40.[1年夏/第二戦] どん底からのスタート
八月十五日、午前6時。
カーテンを開けると朝から日差しが眩しくて、肌に痛いくらい。
夏真っ盛り、二日目の朝も快晴。
だけど下着姿でのそっと起き上がった瑠璃は、窓際に立つあたしと目が合うと露骨に視線を反らし、再びベッドへと沈んでいった。
隣のベッドで顔を腫らして落ち込んでいる瑠璃の心は、きっと凍えるように寒い冬。
じゃなきゃきっと土砂降りの大雨。
* * *
あの後、ふらふらになりながら樹里先輩に支えられて部屋に戻っていった瑠璃を、あたしと村松くんは声も出せずにただ見送るしかなかった。
『高坂、大丈夫か?』
瑠璃が完全に見えなくなった後、村松くんはあたしの肩を叩きながら聞いてきた。
その目は悲愴に満ちていた。
『大丈夫。明日は頑張るしか、ないね』
何が大丈夫なのか、あたしは今どんな顔をしてるのか。
『……ああ』
同意しながらも納得していない村松くんの表情が全てを物語ってるように思えた。
『ごめん……大丈夫じゃないかも……』
そして瑠璃と同じように、今宮さんに支えられてお嬢様が去っていく姿は、あたしのテンションをどん底に叩き落した。
『……すまん』
何故村松くんが謝る必要があるのか。
それを否定してあげるだけの気力もなかった。
ロビーで村松くんと別れ部屋に戻ると、丁度樹里先輩が出てくるところと鉢合った。
『高坂さん、今はそっとしておいてあげて』
もし樹里先輩が居なければ、あたしが瑠璃を介抱してあげなきゃいけなかったはず。
『それと高坂さん、自分を責めちゃだめよ?』
そして樹里先輩が居なければ、瑠璃と一緒にあたしも泣いていたかもしれない。
『貴女がやったこと、間違ってなんていないんだから』
『……わかりました』
短く言い残し樹里先輩とすれ違うように部屋に入ると、瑠璃はベッドの中にいた。
頭まで薄布団を被った瑠璃は、全てのものを拒絶しているように見えた。
あたしは部屋の電気を消し、瑠璃の隣のベッドに入る。
声を殺して泣く瑠璃の小さな気配は、さっきよりも大きく感じられた。
『瑠璃、おやすみ』
それ以外にどう声を掛けて良いのか、あたしは分からなくて……。
あたしも頭まで布団を被ってひたすら目を瞑り、全ての音と気配を遮蔽して眠りに落ちた。
部屋の冷房が効きすぎていたのか、やけに寒く感じた。
* * *
あたしは言葉も交わさず、黙々と着替える。
「瑠璃……先に行ってるね」
そして一言も言葉を発さず、ただのろのろと準備を進める瑠璃を置き、あたしは部屋を出た。
、そしてロビーへ降りたあたしは村松くんを見つける。
「おはよ」
「ああ」
村松くんは酷く疲れた表情をしていた。
きっとそれは昨日行われた第一戦の疲れ、ではないんだろう。
6時半になり瑠璃も降りてきた。
そして昨日の夕食同様、広間で纏まって朝食を取らされた。
他のクラスがこれからの二戦目をあれこれ話してるらしい中、あたし達1組に会話は無かった。
8時になりホテルを出発。
大きな荷物は全てホテルに置いてきた分、昨日より軽いフットワークになりそう。
だけど、9時から18時と言う長丁場に加え、あたし達1組のテンションはどん底。
荷物を持ちながらも終始ハイテンションだった昨日の状態の方が、もしかしたらいい結果を残せるんじゃないかって思うほど。
浮かない顔の村松くんと、何とか化粧で誤魔化しても表情に青さがまだ残る瑠璃。
あたし達に会話らしい会話は今のところ、まだない。
きっと今日は苦戦する。
あたしはこれからの9時間がただただ苦痛に感じた。
ホテルを出て脇道を抜けると、開けた場所に小さな溜め池が姿を見せる。
溜め池のほとりを歩き、右に曲がってアーケードを通り抜ける。
そして通行料の多い車道に辿りつくと左手側に小さな噴水がある広場、そして駅ビル。
近くにあった階段を降り、あたし達は地下へと向かわされた。
階段を降りきると、コンコースが目の前に広がる。
冷房も効いてるし乗降客もそれほど多くなく見える。
ここなら確かに説明を聞くのにもってこい、そんな近鉄奈良駅地下コンコース。
ホテルから徒歩で10分ほどの所にある今日のスタート地点は、近鉄奈良駅だった。
現在の時刻は8時半。
開始時刻9時までの30分間で、さっと第二戦のルールを説明するとのこと。
「まずは今日の目的地に付いて記載した用紙を配ります」
昨日の段階でルール説明は大体終わっていたので、これからの説明は目的地に費やされるのだろう。
少し神妙な表情の樹里先輩が、昨夜と同じくプリントをあたし達に渡す。
そして一瞬瑠璃の方を心配げに見つめた後、隣の2組へと樹里先輩が移動していった。
「第二戦『古都奈良回遊戦』の説明を始めます」
ルールは昨日とほぼ同じ。
うちのクラスは引率役に樹里先輩と南川先生を加え、5人での行動。
そして昨日と同じように電車やバスを使って移動する。
昨日と違うのは目的地に着いたら写真を撮ること、カメラはあとでデジカメがクラスに1つ配られるらしい。
長丁場なので飲食代などの必要経費分は、交通費と同じく引率役から支給。
開始は9時にここ近鉄奈良駅地下のコンコースで、終わりは18時の時点で同じくこの場所に居る事。
第一戦と違い、今回は道行く人に場所や交通手段を聞くことが許可されていた。
それは肝心の目的地があまりにも分かりづらいせいなんだと思う。
だって……昨日言っていたとおり、目的地は『南都七大寺』と世界遺産の『古都奈良の文化財』全てだったんだから。
樹里先輩から受け取った紙には、恐らくお寺や神社なのだろう名前がずらっと並んでる。
その数、11。
って、もしかして今日の9時間で11箇所も回らなきゃいけないわけ?
『春日山原生林、うぐいすの滝』って、お寺でも神社でもない気がする。
『法隆寺の五重塔』は知ってる、だけど場所なんて知らないわよ。
分かるもののは少なそうだ。
『薬師寺と勝股池』とか『猿沢池と興福寺五重塔』聞いたことがあるような無いような。
その他にも『東大寺南大門』や『春日大社一の鳥居』なんてのもある。
東大寺なら聞いたことあるような気がするんだけど、てもさっぱり頭の中には入ってこない。
入ってこない理由があたしの無知によるものなのか、そうじゃないのか、それすら分からなかった。
「見本となる写真のコピーをクラスに1冊配ります」
せめてもの情けなんだろうか、進行役の先生がそう言ったのと同時に、樹里先輩からカラーコピーを受け取ったあたしと村松くんはそれに見入った。
そこには見覚えのある建物、『平城宮跡朱雀門』がでかでかと掲載されている。
「朱雀門って、やっぱり文化財だったんだね」
「普通に考えればあれがただの建物なわけないぞ。まあ0点は免れそうだな」
ホッとしたのはあたしだけじゃなっかった。
村松くんの言うとおり、少なくとも一箇所は回れそう。
「皆さんもそれに似た形で写真を撮ってきてください」
写真の枚数が点数になるっていうルールは、ちょっとだけ特別なシステムになっていた。
見つかりづらい場所や辺鄙なところにある場所なんかは点数が高いらしい。
だとすれば全員が知ってる朱雀門は間違いなく1点よね。
遠い場所で高い点数を狙うのか、近場をたくさん巡るのか……。
だけど他の場所はあまり見当が付いてない。
さっき分かんないって悩んでたうぐいすの滝や法隆寺の他にも、『唐招提寺』『西大寺』、『元興寺』に『大安寺』。
初めて聞くような名前や、聞いたことあっても場所が分かんないところまで、これはキツい。
唯一はっきりと場所が分かるのは昨日の目的地だった朱雀門くらい。
だけど昨日の道中を思い出しても、今言われたお寺や神社の名前は全く引っ掛かってこない。
これじゃどうしようも……と、かすかに残った一致。
「あ……村松くん!? 昨日の朱雀門、あたし達より一駅前で5組が降りたときのこと覚えてる?」
「ああ……それがどうした?」
その一駅差で負けたから強烈な印象をあたし達に植え付けたあの5組。
って、本題は5組じゃなくてあいつらが降りた駅。
「駅の名前、たしか大和なんとか寺だったと思うんだけど」
「やまと……何だったか、くそっ! 沢木は覚えて……ないか」
力なく首を横に振る瑠璃から声が返ってくることはなかった。
いつもなら「沢木じゃなくて瑠璃よ」とでも言いそうなもの、だけど今日はそれがない。
そして期待した返事が返ってこない事に、あたしと村松くんが困惑することも、ない。
「覚えてないなら仕方ないよ。分かるところから行こ」
「……ああ」
瑠璃を見るたびに村松くんの目は悲しそうになって、そして一瞬燃え上がるように上昇を見せかけた彼のテンションもあっという間に落ちていく。
「しっかりしなよ村松くん」
そんな彼を鼓舞するように、あたしは村松くんの背中を力強く叩きながら言った。
「自慢じゃないけどこんなの読んだって、あたしにゃさっぱり分かんないんだから」
「だけど厳しいぞ……どうする沢木」
でも村松くんは変わらなかった。
そして無意味なはずの瑠璃への問いかけを再びしてみせる村松くんは、完全に心ここにあらず。
完全な空回りだ。
瑠璃も瑠璃で、再び小さく首を横に振るだけ。
その弱々しさは、瑠璃の心に再び灯が灯る事なんてもうないんじゃないかって、そう思ってしまうほど。
だから瑠璃を見つめる村松くんの心の火も、もう消える寸前なんだろう。
「なるようにしか……ならないな」
弱々しく言う村松くんの声と、声すら出さずに小さく俯く瑠璃。
いつもと違う“らしくない”二人が、あたしの体力を奪っていった。
そんなあたし達を樹里先輩が、さりげなく、だけど何度もこちらを窺う。
その心配そうな表情は、あたしをただただ落ち込ませた。
開始十分前になりにわかに騒がしくなり始めた。
各クラスの引率役が生徒と挨拶を交わしている。
うちのクラスを引率するのは、昨日に引き続き樹里先輩と南川先生。
「沢木妹の顔色が悪いようだが……」
流石に生徒を親しげに下の名前で呼べない南川先生は、沢木の後ろに姉や後ろをつけることで区別を計るらしい。
さっそくその区別用語を使った感触を確かめる南川先生を、樹里先輩が申し訳なさそうに制した。
「今は……そっとしてやってください」
「そうか、分かった」
深く追求しないのは大人の対応なのか、普段どおり面倒な事に首を突っ込まないだけなのか。
どちらにしても南川先生はそれ以上瑠璃には触れなかった。
ただ、先生は先生で心配してくれているのは凄く伝わってくる。
「しかしあれだ、1組は感情の起伏が激しいな」
困ったような表情がそれを強く印象付けてる。
「その分上がった時はトコトン上がりますよ」
あたしは何とか笑顔を作りながら南川先生に言った。
そして誰に聞かせるでもなく、そっと呟いた。
「だって……沢木瑠璃だもん」
今は落ちてるとき、だったら……。
いつか再び這い上がってきてくれることを、今は祈るしかない。
そして駅構内の時計が9時を指し示し、第二戦が始まった。
「それでは、1年夏開催第二戦『古都奈良回遊戦』を開始します!」
他のクラスが動き出す中、あたし達はその場に止まったままだ。
とは言え情報が少ないせいか、他のクラスだってその辺をうろうろしているだけなんだけど。
あたし達もとにかく動き出さなきゃ。
「村松くん、まずは情報収集!」
普段なら瑠璃がいいそうな台詞を、何とかあたしが口にする。
それと同時に村松くんが驚く。
「な、何だあいつら!?」
あたしの視界の隅にも、亜麻色の髪が駆け足で通り過ぎたのがはっきりと認識出来た。
「もう目的地の場所が分かったってわけ!?」
開始早々、さっき下ってきた階段へと駆け出す6組。
その姿にあたし達だけじゃなく他の1年生も口をあけて唖然としていた。
と、6組の集団の中から亜麻色のそよ風だけがこちらへ踵を返してくる。
「科学部しゅーごー!」
そして橘さんは何故かあたしの目の前でそう言った。
橘さんの呼びかけに、すぐに弓削くんがお嬢様を連れてこちらへやってくる。
あたしと村松くんに弓削くんとお嬢様、そして橘さんの5人で小さな輪を作ると、橘さんは小声で言った。
「聞き込みするんやったら素直に駅員さんにしときーね」
「へ?」
「セ、セレス?」
あたしと弓削くんは間の抜けた言葉を口にするのが精一杯。
「そうやないんやったら地元の人狙うなら若い人の方がええよ。お年寄はやめときーね」
そして間が抜けていたのはお嬢様と村松くんも同じ。
「橘……さん?」
「ど、どういうことだ、分かんないぞ?」
だけど戸惑うあたし達に謎のアドバイスを残した橘さんは、
「ほな、お先にー」
言いたいことを言ったあと亜麻色の髪を靡かせながら、橘さんは実に爽やかに去っていった。
「ねえ灰色……何なのよあれは」
「さあな……セレスはいつもあーだぜ……」
科学部のあたし達ですらこれなのだ。
接点らしい接点がなさそうなお嬢様や村松くんは、言葉すら発せないでいる。
あたし達は彼女を、呆気にとられながら見送るしかなかった。