうバスだけど、ここは観光地。
時間にルーズな東美空じゃない。
停車していたバスは予想通り、あたしが追いつく前に停留所を出発してしまった。
走り去るバスの姿はまるで、瑠璃から逃げようとしたあたしに拒絶を示したかのように思えた。
「ダメだった……行っちゃった……」
「そっ、そう、か」
息を切らしながら駆け寄ってきた村松くんから更に離れ、瑠璃と樹里先輩もこちらへ向かって走ってる。
その2人に併走しながら何やら言う南川先生。
程なくして2人は足を遅め歩き始めた。
どうやら南川先生が無駄な体力の消費を抑えてくれたらしい。
「今のを逃したのは痛いぞ……」
幾分息の整った村松くんがバス停を確認し始めた。
あたしはそれに何も答えられず、ただバスが走り去って行った方向をじっと見つめた。
「次、いつ来るんだろうな高坂……高坂? 高坂!」
肩を揺すられながら大声で呼ばれ、あたしもようやく村松くんの呼びかけに気付いた。
「え?」
「お前……、いや、俺が時刻表見てくるからお前はそこに座ってろ」
あたしをベンチに強引に座らせた後、村松くんはすぐ横の時刻表を眺めだした。
間もなく追いついた南川先生は、時刻表と睨めっこしてる村松くんの肩を叩く。
「村松。その必要はない」
そして今来た道の方向を指差しながら言った。
「次が来たからな」
このバス停に向かって『JR奈良駅』と行き先が表示されたバスが、確かにやってくる。
「高坂、あれに乗るぞ!」
村松くんのテンションが徐々に上がり始めてる。
だけどその分だけ、あたしのテンションが落ちてる。
返事を返す気力すらもうない。
「行こうか高坂、もう少しだけ頑張れ」
南川先生がそっとあたしの頭に手を置き、そして髪をくしゃくしゃと撫でながら言った。
そんなあたしを見る瑠璃からは、もう拒絶しか感じられなくなっていた。
「考えてもみろ」
11時05分、JR奈良駅行きバスの車中。
「日本でも有数の観光地にあの人込み、東美空のように2時間に一本のわけがないだろう」
「まぁバスが来たって言い出したのは俺ですから」
「私も驚いたもの」
あたしと瑠璃を除く3人は妙に口数が多かった。
「しかし徒歩から免れて助かったな」
「暑くなってきてましたもの。熱射病になりかねませんでしたから」
「ああ、水分くらいは補充しておかねばな」
「俺、バス降りたらコンビニ探します」
だけど3人が話せば話すほど、何一つ声を出さないあたしと瑠璃が浮いて見えたはず。
自分でそう思うくらい、あたしと瑠璃のテンションの低さは際立っていった。
11時10分過ぎ。
バスはやがてJR奈良駅へと辿りつく。
いかにもターミナルなJR奈良駅前のバス停には、ひっきりなしにバスが到着しては人を降ろし、乗せてターミナルを後にしている。
あたし達もそのターミナルの風景に一体化するように、乗っていたバスを降りた。
そこでとあるものを目撃し、俄然テンションの上がった村松くんは、
「お、おい! 大安寺行きのバスだ! 高坂っ、沢木っ、乗るぞ!」
法隆寺に行くと言う予定など無かったかのように大安寺行きを決定すると、精彩を欠いていた今までが嘘のように、あたしと瑠璃が目を大きくして驚くほどの積極性を見せた。
そりゃ沈黙を決め込んでた瑠璃ですら、小さくとは言え思わず声を出してしまうくらいに。
「む、村松くん……?」
彼は右手に瑠璃の手をとると、そのまま大安寺行きらしいバスの停まっているところまで駆け出したんだから。
さっきはあたし、今は瑠璃。
(もしかすると薄々感付いてる……?)
「高坂! 早く来い!」
(どうやって、いつ、立ち直ったのよ……。どうやったら、どこで、立ち直れるのよ……)
驚くほどの立ち直りと彼らしい絶妙なバランスを取ってみせる。
そんな素振りなど微塵も見せない村松くんは、だけど完全に立ち直っているように思えた。
考え事をしているときは時間が経つのを忘れると言うけど、それは本当らしい。
あたしはいつ大安寺に到着したのか、あんまり覚えていなかった。
「よし高坂、撮るからそこに立て」
名前を呼ばれてようやくここが大安寺だって気付いたくらい。
どこをどう歩いて来たのかすら全く覚えてない。
「大安寺の写真を撮る。ボーっとするな」
腕時計を見れば時刻は11時半。
15分くらいずっと心ここにあらずだったなんて……。
一巡した撮影役は再び南川先生に戻る。
そして南川先生は相変わらず表情を少し堅くする。
ただ瑠璃や村松くん、樹里先輩の3人と比べると、幾分スムーズに撮影が進んだように感じた。
顔を顰めたのは気のせいではない、先生もやっぱり苦しげな顔だった。
でも……南川先生は他の3人とは違うのかもしれない。
「やはり厳しいな、撮影役と言うものは」
「え……」
「高坂、お前の全てがここに写っている。そしてお前以外はそれをカメラのレンズ越しにう見ている」
つまり、先生を含めて他の全員が、今のあたしがどういう状態なのか知っているってことだろうか。
そしてそのあたしを見て、顔を顰めたり深呼吸をした。
「知らないのはお前だけだな」
だったらあたしって……。
考えれば考えるほど気が重くなっていくあたしの頭に、先生の手が乗った。
「だが……それも仕方ないことだ」
そしてワシャワシャと音を立てんが勢いであたしの髪を掻き乱していく。
「自分で自分の写真はそう簡単に撮ることが出来んからな」
そんな先生は、とびっきりの男前スマイルであたしに言った。
「そもそも俺は……それで良いと思っている」
ドキッとしたり、ちょっぴり惚れちゃったりとかはない。
けど、何故か安心した。
「だからもう少しの間、頑張れ」
「……はい」
大安寺からの帰り道、南川先生の「頑張れ」って励ましであたしが立ち直る事はなかった。
先生が意味深な「もう少しの間」なんて期限を定めた言い方をしたことに、あたしは妙な引っ掛かりを感じていたから。
確かに呼吸が楽になった気がする。
でも何も考えられなくて。
JR奈良駅へと向かう車中、あたしと瑠璃はやっぱり何も声を発しなかった。
正午。
「なぁ高坂、どうもこのバスターミナル……」
あたし達は再びJR奈良駅へと舞い戻った。
「見覚えのある名前がやたらと目に入るぞ」
今度こそ法隆寺へと足を進めんとするあたし達に、再び魅力的な文字が飛び込んできたのだ。
確かに村松くんの言うとおり、バスの行き先表示には今日の目的地となる名前が一杯。
春日大社本殿や東大寺大仏殿、大安寺は今まさに行ってきた場所。
だけどバスが見せる誘惑はそれだけじゃなかった。
西大寺、法隆寺、更には六条山なる場所に行くらしいバスには小さく『唐招提寺・薬師寺経由』とまで書いてある。
「春日山原生林うぐいすの滝と平城宮跡朱雀門以外は、ほぼここで網羅出来るぞ……」
って村松くんが呆れるのも無理はない。
「にしても、活動拠点になるような場所がこんなにあっさり見つかって良いのか?」
饒舌になった村松くんは、3時間前の第二戦スタートより幾分普段の自分を取り戻している。
一体彼には何が起こったんだろうか。
そしてあたしはどうやれば自分を取り戻せるんだろうか……。
チラッと横を見れば瑠璃は相変わらず地面を一点に見つめていた。
それを見たあたしもまた、乗らない気分に自然と頭を下に向けてしまう。
反応もなく俯くあたしにとうとう言葉を紡げなくなったのか、村松くんは片手で頭を掻き毟りながら言葉にならないうめき声を上げた。
村松くんが立ち直ればあたしがこうなって、誰かがが上昇気流に乗った分だけ誰かが下降していく。
最早限界が訪れるのも時間の問題
そんなあたし達の背後、JR奈良駅の入り口辺りから、
「あら、村松さんではございませんこと?」
「ようやく一太が復帰か?」
聞き覚えのある声が村松くんの名を呼んだ。
振り返ればそこにはお嬢様と灰色、そして今宮さん。
5組の一団。
その集団は一様に、あたしと瑠璃を見比べ、酷く心配げな顔付きをしていた。
「その代償が戦姫かよ……何やってんだよお前は」
灰色は村松くんにそう言った。
「ああ……すまん弓削」
村松くんも灰色にそう言い返す。
そんな男子2人は言葉を交わし、そして神妙な面持ちであたしの顔をじっと見つめた。