22.敵意
「好きにすればいいのに」
「そうも行かないって、言ったわよね……」
佐々岡さんと屋上で対峙したその日の放課後。
テンションガタ落ちのあたしに、勉強会は容赦なく襲ってきた。
(あたしのための勉強会、だったはずなんだけどなぁ……)
今日もだよ、と目配せして教室を出ようとする零夜。
勉強会が当然であるかのように、後に続く麻衣。
「弥生さん?」
2人の後ろ姿をただ呆然と眺めていたあたしを、瑠璃が呼び止めた。
「10分ほど時間空いてるかしら?」
つい数時間前に同じようなことがあった。
佐々岡さんの再来かと身構えてしまう。
そんなあたしを瑠璃の値踏みするようにじっと見つめた。
一瞬瑠璃と目が合って、思わず目を逸らしてしまう。
後ろめたいことなんて何もないはずなのに……。
「……もう。今日も勉強して帰るんでしょ?」
溜息をついた後、瑠璃はあたしに優しく問いかけた。
けど、ホッとなんてしない。出来ない。
「神園くんと国崎さんは先に行っててくれる? そんなに時間は掛からないから」
警戒したとおりだった。
瑠璃も佐々岡さんのように一対一を希望している。
だから安心なんて出来なかったんだ。
この先の展開を想像するだけで、これ以上落ちようがなかったはずのテンションが、更に落ちていくのが分かる。
「いや、待っているよ」
いつぞやの有無を言わせぬ雰囲気を身に纏い、瑠璃の暴走を阻止せんとする零夜。
そもそもの原因は、こいつ……。
(誰が味方で誰が敵なのよ……)
「女の子同士でしか話せない内容もあるのよ? だから、ね。神園くん」
瑠璃が口にした「女の子同士」は絶妙だった。
その一言が零夜をも退ける。
あたしとの一対一を求める瑠璃。
(後回しにしても遅かれ早かれこうなるんだったら、早い方が良いわ)
「先行ってて、すぐ行くから」
あたしの言葉にようやく納得したのか、零夜は何も言わず教室を出て行った。
「先、行ってるね?」
麻衣も戸惑いながら零夜の後を追って、あたしの視界から消えた。
そして教室にはあたしと瑠璃だけが残された。
自分の席に座るあたしと、その横に立ったままの瑠璃。
見下ろされているようで落ち着かない。
(瑠璃も、佐々岡さんと同じこと言うのかな……やだなぁ)
あたしは下校する生徒を窓から眺めつつ、先の展開をあれこれ予想していた。
けれど瑠璃の言葉は、予想とは少し違っていた。
「ねぇ弥生さん。貴女、何かあったの?」
挑発的でも怒るでもない、あたしを気遣うような言葉。
佐々岡さんとのやり取りで、あたしはそんなに気落ちしていたんだろうか。
それを瑠璃に察知されてしまったんだろうか。
(あんなの、中学校じゃ日常茶飯事だったのに……)
答えに戸惑うあたしのそれを黙秘と受け取ったのか、瑠璃は優しく微笑みながらあたしにゆっくりと問いかけた。
「私に話したくないなら構わないのよ? でも貴女、少し思いつめてたりしない?」
多分、思いつめてる。
瑠璃の気遣いはこの上なく嬉しかった。
「麻衣も零夜もそんなこと言わなかったわよ?」
だけどどこまで踏み込ませて良いのか、あたしには分からなくて、
「2人が弥生さんを心配しないってことは、大丈夫なんだろうけど」
「そうよ、瑠璃の気のせいだってば」
厚意を受け取る事が出来なかった。
「でも、あの2人には気付けないことも私には気付ける、ってこともあるんじゃないかしら?」
麻衣や零夜が気付かなくて、瑠璃だからこそ気付けたことがある。
(それって何なの?)
零夜に至っては10年なんて余裕で越えてるのに。
瑠璃とはまだ2ヶ月の付き合い、麻衣とは3年以上。
「少し距離が離れているからこそ、客観的に見られることもあるのよ?」
それでも瑠璃じゃないと分からない事がある。
あたしにはそれが何なのか、分からなくて、聞いた。
「瑠璃は……何に気付いたの?」
けれど瑠璃は教えてくれなかった。
哀れむような、慈しむような、そんな眼差しがあたしに注がれる。
「貴女が我慢する必要は……ないと思うわよ?」
見透かされている。
「弥生さん、貧乏くじ引きすぎよ。苦労しすぎ」
屋上の一件を見たんだろうか……。
瑠璃の言う事はきっとその類の話だったんだと思う。
「まぁね」
けれど瑠璃の真意が分からない以上、あたしはそう答えるしかなかった。
「でも無理しないで、ダメなときはダメってちゃんと言いなさい?」
本当はもうダメなのかもしれない。
「貴女が倒れたり壊れてからじゃ遅いんだから」
「……うん。ありがと。でもホントに大丈夫だから、サンキュね瑠璃」
もう壊れ始めてるのかもしれない。
(瑠璃には、どう見えるの?)
だって、自分がどんな状態なのかすら、分からないんだもの。
* * *
目の前に座りあたしの解答を採点する零夜。
零夜を前に顔を赤らめながらも、あたしに英語を教える麻衣。
(麻衣……あんたは、佐々岡さん? 瑠璃?)
2人を見ると頭の中がどんどんと渦を巻いていくのが分かる。
頭の中で佐々岡さんと瑠璃が言う。
「貴女、本当は神園くんと一緒に居られて嬉しいんじゃないの?」
「でも無理しないで、ダメなときはダメってちゃんと言いなさい?」
(まだ1年生の6月じゃない……あたしはもう限界なの?)
「……あのさぁ」
(でも、こんな勉強会、もうヤダ……)
「別に迷惑だなんて思っちゃいないけど、あんたたち部活はどうなってんのよ? 3日間、毎日これよ? 麻衣はともかくとして、零夜はサボってんじゃないの?」
気持ちを隠して零夜に当たり障りのない言葉を投げかける。
「そんなことより弥生の学力の酷さだよ。そっちの方が深刻な問題じゃないかい?」
けれど取り付く島なし。
「陸上部、休んでんでしょ? あたしもそこまでしてもらうの気が引けるんだけど」
「どこかの部活に入部するのは絶対でも、部活動は重要じゃないよ」
そして相変わらず、零夜は異常なまでに頑なだった。
「あたしの勉強だって、今はそれほど重要じゃないわよ」
「重要だよ、僕にとっては」
零夜の言葉が終わると同時に、机の上で何かが乾いた音を立てた。
採点に使っていた赤いボールペンが麻衣の手を離れ、そしてカラカラと机の上を転がっていた。
麻衣はボールペンの存在に気付いていないのだろうか。
「……って」
音を立てて転がったそれを見向きもせず、ただボーっとした表情で、搾り出すように呟く。
机の上で回転を止めたボールペンを零夜が掴む。
「まさか学年で下から3番目なんて、幼馴染としてもショックが大きいからね」
苦笑混じりで言いながら、零夜は麻衣にそれを手渡した。
「……馬鹿を責められると、あたし何も言えないんだけど」
「そ、そそそうですよね。そう、そうだよ弥生ちゃん。下から3番目なんだよ!?」
確かにあたしの馬鹿で迷惑をかけ、要らぬ心配をさせたかもしれない。
(けど残念ながら、不屈の戦姫は早くも限界らしいわ)
物凄い勢いで麻衣に怒られながらようやく気付いた。
麻衣のその視線は佐々岡さんのそれとそっくりだって事に。
好きにすれば良いと言うあたしに、そうも行かないって悲しく笑った佐々岡さん。
彼女と、目の前の大親友がシンクロしていく。
零夜の醸し出す異常な雰囲気と、麻衣の『佐々岡さんに似た』視線に耐える事は、もう出来そうに無かった。
麻衣と零夜の異常さに耐えられそうに無かった。
佐々岡さんとの一件や瑠璃の助言、それらとは一切関係なく。
こんな勉強会は今日限りにするべきなんだ。
「あんた、部活に出ないってんでクレームが来てんのよ?」
何とか零夜が部活に出れば、それだけで問題はかなり解決するはず。
「クレームって、陸上部から弥生に?」
「まぁそんなとこよ。だから今日で終わりにしてくれない? お気遣いはうれしいんだけど」
とにかく零夜が部活に出てくれればそれでいい。
「佐々岡さんだね。彼女、休むとすぐ怒るんだ」
(そこまで分かってて何で休むのよ!)
言ったら佐々岡さんの沽券に関わる。
口が裂けても言えない。
「聞かれて答えると思う? それより勉強会は今日で終わりよ、いいわね?」
零夜は少し迷った様子を見せた後、
「……わかったよ」
しぶしぶといった感じで答えた。
「麻衣もそういうことで良い?」
「……うん」
麻衣も零夜と同じでしぶしぶだった。
零夜と一緒に居る機会が減る、麻衣にはそれが寂しいんだろう。
だけど、あたしが我慢出来そうにない。
自分を犠牲にしてまで麻衣の世話を焼けるほどの余裕は、今のあたしには多分ない。
なんて、そんなこと言えるわけもない。
だからそれらしい理由をつけてこの場をお開きにしたかった。
「勉強会するなら、各々部活動をちゃんとやってから。いいわね?」
とにかくこの異常なお勉強会が終わりさえすれば、平穏はいずれ訪れてくれるはず。
「最近姫野先生とも勉強しているみたいだけど、やっぱり昔から慣れている僕や国崎さんの方が良いと思うんだ。弥生はどう思うんだい?」
「ん。どうだろね、分かんないよそんなの」
親切心と拒絶感の板ばさみで、あたしは言葉を濁してしまう。
「また弥生に勉強を教えるから。続けてやらないと意味がないしね」
「私も協力するよ? だから、ね?」
感謝はしてる。
自分が馬鹿なのも認める。
「……困ったら泣きつくから、それまでは放っといてよ」
でも面倒な事に首突っ込むのは……嫌だった。
* * *
勉強会から解放された翌日。
「佐々岡さんちょっと良い?」
放課後、麻衣と零夜が部活に行ったのを見計らい、あたしは佐々岡さんを屋上に呼び出した。
教室を出るあたしと佐々岡さんに、瑠璃は小さく、
「いってらっしゃい」
と告げて帰っていった。
前回と違い人気のない屋上。
呼び出した側が屋上の中央に、呼び出された側は入り口付近に。
そんな妙なルールでもあるんだろうか。
立ち位置が逆なあたし達。
屋上の真ん中に立ち、入り口で立ち止まる佐々岡さんをじっと見つめた。
「お勉強会、昨日で終わったから」
「そう……」
零夜が陸上部に出る事を知ってるのか、さほど驚いた様子のない佐々岡さん。
「あとはあんたが何とかしなさいよ。これで零夜が部活に出ないとか言ったって、あたしの知ったこっちゃないわよ?」
これで面倒なことからは解放されるはず。
「ええ、わかってるわよ」
元々、好きでやってたわけじゃない勉強会、
佐々岡さんの注文通りそれを途中で放棄することに、敗北感なんて無い。
彼女の望み通り動くことには少し抵抗もあった。
けど、いわれのない誹謗中傷を受けるよりはよっぽどマシだもの。
(あとはこれで彼女が納得してくれれば、解放される)
そう思ってた。
「神園くんはどうして勉強会をしようって言い出したの?」
「また質問? まぁいいわ、これで最後にしてよ? なんか、あたしにお詫びしたいんだってさ」
「お詫び?」
仙里を受験するとき、麻衣と零夜に泣きついたこと。
麻衣と比べ、零夜とは勉強を共にする機会が少なかったこと。
零夜はそれを気にしてたこと。
それを掻い摘んで佐々岡さんに話す。
「貴方たち、そんなことがあったのね」
(これで今度こそ納得してくれるわよね……)
けれど彼女が口にした言葉は、あたしの甘い希望を打ち砕いた。
「みんなが喉から手が出るほど欲しがってる、神園くんの言葉や行動。結局貴女が独り占めしてるのよ。悪いけどやっぱり私、貴女の事が嫌いだわ」
佐々岡さんの目は完全に零夜のお母さんのそれだった。
嫌われた。また嫌われた。
(分かってた事じゃない……何を今更)
零夜の傍に居ればこうなるんだ。
「いいよ、あたしもそういうの慣れてるし。嫌うなら嫌ってくれて大いに結構」
別に零夜にこだわりなんてない。
だけど、つまらない事しか考えられない女子に負けるのだけは、認めたくなかった。
嫌われても、無視されても、そこだけは譲れなかった。
「それが『不屈の戦姫』の不屈らしさなの?」
「不屈……そんな良いもんじゃないわよくっだらない。そんなあだ名もくだらなけりゃ、あんたのその考え方もくだらないわ」
きっとあたしは嫌われるだろう。
少なくとも佐々岡さんには、絶対に嫌われる。
そう分かっていても、言わずにはいられなかった。
「くだらない人間に嫌われても、あたしゃ何とも思わない」
馬鹿にするようにあたしは笑ってみせる。
あたしに負けないくらい佐々岡さんも、嘲笑しながら言った。
「じゃ、遠慮なく嫌わせてもらうわ」
挑戦状を受け取った。
これでもう、あたしと佐々岡さんは相容れない。
(あの時もクラスの女子相手に口論したっけなぁ。んで、次の日から……女子に無視されていくんだっけ)
睨みつけてくる佐々岡さんを見て、ふと中学校に入った頃を思い出す。
分かってはいても、人に嫌われるのはあの頃と一緒だ。
心が、痛くなる。
あたしは佐々岡さんを置いて、屋上を降りようとする。
出口へ歩くあたしと扉の前に立つ彼女がすれ違う。
すれ違いざまに、あたしは捨て台詞を1つ。
「好きにすればって言ったのに」
あたしの背中越しに、彼女の捨て台詞が1つ。
「ええ、そうさせてもらうわ」
そうも行かない、とは言ってくれなかった。
振り返らなくても、佐々岡さんの敵意は伝わってくる。
(きっともう、居ない)
料理対決の時、卵を受け取りに向かおうと教室を出るあたしに、
「それと……アンカー、頼んだわよ?」
苦しげな顔を無理に笑顔に変えながら、彼女は言ってくれた。
(あの佐々岡さんはもう居ない)
背中越しに感じる彼女はもう、あの佐々岡さんじゃない。
それが、悲しかった。