17.[1年春/第三戦] 駆け抜ける衝撃
「弥生ちゃんそろそろ起きて? 零夜さんが…」
そんな麻衣の声を聞き、あたしは深く沈んでいた意識をゆっくり覚醒させた。
「……っ、身体重っ」
動かそうとするけど、鉛でも付けたかのように鈍くしか反応してくれない。
「大丈夫? 実況、聞こえる?」
耳を澄ませて放送を聞き取ろうとする。
歓声でよく聞こえないけれど、でもはっきりとそれは分かった。
【神園が今、トップ西出を捉えます! 残り1km、再び首位が入れ替わるー!】
あたしは麻衣へ振り向いた。
「麻衣!」
きっとあたしは笑っていたんだろう。
「うん!」
だって麻衣も笑ってるもの。
【しかし西出も懸命に食い下がります! 背中にピッタリ張り付く西出、顔は苦しそうだ! 神園にはまだ余裕が残っている、そんな顔に見えます!】
普段より5割増の可愛さで喜ぶ麻衣。
(そりゃそうよ、誰でもない神園零夜の力で、1組がトップに返り咲くんだもの!)
クラスがトップになるだけじゃない、麻衣にはもっと特別な意味があるはず。
それは何も麻衣だけじゃない、佐々岡さんもきっと……。
「麻衣、佐々岡さんは?」
「え? あれ? さっきまでいたのに……どこ行っちゃったんだろ」
彼女は今どんな気持ちなんだろう。
「あー、居ないなら良いよ。心配掛けたし、ちゃんと謝んないと、って思っただけ」
(麻衣と同じで喜んでるのかな……)
「そだね、学校戻ったらちゃんと御礼言わないとね?」
勿論そうするつもり。
けどその前にお礼を言わなきゃいけない人が目の前に。
「あんたにもね。麻衣、ありがと」
零夜の事で喜んでいた麻衣の表情は、一気に曇っていった。
「ううん、私が弥生ちゃんを駅伝に推薦したんだから、倒れるまで走らせたのは私なんだよ。ホントは謝らなきゃいけないのは私……」
なんてことはない、そんなこと考えていたのかこの子は。
「なーに言ってんのよ! しみったれた事言わないでよ」
納得せず、なおも謝ろうとする麻衣。
あたしはそれを胸に抱きしめて黙らせた。
「あんたに感謝する事はあっても、あんたに感謝されるようなことは一切ないわよ!」
(あとは零夜が1位でゴールを駆け抜ければ、全てが終わるのよ)
【本部ーっ! 大変です!】
でも神は……。
【3位の中川が2人の背中を捉えています! 2組中川、陸上部の意地でしょうか!?】
零夜に試練を与えた。
【な、なんですって!? 今の差を計測しなさい!? 中川と神園の差は何秒なのっ!?】
放送部のお姉さんが地声で焦るほど、中川くんの激走は現実離れしてる。
でも、後続の中継を担当している人が言うのだから、本当に2組の逆転1位がありえるということなのか。
【十区でたすきを受け取ったときは1分15秒、中間地点の三山バス停前が32秒。恐ろしい勢いで詰めています】
信じたくないあたしの思いとは裏腹に、逆転1位が現実になり始めている。
麻衣の顔に浮かび始めた、不安と緊張。
きっとあたしも同じような表情をしていたはずだ。
「高坂、学校まで送る。私の車ですまんが、乗れ」
顔を見合わせて不安を露にしていた麻衣とあたしの前現れたのは、姫野先生。
(フィットって……似合わなさすぎ……しかも淡いピンクって)
すっごく可愛いフィット。
でもそれは、明らかに姫野先生のイメージと合っていなかった。
(真っ黒なスポーツカーとか、いかつい4WDとか、そんなのに乗ってるんだと思ってた)
「国崎もだ。ほら、早く乗れ」
麻衣と2人、似たようなことを考えていたのだろう。行動が遅れたあたし達を姫野先生は急かす。
「「は、はいっ!」」
慌てて後部座席の扉を開くと、そこには昨日見た灰色の彼が座っていた。
「お疲れさん」
「あ、あんた昨日の……」
『門にいた灰色』、そう声をかけようとしたあたしを遮る実況。
【こちら先頭! 中川の姿がはっきりと捉えられます! 差は確実に詰まっています!】
灰色の彼が助手席に移動し、あたし達は後部座席へ座る。そして姫野先生が車を運転。
可愛らしさ満点のフィットが、窓を全開にして仙里高校へ向かい走りだした。
支所から仙里高校へは国道沿いの、今零夜たちが走っている十区を使うよりも、整備されてない農道や旧町道を使ってショートカットした方が早い。
姫野先生もそのショートカットを知り尽くしているようだ。
隣を見ると、麻衣はかなり険しい顔をしていた。
零夜が先頭を守りきれるかどうか、そんな事を考えているんだろう。
「追う中川に、追われる神園か……西出にゃ役がでかすぎだなぁ」
「そうは言うがな、周りが持つ魔女の期待には、応えてやらねばならんのだよ」
「まぁなぁ……。けど姫センセにゃ悪いが、うちのクラス3位でも大健闘だぜ?」
「それには私も同意するが、な」
灰色の彼と姫野先生が交わす会話。
それは九区で1位を奪取した5組の考えとは、到底思えなかった。
(けどこいつは昨日、谷川さんの勝利の女神を予言したあの灰色……)
「こりゃ中川、だな……。神園は学校内で抜かれるな」
けれど目の前の灰色は、縁起でもないことをサラッと言いのけやがった。
「ちょっと、何言ってんのよ! あんた好き勝手なこと言ってんじゃないわよ! 零夜が負けるわけないでしょ! 黙って聞いてりゃ」
流石にあたしも黙ってはいなかった。
助手席に手を掛け、灰色の頭に噛み付かんが勢いで反論する。
「では、その理由を聞こうではないか。何故そう思うのだ?」
仲裁するように話を進めさせる姫野先生も、実は灰色の話に興味があるんだろう。
「木島の話だと中川は中長距離選手、神園は短距離選手。十区3kmは中距離、これだけでも中川に分がある」
(零夜と中川くんの、距離適正……)
「更に中川には、追う強みがある。同じ陸上部でも中距離選手として、短距離の奴には負けられねぇっていう事情が」
(『勝利の女神』を予言した言い方と、同じ)
【残り500m! 神園と西出が正門を通過、校内へ入ります! 100mほど走って第一グラウンド、これはトラック勝負になりそうです!】
【中川も校内に入りました! 門の前でその差8秒!】
「でも、零夜さんだって!」
顔を青くしたまま麻衣は何とか反論する。
「あぁ、3kmはギリギリ乗り切れる距離さ、短距離の神園でもな。けど西出の存在が意外だったんだよ」
「西出だと? 奴はただの茶道部だぞ?」
「それが科学部顧問の言う言葉っすか? 西出だって男ですよ、女が周りで応援してりゃ何時もより力を出そうとしますって。逆に神園はそういうので力を増大させるタイプじゃない。だからこそ残り800mまで西出が抜かれずに走ってこれたんですよ」
回りくどい言い方にあたしはもう限界だった。
「それがどうしたってのよ!?」
「西出はオーバーペースだったんだよ。理由は違えど、あんたと同じでな。自分の力以上のものを出して走ってんだ。姫センセ、西出はゴールした後、倒れますよ」
身に覚えのあるあたしは何も言い返せなかった。
西出という男子も、あたしと同じできっとゴールした後に意識が飛んでしまうほど、身体に無理をして走っているということなのだろうか。
「そうか、心しておこう。幸い校内ならば保健室もある。保険医も既に戻っているはずだ」
【トラックに入った神園と西出、更に後ろから中川が猛追! 1年生だけでなく、上級生からも大声援が飛び交います!】
「つまり……零夜さんも、その西出って人のペースに巻き込まれてるんですか?」
幾分顔色が良くなった麻衣は、彼の予言を認めたくないのか、弱々しい問いを灰色の彼に投げかける。
それはあたしも同じだったろう。
「そゆこと。同じオーバーペースでも中川は意図的、神園は無意識。いざ中川と神園が並んだとき、自分が思うように走れない神園がどう力を振り絞るのか、が勝負の分かれ目だろうが……」
【西出遅れたー! 西出が神園に離されます! そして中川もそれを交わして2位へっ!】
「零夜なら最後まで諦めたりしないわよっ!」
そうだ、どちらもオーバーペースなら気力勝負に持ち込まれるはず。
【残り200mを切って先頭神園! 中川必死で追う! 意地のぶつかり合いです!】
(零夜だって気力では負けて……)
【校内から割れんばかりの『レイヤ』コール! しかし中川、神園を捉えて離しません!】
(零夜って、必死になってるところ……見たこと、ない)
「それに……神園は慣れ過ぎてんだよ。黄色い声援ってやつにな」
(きいろいせいえん? 何言ってんのよこいつ)
「中川は慣れてない。むしろ欲してるくらいだろうしな。だからこそ腹も立つはずさ」
「なるほど……五区か、せめて一区であればと言う事か」
一人納得する姫野先生。
「はらが……たつ……?」
【残り100mで中川が並んだー! 神園懸命に抵抗する! 黄色い悲鳴が聞こえますっ!】
口にした疑問も、実況を聞き全て解明する。
「零夜にしか、応援が……行かないから……?」
十区、それも上級生のお姉さんが一杯いる校内での勝負。
だからこそ、中川くんは燃え上がった……。
中川くんは零夜への応援を聞いて、逆に闘志を燃やすんだ。
そして相沢さんのそれと似た思いが生まれる。
「こいつにだけは負けないって、思うのね?」
零夜は逆に応援を応援と思ってない。
そこに闘志の差が生まれ……。
【中川ヒールに徹して神園を今、今振り切ったー! 2組が十区で大逆転!】
(土壇場の逆転劇を生んだんだ)
【仙里高校グラウンドを今、凄まじい衝撃が駆け抜けました! 2組の中川、今ゴールです! 優勝は2組! ホンの少しの差、2位に1組神園がコールイン!】
そして灰色の彼の予想通り、零夜は負けた。
【西出と神園を抜き去った中川! 強烈なインパクトを見せ付けました! まさに『駆け抜ける衝撃』!】
未だ熱覚めやらぬ実況が、中川くんを賞賛する。
「『不屈の戦姫』も、生徒会と放送部が主導してつけたネームらしいぜ? 厄介な人達だよ」
あたしについた変なあだ名の謎は解けた。
けれど今のあたしは、そんなことを考える気力すらなかった。
「……どうでもいいわ。零夜の事考えたら、怒る気にもなれないわよ」
けれど灰色が振り返ってあたしを見つめるその眼は、少し責めているようだった。
「『倒れるまで走った高坂さんの事考えたら、私なんて』って言われたら?」
(何こいつ……何で知ってんの?)
「それ、瑠璃の事よ……」
そして、謝る瑠璃の気持ちを考えて労ったあの時のあたしの事。
今の零夜とあたしの立場って、あの時のあたしと瑠璃のそれだ。
「そう苛めてやるな。高坂も先ほど走り終わったばかりなのだ」
姫野先生はそう言ってあたし達の会話を止めた。
* * *
「着いたぞ」
そう言って姫野先生はあたし達を『仙里女子校前バス停』で降ろした。
「すまんが、まだレースが終わっておらん故、緊急車両以外は中に入れんのだ。悪いがここからは歩いていってくれ。私は他の者たちを迎えに行く」
あたしと麻衣は先生にお礼を言い、フィットを見送った。
そしてそれが見えなくなると、灰色の彼と共に門を過ぎる。
彼は 少し足を引きずりながら、そのまま校舎へと歩いて行った。
零夜の負けを予言した彼に、複雑な感情を抱いたあたし。麻衣も同じなんだろう。
彼の脚を心配しても、そこから先の一言が、出なかった。
(『倒れるまで走った高坂さんの事考えたら、私なんて』って言われたら? ……か)
あいつが言った言葉が、あたしの頭を駆け巡っていた。
(あたしは零夜に、何て言えば良いのよ? ねぇ、灰色……教えてよ)
彼が校舎に隠れて見えなくなると、ようやく解き放たれたように言葉を取り戻した。
「……いこ、弥生ちゃん」
重い気持ちを引き摺って、あたし達はグラウンドへ向かった。
「零夜さん、どこだろ?」
「あそこに本田さんと野元がいるし、1組はあの辺りじゃない? 行くよ麻衣」
グラウンドの隅、周りには1組の生徒と、見た事のない生徒。
その中心に、へたりこんだ零夜と、大の字にくたばる中川くんがいた。
見た事のない生徒はきっと2組の子なんだろう。
お互いの健闘を称えあうように言葉を交わす2人。
青春の一ページとはこういう事を言うんだろう。
だけどその2人に掛ける言葉が見つからない。
灰色の彼が言った通り、九区のあたしはこんな存在だったんだろうか。
負けてしまった零夜に、何て言えばいいんだろう。
「お、お疲れ様でした零夜さん! あ、あの……ざ、残念……でした」
勇気を振り絞った麻衣の声も、この場の空気を更に沈ませるだけにしか思えなかった。
「零夜……」
名前を呼んでもその後が続かない。
何も出来ずに佇んでいたあたし達を動かしたのは、背後から聞こえた相沢さんの声だった。
「結局オレより目立ちやがって……これだから男子はっ!」
振り返れば、相変わらず彼女は怒り心頭の様子。
疲れ果てている2人に気遣いの言葉などなく、むしろ罵声すら飛ばす勢いだった。
「まぁそう言うなよ相沢。十区は男子って決まってたんだしよぉ」
「悪いね相沢さん。君の敵意は気付いてたんだけど、我慢してくれないかい?」
当の2人は全く気にする様子もなく、逆にいなす余裕すら見せた。
「お前ら男子が陸上部に居るから、女子が腑抜けちまうんだー! 今日はそれを叩きのめすチャンスだと思ったのにーっ! むがああああ!」
彼女が零夜や中川くんに敵対意識を持っていた理由はそれだったのか。
「まあまあ、九区では快走したみたいだし、それで納得してよ相沢さん」
「わーってるよっ! ちっくしょー! けどよー、九区じゃ戦姫に一杯食わされるし、覚えてろよお前らっ!」
(ねえ、それ……)
「あたし関係なくない?」
思わず呟いたあたし。
「関係なくねーよっ! 中川も神園も一目置く『戦姫』とありゃー、オレには男子と同罪なんだよっ!」
振り向いてあたしに牙をむく相沢さん。
けど『同罪』は酷い。少なくともあたしは陸上部の女子に迷惑なんてかけてないし。
「何よそれ! 八つ当たりも良いとこじゃないのよ!」
そこから先はひたすら罵詈雑言の応酬。
慌ててあたし達の間に入る零夜、少し遅れて中川くんも仲裁に入る。
「まぁまぁ弥生ちゃん。おっ、麻衣ちゃんも! 2人とも俺の活躍見てくれたっ!? あ、弥生ちゃんは九区か。いやー弥生ちゃんも相沢顔負けの激走だったみたいだなぁ」
いつの間にかあたしを下の名前で呼んでる中川くん。
そんな彼に、あたしと相沢さんはすっかり毒気を抜かれてしまっていた。
いつの間にか吹き飛んだ暗い気持ち。
それに気付いて、ふと思った。
(そっか……零夜に掛ける言葉って、同情の言葉じゃなくて、いつも通りで良いんだ)
あたしと麻衣は顔を見合わせた後、言った。
「零夜、お疲れ様!」
「お疲れ様でした、零夜さん!」
(これで十分なんだ。零夜が一番欲しい言葉は、慰めなんかじゃないんだよ)
「ああ。弥生も国崎さんも、お疲れ様」
(下手な気遣いはいらない。そうでしょ? 灰色)
多分正解だったんだと思う。
零夜も嬉しそうに言葉を返してくれたから。
(相沢さんの噛み付きもそうだったのかな。だったら……)
「弥生ちゃんどうだ? 陸上部に入んねーか?」
笑いながら言う中川くんも、明るく振舞おうとしていたのかもしれない。
(あたしもこの雰囲気に酔っちゃえばいいんだよ)
だから、少し悪戯っぽい笑いを作って、あたしは言った。
「今ちょっと禁句を口にしたわよ、中川くん」
「中川! おまっ! 馬っ鹿!」
ほら、相沢さんが顔を引きつらせてる。
「中川くーん? この『不屈の戦姫』高坂弥生を陸上部を勧誘したいなら」
あたしをじっと見つめる零夜と中川くん。
相沢さんはちょっと震えてる。合掌。
「「したいなら?」」
先の言葉を、緊張の面持ちで待つ十区の2人。
けれど一番美味しいところは……。
「中川さんも零夜さんも、ちゃんと魔女にお伺いを立ててくださいね?」
あたし以上に空気を読める麻衣が、しっかり奪っていった。
「ちょっ! ちょっと麻衣ーっ!」
私以上に悪戯っ子っぽく笑い、軽い足取りで逃げ出す麻衣。
(麻衣も暗い気持ちを、何とか吹き飛ばそうとしてたんだよね)
だからあたしも、笑いながら麻衣を追いかける。
「あー、弥生ちゃん科学部だっけなぁ……そりゃ無理、諦めるわ!」
あっさり引き下がる中川くんは笑っていた。
あたしと麻衣を見る零夜も、やっぱり笑っていた。
けれど、笑えない人が1人居た。
「オレ、それを姫野先生の目の前で口にしちまったんだぞ!」
「相沢……心中お察しするぜ。お前魔女のクラスだろ?」
お察しされてしまった相沢さんは、神に縋らんが勢いで叫んだ。
「勘弁してくれよぉぉぉおおぉお!」
魂の叫び。
今日はあたしじゃなくて相沢さんの番。
でも、こういうのも、たまには良いよね?